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8.正のフィードバック

 (編集記者・鈴谷凛)

 

 環田町に宿泊した日、深田さんを除けば、朝起きるのが一番遅かったのはわたしだった。紺野さんも、山中さんも、里佳子ちゃんですらもわたしよりも先に起きていた。深田さんは、夜遅くまで実験をしていたのだから仕方がない。実質、一番だらしがないのはわたしという事になるのだろうか。

 信じられないのは、紺野さんだ。

 誰も訊いていないから分からないけど、紺野さんはもしかしたら徹夜しているのかもしれず、少なくともかなり遅くまで起きて実験をしていた事は確かなのだ。が、にも拘らず、むしろ彼は他の皆よりも元気に見える。昨日あれだけ働いていた事を考えると、凄まじいバイタリティだと言うしかない。

 ただ、このバイタリティは、恐らく純粋に日下さんを助けたいという思いのみから発しているものではないだろう。なんだかんだ言っても紺野さんは研究好きの、好奇心旺盛な科学者なのだ。きっと、秘密を解き明かしたくてウズウズしているのだと思う。この活力はその欲望から溢れているのだ。

 朝食を早々に済ませると、わたし達は車に向かった。実験結果が出て、それが芳しいものだったらしい事は聞いた。ただ、どんな結論に達したのかは聞いていなかった。だからわたしは、一体何処に向かうつもりで何をするつもりなのかと、そんな疑問を思ったのだ。多分、他の人間も同じ疑問を感じていたと思う。そして、車に全員が乗り込むなり紺野さんは言った。

 「これからまた昨日の海に向かいます。ただし、実験の続きをしようというのではありません。まだまだ、続けてみたい実験である事は確かですが、今は時間がない。

 実は、くまさんが昨日からずっと海の中のナノマシン・ネットワークに興味を抱いているのです。どうも、何か妙な“もの”が存在しているようでして……」

 言い終わると、紺野さんの代わりに運転席に乗っている山中さんが車を走らせ始めた。もしかしたら、それで初めて彼女も行き先を知ったのかもしれない。実は、紺野さんには少しこんな所がある。意図的なのか無自覚なのかは分からないが、要点を直前まで伝えなかったりするのだ。

 何にしろ、行き先は分かった。けど、それだけの説明では、わたしはちょっと不服だった。昨晩の実験結果で、何が分かったのかそれを教えてもらいたい。日下さんを助けられる手段はあるのだろうか? すると、山中さんも同じ気持ちだったのか、運転をしながらこう紺野さんに尋ねた。

 「昨晩の実験で分かった事、後で教えてもらえるのですよね?」

 紺野さんは頷く。

 「もちろんです。くまさんが海の中のナノマシン・ネットワークにダイブしている間で、多少時間があるでしょうから、その時に説明するつもりでいますよ」

 わたしはそれを聞くと、間髪入れずにこう質問をした。

 「それで、日下さんを助けられる可能性はあるのでしょうか?」

 一番、重要な点はそこなのだ。

 すると、紺野さんは細い目を更に細めてこう言った。

 「すいません。正直に告白すると、それはまだ何とも言えないのです。昨晩の実験結果で、今回のナノネットの正体らしきものはつかめました。ただし、それは日下さんの居場所を突き止めたり、問題を改善するのに役立てられる可能性に、直接は結び付くものではなかったのです」

 わたしはそれを聞くと驚いた。そして、ほとんど反射的にこう口を開いていた。

 「なら、こんな事をするのじゃなくて、なんとか日下さんの居場所を探す努力をした方がいいのじゃないですか?」

 多分、紺野さんが自分の好奇心を満足させる為に、海に行こうとしていると感じてしまったからだろう。

 すると紺野さんは、とても落ち着いた口調でこう返してきたのだった。

 「安心してください。確かに直接結び付きはしません。ただし、くまさんが探り当てようとしている“もの”が、私の直感しているものと同じならば、日下さんを助けられる可能性があるのです。実験よりも、くまさんの探索を優先させた理由はそれですよ」

 そう説明されても、わたしはまだ不安だった。しかし、そのタイミングで声がしたのだ。

 「――安心して」

 え?

