6.間抜けな迷宮
(研究員・深田信司)
どうして、こんな事になってしまったのだろう?
それは明らかに、いつもの自分の行動パターンではなかった。こんな面倒くさそうな事に首を突っ込むだなんて。確かに、森里佳子の今の担当は僕だ。でも、正式な契約関係がある訳でもないし、全てを任されている訳でもない。第一、担当と言っても何の担当なのかいまいち分からないし。早い話が、自分の範疇外だと投げ出してしまっても良かったんだ。今回の件については。
「緊急事態なんです」
彼女はそう言っていた。彼女、山中理恵さんという女性は。
森里佳子のもう一つの人格。ナノマシン・ネットワークによって形成されたそれを解放して欲しい。そして、その上でその人格…… くまさんと呼ばれているらしいその人格の、ナノネットに対するハッキング能力を使わせてもらいたい。
彼女の願いはそんなものだった。どうして彼女が僕の所属している研究所を知っていたのかは分からない。以前に森家を訪れた時に知ったのか、それとも、紺野秀明の顔の広さを利用したのか。
研究室にいた時、電話でその話を山中さんから聞き、僕は正直困惑してしまった。何かのっぴきならない事情がある事は何となく分かった。でも、それでくまさんを開放していたなら、森里佳子の治療、ナノネットの除去は永遠に不可能だろう。そんな事態がこれから何回あるのか分からないのだし。
だけど、その時の僕は森里佳子のナノネット退治を治療と呼んでしまう事自体にそもそも疑問を感じていた。もちろん、以前、山中さんに会った時に、彼女に言われた事が頭から離れなかったからだ。自分が認識する常識を正しいとする傲慢な前提。権威による子供の支配。森里佳子の中にあるナノネットの否定は、そのまま、彼女の否定を意味する。
――本当に、ナノネットの退治が、森里佳子の為になるのだろうか?
いいや。或いはそれだけだったなら、一時的にくまさんを開放する事に、僕は素直に同意していたかもしれない。山中さんによれば、森家の両親は僕に判断を任せると言ったのだそうだ。我ながら信頼されているものだと思う。「仕方ない事情だったから」、とそう言ってしまえば言い訳は簡単だろう。
しかし、何故だか僕にはそれができなかった。その理由は、その時は分からなかったけど、何となく、森里佳子と子供の頃の自分を重ねていたようには思う。そして、紺野秀明という人間に対する興味。
彼の出した“答え”。
(或いは、僕はその答えが知りたかったのかもしれない)
面倒くさいと切り捨てられなかったのは、もしかしたら、それが僕の行動パターンの形成に深く関わっていたからなのかもしれない。面倒くさいと、直ぐに物事への関わりを避けようとする僕の傾向を作り出したもの。なんとなく、自己言及のパラドクスっぽいけど。
(どうして僕は“面倒くさい”と言ってしまうような人間になってしまったのだろう?)
自分探しなんて言葉を使うつもりはない。だけど、その先を見てみたいとは思った。僕という人間に、その先があるのなら。
……山中さんから、その依頼をされた時、僕は自分が付き添う事を条件に、森里佳子の中の別人格“くまさん”の開放を約束したのだった。その場で、研究室の方には休みの許可をもらった。森里佳子絡みで、しかも紺野秀明の依頼だと知ると、室長は簡単にそれを認めてくれた。
次の日の朝、森家に辿り着いた時、既に他のメンバーは集まっていた。目的地に向かうのに都合が良かったので、森家を集合場所にしたのだ。山中さんと、今回の件の関係者だという鈴谷さんという出版社に勤める女性、そして、あの紺野秀明… 彼らは森家の近くに車を停めて僕を待っていた。
紺野さんは想像していたのとは全く違った雰囲気の人物だった。どうしてか、僕はもう少し厳つい人間を想像していたのだ。
「どうも、よろしくお願いします」
紺野さんは、僕のような若者、しかも自分の決断に反するような行動を執っている生意気な人間にも礼儀正しく、そして柔らかく接してくれた。緊張感を抱かせるような態度がないので、構えていた僕は思わず拍子抜けをしてしまった。とても権威ある人間には思えない。
僕がどうするべきか迷っていると、紺野さんは続けてこう言ってきた。
「まだ、詳しい事情は知らないとは思いますが、緊急事態です。一刻も早く、現場に赴き調査を行いたい。目的地に向かう途中で、詳しく説明しますから、どうか、里佳子ちゃんを連れてきてはくれませんか? 知っているとは思いますが、私は森家の両親からあまり信用されていないもので、まだ顔を見せていないのですよ」