 それは、里佳子ちゃんの声だった。わたしは少し驚く。くまさんじゃない。里佳子ちゃんの人格の方はとても無口な子供で、滅多に口を開かない。わたしは、彼女がそんなに大きな声を出すのを初めて耳にした。彼女は更に言う。見ると、例のくまのぬいぐるみを、大事そうに抱えている。

 「――この子を信用してください。この子は凄いんです」

 この子というのは、もちろん、くまのぬいぐるみ…… いや、もう一つの彼女の人格“くまさん”の事だろう。

 大人しい彼女が、精一杯にそう言う様子を見て、わたしはここは信用するしかないと思った。そもそも、別の手段は、元々ないのかもしれないのだし。

 その時、わたしは何となく深田さんの方を見てみた。里佳子ちゃんの付き添いで来ているという話を聞いていたから、自然と目が向かってしまったのだ。彼は何とも言えない表情を浮かべていた。ショックを受けているような、それでいて安心をしたような。

 皆の態度から、深田さんと彼女の間に、複雑な事情があるだろう事は察していた。山中さんは、深田さんが里佳子ちゃんを治療しようとしているのだと言っていたが、ナノマシンの専門家である彼の治療とは、くまさんに関わる何かである可能性が大きい。

 深田さんは、今の里佳子ちゃんの発言を受けて何を思ったのだろう?

 

 車が、昨日の海岸に辿り着いた。

 里佳子ちゃんは車が停止するなり、外へ飛び出して、岩場を目指した。そして、直ぐに波が打ちつける場所まで辿り着くと、カクンと首を垂らした。恐らく、くまさんになったのだろう。

 「今回の調査には、紺野さんは参加しないのですか?」

 ちょっと不思議に思ったわたしは、そう尋ねてみた。

 「もちろん、それをしたいのは山々なんですがね。今はくまさんの邪魔をしたくないのですよ。装置を取り付けると、くまさんの方にも負荷がかかりますから、それだけスピードが遅くなる。関与は、ここから彼女が海に落ちないように見守っているくらいに留めておいた方が無難だと判断しました。より早く解決しなくてはいけませんしね」

 里佳子ちゃんは、様々な角度にくまのぬいぐるみを向けて、しきりに探索を行っているようだった。

 しばらく見守り、大きな動きがないのを確認すると、紺野さんは再び口を開き始めた。

 「さて。約束です。昨晩の実験で、何が分かったかの説明をしましょうか。まず、あの実験装置で起こった現象から話しましょう。

 あの実験装置の中に、私はたくさんの生物を入れました。体内のナノマシンを殺してからです。そして、その上でもう一度、ナノマシンを注入し、この付近に存在しているデータを流し、そのネットワーク上で何が起こるのかを観察したのです。

 まず分かったのは、このナノマシンは情報をそれほど長い間保持しないという点です。ただし、それはデータが少ない場合に限りの特性なようでした。データ量が多くなると何故かデータ保持の期間も延びる。そしてデータ量が増える事によって起こる特性の変化はそれだけではありませんでした。なんと、データを吸い寄せる力も強くなるのです。すると、何が起こるでしょうか? 前に一度説明した事があったと思います」

 山中さんを見てみたけれど、何かを発言する様子がない。彼女は答えを分かっているのかもしれない。もちろん、深田さんは知っているのだろう。それでわたしは、その質問は自分に振られたものだと判断した。

 「データが存在すればするほど、データを吸い寄せる力が強くなる… これは、前に聞いた人口が多くなればなるほど、人口が集中する力が増して、やがて都市が形成されるという“正のフィードバック”と同じですね」