丁寧な物腰でお願いされた事に、妙な居心地の悪さのようなものを感じつつも僕は、ゆっくりと頷くと、森家へと向かった。
森家の母親は、淡々とした様子で僕を迎える。もしかしたら、僕の態度に表れてしまっていたのかもしれない。既に予感しているのか、諦めているような表情をしていた。或いは、この母親も本当は自分達の決断を疑っているのかもしれない。自分達は娘を苦しめているだけなのではないか?と。
「人を救う為です。今回は、仕方がないと僕は判断しました」
僕がそれだけを言うと、何の反対もせずに「分かりました」と、母親はそう言った。そのまま、僕は森里佳子の部屋へ行く。彼女は僕が入ると、不安そうな目でまじまじと僕を見つめた。
僕は安心させる為に、笑顔を無理に作るとこう言った。
「君の“くまさん”の眠りを覚ましてあげるよ。一緒においで。紺野さんが、君を必要としている」
それを聞くと、里佳子ちゃんは驚いたような表情を見せた後で、それから、にっこりと笑った。初めて、僕は彼女の笑顔を見たかもしれない。
外へ出ると、紺野さんの車へと僕らは乗り込んだ。大きなワゴン車で、僕の持って来た機材も積む事ができた。里佳子ちゃんは慣れているのか、少しも怯える様子も見せずに車へと乗り込んだ。僕は、複雑な心持ちになる。自分には心を許してない彼女が、紺野さん達には懐いているように思える。やっぱり、僕は間違っていたのだろうか?
車に乗り込むと、僕は例の装置を使って、里佳子ちゃんの中に眠るナノネットの不活性処理を解除した。
装置を見せた時、里佳子ちゃんは少しだけ怯えたような顔つきになったけど、山中さんが「安心していいのよ」とそう言うと、幾分か落ち着いたようだった。怯えた表情が完全になくなった訳ではなかったけれど……
ナノネットの不活性を解除しても、くまさんは現れなかった。ただ、紺野さんが「どうだい? 里佳子ちゃん」と尋ねると、彼女は大きく頷いた。どうやら、“くまさん” ……森里佳子の中のナノネットは、復活したようだった。彼女にはそれが分かるのだ。
車中。約束通り、紺野さんは、何が起こっているのかを、そして、どうしてくまさんの能力を借りなくてはならないのかを、僕に説明してくれた。
まず、日下という男性の身に、自分の精神が侵食されていく奇妙な現象が起こったのだという。そこで、紺野さんは日下という男性の検査を行った。すると、体内からナノマシンが検出された。しかも、奇妙な進化を遂げた、スタンダードなタイプとは異なったネットワークを形成するものだったらしい。
異変はまだ続いた。
日下という男性に、“あるはずのない記憶”が存在している事が分かり、その記憶はどうやら環田という町に近い、海のものだった。更に、その環田町には人を吸うという都市伝説が絡んでいるらしい。調査の結果、この町には日下という人物の体内から検出されたナノマシンと同種のものが蔓延しているらしい事が分かった。
そこで紺野さん達は、今回の事件には何らかの形でナノネットが絡んでいると考えた。が、そのタイミングで日下という人物が失踪してしまったのだという。環田町の近くをリゾート地にする決定をした県知事への怒りの文章を残して。
「……日下さんの足取りを調べようにも手掛かりがありません。まぁ、幸い、知り合いに探偵をしている者がいるので、一応、その人に頼んでおいたのですが、期待はしない方がいいと考えました。事情が特殊過ぎますから。それに、もし発見できたとしても、根本の問題は残ったままですしね。そこで我々は、この事件に絡むナノネットの正体を探ろうと考えたのですよ。ただし、時間がない。できるだけ迅速な手段を執らねばならない」
そこまでを語ると、紺野さんは里佳子ちゃんをチラリと見た。それから、少しだけ笑うとこう続ける。
「あなたは僕の報告書を読んでいるだろうから、知っていると思いますが、彼女の中のナノネットには、ハッキング能力があるのです。まぁ、報告書の内容からだけでは、そのレベルまでは想像付かないと思いますが、きっと驚くと思いますよ。彼女のそれは、最新鋭の機器にも劣らない」
くまさんに対する賞賛の言葉。
それを聞いて、淡々と僕はこんな風に思った。だから紺野さんは、森里佳子の中のナノネットを消去しなかったのだろうか?
「だから私が、ナノネットを消去しなかったのだと疑っていますか?」
え?
しかし、そう僕が考えると、そこに紺野さんはそんな言葉を被せてきたのだ。少し驚いた。まるで悟りの怪みたいだ。だけど、ちょっと考えると別に不思議でも何でもないと直ぐに分かった。僕が森里佳子の中のナノネットを消去しようとしている事は、紺野さんも知っている。そんな説明をすれば僕がそう考えるだろうと簡単に予想できるだろう。
「もちろん、それは理由の一つではあります。ですが、全てではありません」
全てではない? じゃ、他の理由って一体何なんだ?
そう疑問に思いはした。けど僕は、その後を質問しなかった。今、この場には里佳子ちゃんがいる。それに、山中さんや鈴谷さんも。深刻な話は相応しくないと判断したんだ。
そう僕が判断する事は予想していたのか、紺野さんは澄ました顔で車を走らせた。
紺野さんはしばらく行くと、車を駅の近くに停めた。大き目の駅で、多少人が多い。通勤ラッシュとは言わないが、朝の混む時間帯である事も影響しているのだろう。
「さて。取り合えず、この場所でハッキングを行います。人の数もちょうど良いように思いますし」
そう言ったのは紺野さんだった。それを聞くと山中さんが疑問の声を上げる。
「この駅でですか?
環田町に行ってじゃなくて」
紺野さんは液体の入ったプラスチック製の容器を取り出しながら、それに答える。
「今回のナノマシン・ネットワークは非常に規模が大きいと考えられます。これだけ規模が大きいと、統一された意思のようなものを持っているとは考え難いのですが、だからこそ、調査は非常に困難です。環田町からでは全てを把握する事は難しいでしょう。
その為に、境界線だろう位置を大雑把に予想して、情報の出入りを調べていく必要があるのですよ。もし、私の予想した通りに、今回のナノネットが情報を集めているのだとするのなら、情報が環田町に向けて移動している様が観察できるはずです」
「ソレがサンプルか?」
紺野さんが説明を終えるのと同時だった。里佳子ちゃんが… いや、“くまさん”がそう声を発した。声の質が変わってる。皆、彼女に注目する。全員、多少は驚いているようだったが、中でも鈴谷さんは分かり易かった。この人は、里佳子ちゃんの人格交換を初めて経験するのかもしれない。
里佳子ちゃんは俯き、顔を見せていない。そして、まるで人形劇のようにして、くまのぬいぐるみを操っている。ぬいぐるみは、どうやら紺野さんの手に持っているプラスチックの容器を指しているようだった。
「そうです。察しが良くて助かります。この中にサンプルのナノマシンが入っているのです。これから、このナノマシンのネットワークにハッキングしてもらいたい。この辺りに散らばっているはずです。もっとも、今回はしっかりとしたネットワークが形成されていると期待しない方が良いですが」
紺野さんがそのサンプルを渡す。くまさんはそれをぬいぐるみの腕で受け取る。両腕でそれを掴んで動かなくなった。サンプルの情報を取り込んでいるのかもしれない。紺野さんはその間に、機器の用意をしていた。コードをくまさんや里佳子ちゃんに繋ぎ、機器類と結び付けていく。
しばらくが経つと、いきなりくまさんが動いた。
「終わったゼ」
それを聞くと、紺野さんは軽く頷く。そして、用意していた画面を見入る。その瞬間に、機器類が一斉に稼動し始めた。
ナノマシン・ネットワークは微妙に専門外な所為なのか、それとも、元々紺野さんの使っている機器類が特殊なのか、それらは僕も初めて目にするものだった。
画面にたくさんの点… ノードが現れ、リンクが繋がり、ネットワークが表現されていく。ただし、それらのネットワークはダイナミックに変動していた。ただのシミュレーションじゃない、現実世界のネットワークを、リアルタイムで検知しているのだろう。並行して傍らの機械が、それを高速で計算している。どういった分析手段を用いているのか、僕は少し興味を持った。もっとも、機密事項だろうから教えてはもらえないだろうが。