 そのわたしの回答を聞くと、紺野さんは大きく頷いた。

 「素晴らしい。その通りです。つまり、このナノマシン・ネットワークは、“正のフィードバック”の作用によって、情報を一部に集中させる機能を持つようなのです。

 さて。ここで日下さんの身に起こった事を振り返ってみましょうか」

 「……なるほど。日下さんは、何らかの理由でナノマシンを取り込んでしまった。この町のナノマシンは、他の地域にも普通に繁殖しているようだから、確率的にそんな事も十分に起こり得る。そして、それと同時にある程度の量の情報も保持してしまった…… 後は、正のフィードバックによって、情報を人間関係のスモールワールド・ネットワークから、集めていった。それが、人込みにいる時に起こっていた、例のフラッシュバックですね」

 わたしは紺野さんの語りを受けると、独り言のようにそう呟いた。紺野さんはわたしがそう言い終ると説明を続けた。

 「はっきりと映像としてそれを自覚できる人は、もしかしたら滅多にいないかもしれませんが、他の人にもそれと同様の現象が起こっていたと考えるべきでしょう。そしてそれが“人を吸う町”の都市伝説を形成する母体となった。

 人間社会に広く分布し拡散している情報は、恐らく膨大なものだと考えられます。それを充分な量集められる人は稀なはずですが、人間社会のスモールワールドという特性と、人口量を考えるのなら、確率的に何年かに数人の割合で、そんな人が現れるはずです」

 ……つまり、それが日下さんだった、と。

 そこまでの説明が終わると、今度は山中さんが疑問を口にした。

 「話は分かりましたけど、でも、どうして私達は、この町に吸われてしまわないのでしょう? それが分からないのですが」

 すると、紺野さんは言った。

 「それも、正のフィードバックですよ」

 「え?」

 「私達がこの町にいても、吸われてしまわれないのも、正のフィードバックの作用によるのですよ。私達がナノマシンを取り入れても、保持している情報量自体は少なく、データを吸収する力が相対的に弱いのです。この町には、データの蓄積量が膨大な人ばかりが溢れているのでしょう? むしろ、外の地域よりも私達にデータは蓄積し難いはずです。だから、普通の人がこの町を訪れても、ナノマシンによって、この町に吸われる事は起こりません。

 因みに、データの蓄積量には最大値があるようです。だから、正のフィードバックによるデータの集中化はある程度で止まります。都市部への人口集中に限界があるのと同じですね。その為に、この町にいる人達の間では情報交換が少ない」

 わたしはそれを聞いて、「なるほど」と頷いた。そして、取り敢えずの紺野さんの説明は、これで終わりなようだった。

 「よく、できていますね。でも、まだ分からない事があります。その仕組みは、誰かが意図的に考え出したものなのでしょうか? だとすると、その目的は何なのか…」

 都市伝説の上では、今回問題となっているナノマシンを進化させ、世間にばら撒いたのは生態学者の海原真人氏という事になっている。その彼がそれをしたのだろうか?

 「意図的かどうかは分かりません。世界には、意図的なものであるとしか思えないのに、実は誰も設計者がいない、といった現象が散見していますから。例えば、生命現象のように。これも偶然の産物である可能性は捨てきれない。

 個人的な意見としては、ある程度は意図的に、残りは偶然の産物、と捉えています。ま、どうであるにせよ、もう少しでその説明を聞ける事になるかもしれませんので」

 え? それは、どういう事?

 わたしはその発言に驚いてしまった。くまさんの探索と何か関係があるのだろうか? 先に言っていた、紺野さんの直感とは何なのだろう?

 紺野さんはわたしの質問にそう答えると、視線を移した。移した先には里佳子ちゃん……、否、くまさんが立っていた。いつの間に近くに来ていたのだろう?

 「見つかりましたか?」

 紺野さんがそう尋ねると、くまさんはこう答えた。

 「大体ノ、場所ハ、把握した。

 一番、濃イのは、アソコだ」

 くまさんは、くまのぬいぐるみの手で、少し遠くの海を指した。

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