やがて、その画面をじっと見つめながら紺野さんが言った。
「おかしい。情報の出入りの流れが、ほとんど見られません。密に形成されている人間社会のネットワークと、ナノマシンの特性を考えるのなら、短期間で激しい情報の流入流出が観察できるはずなのですが」
しばらく見続けている内に、僕は少しなら何となく、それらの見方を予想できるようになっていた。
それで、ついこんな事を言ってしまった。指で画面を指し示しながら。
「あの……、情報の出入りなら行われているのじゃないでしょうか?」
ノードとノードの明滅、情報の行き来は行われているように思えたのだ。すると、紺野さんはこう答えて来た。
「いえ、これは飽くまで局所的にランダムに行われる情報の出入りです。私が見つけられるだろうと予想していたのは、環田町方面への情報の大きな流れなのです」
紺野さんは険しい表情になった。そして、こう呟く。
「どうやら、考えを改めなくてはならない事態になったかもしれません」
それを聞くと、山中さんがこう言った。
「あの、もしかしたら、観測が巧くできていないだけではないのでしょうか? くまさんも、まだ目覚めたばかりですし、今回はしっかりとしたネットワークではなく、途切れ途切れに繋がったり離れたりする類のものなのでしょう?」
ところがそれには、くまさんが反論した。
「ソンナ事はネェ。確かに、トビ難いネットワークだガ、思ったヨリも、随分とウマクやられていると思うゼ」
それを受けると紺野さんも頷く。
「はい。私も飽くまで印象ですが、思ったよりもかなりしっかりと検知できていると判断しています。しかし、にも拘らず、予想していた情報の流れが観えない…」
しばらく考えると、紺野さんはこう言った。
「次に行きましょうか。時間はないのです。悩んでいても仕方ない。また、駅ですが、そこでもやってみましょう」
しかし、結果は変わらなかった。何地点かで試してみたけど、紺野さんが予想していた情報の流出は確認できなかったのだ。そうして、結局、その謎は解けないまま、僕らは直接環田町で調査を行う事に決定をしたのだ。
時間はない。予測の立て直しをしてから、調査をしている暇はなかったからだ。
「危険はないのですか?」
険しい表情をしている紺野さんに向けて、僕はそう尋ねてみた。僕らだけなら仕方ないと言えるかもしれない。しかし、この車には里佳子ちゃんが乗っているのだ。危険な目に遭わせる訳にはいかないだろう。すると、紺野さんはこう答えて来た。
「心配はいらないと思います。先にも言いましたが、今回のナノネットに統合された意思のようなものがあるとは考え難い。ハッキングされている事を、検知される心配すら、いえ、その前に、検知する主体すらないのではないかと思います。環田町は平和な町らしいですし。それに、このナノマシンの特性は調べてありますから、ネットワークの消去も簡単に行えます。いざとなったら、簡単に逃げられるはずです。ですが念の為、この車から大きく離れる事は避けましょうか。それよりも私は、日下さんの行方を知る手段がなさそうだといった事を気にしています。
私は、情報が集められているのなら、そこから日下さんの行方も知る事ができると考えていたのですよ。くまさんを頼ろうと考えたのは、その為でもあったのです。くまさんのハッキング能力なら、集められたデータの中から日下さんの情報を探る事も可能でしょうから」
僕は、そう苦悩する紺野さんを見ながら、複雑な心境に陥っていた。紺野さんを、僕は頼りになる人物だと考えていた。実際に会う前も、会った後も。しかし、その紺野さんが今、苦しんでいる。
自分は、この紺野さんに何を見ている? いや、何を見ようとしている?
分からなかった。
反発する対象でもない。しかし、従うべき対象でもない。弱さを晒す怯えが全くない紺野さんを、そんな風な基準で捉えようとしている自分が、なんだか、とっても恥ずかしい存在であるように思えた。
この思考に、多分、出口はない。なんて…
…なんて、間抜けな迷宮なんだろう。