4.六次の隔たり
(怪談ルポライター・山中理恵)
「この町は、本当に綺麗に保たれている。断っておくけど、外観だけを言っているのじゃないよ。人の生活が、自然の循環の中に組み込まれていてね、生態系の一部になっているのだよね。その調和が美しいんだ。
東洋の環境概念は、人間社会を自然の一部として捉えるのだけど、その理想に向けて歩んでいる町だともで言おうかな。生態系と影響を与え合って、人々の営みがあるんだ」
「はぁ」
その語りが始まってから、もう随分と時間が経っていました。この町についての聞き込みをしている内、詳しく話をしてくれるお爺さんがいるというので訪ねてみると、それはもう必要以上に長時間話してくれたのです。初めは熱心に話を聴いていたのですが、流石に飽きてきてしまった私は、なんとか話を別の方向を変えられないかとこう問い掛けました。
「お爺さんは、どれくらい前からここに住んでいるのですか? お生まれになった時から?」
「いやいや。オレは途中から引っ越してきたんだ。三十代の後半辺りでな。ここの自然に魅せられて、ここしかないって思った訳なんだよ。
もっとも、その頃は、まだこの町も自然と調和しているとは言い難かったがなぁ」
――私がやって来たのは、千葉県の房総の南にある環田という海辺の町でした。ある都市伝説の記事を書く為に、取材に来たのです。怪談好きの私は、そのお陰でというか何というか、怪談に関する記事を書く仕事を時々依頼されるようになっていて、今回もそういった関係の仕事でした。プロの都市伝説研究家の方達に比べれば甘いのかもしれませんが、私の他にも似たような経緯で依頼を受ける人は多いのです。それで多面的な意見を集められるので、もしかしたら素人に頼む方が面白いのかもしれません。
ただ、今回のこの仕事は、なんだか経緯が妙なのでした。今回、私に仕事を依頼してきたのは鈴谷さんって女編集記者なのですが、彼女は今回のこの都市伝説に関しては、触れないでおく事に決めたとか、確か随分前に言っていたように思うのです。面白い記事になるかどうか分からないし、下手すれば名誉毀損になってしまうかもしれないから、と。ですが、今更になって取り上げるというのです。しかも、紺野さんが私に依頼した方がいいと言ったのだとか。紺野さんが絡んでいるとなると、ナノマシン・ネットワークが関係しているとしか考えられません。
それで私は、ナノマシン・ネットワークの存在を多少は警戒して町を訪れたのです。ですが、その私の警戒心に反して、町はとてものどかだったのでした。怪しい気配は微塵もなかった。
「オレがこの町に来てから、ここの人達の生活は随分と変わっていったんだよ。自分達と環境との関わりを気にするようになったてぇかなぁ。
海にしろそうだ。漁業ってのは、単純に魚を獲るだけのものじゃない。自然に影響を与え続ける営みなんだな。分かるか。無闇に水産資源を搾取し続けたなら、バランスが崩れて枯渇して結局は自分たちが困る事になる。人間は力を持ち過ぎたんだな。だから、何も考えずに力を使い続ける訳にはいかない。自然との調和を考えなくちゃ、やっていけないわけよ」
町に着くと、雑誌の取材だと言って暇そうな売店やなんかの人達に話を聴いて回っていたのですが、何人目かで、町について詳しいお爺さんがいると教わり、このお爺さんに辿り着いたのです。
もちろん、都市伝説に関する記事を書く為の取材だとは言いませんでした。騙しているようで、少々気が引けましたが、悪い記事を書くつもりはない訳ですし、円滑に仕事を行う為には仕方ないでしょう。因みに、この町に関する都市伝説とはこのようなものです。
――人を吸う町の伝説、
過疎化を防ぐ為には、他から人を招き寄せる必要がある。その為に、房総のある町は他の場所から、人を吸い寄せる。その町に見込まれた人間は、町を忘れられなくなり、やがてはその町に移り住んでしまう……。
それは、町全体に意思がありその力によるとも、町に住んでいる人間達の中に魔術を使える人間がいて、その力によるとも言われています。もちろん、都市伝説の常として具体的な場所の特定はない訳ですが、候補のようなものは上がっていて、その内の一番有力な町がこの環田町なのです。実際に、町と呼べる程の人口を維持できている点と、入居者が多い点がその根拠です。ですが……、
「この町はそれを考えられてあるんだ。人間社会を、自然の生態系の輪に組み込めるようにするには、どうしたらいいのか。
自然を支配するってのは、西洋的な発想なんだけどよ。それじゃ駄目って事だな。この町は養殖が盛んなんだけど、養殖ったら実は自然に悪影響を与えるもんでもあったんだよ。農業もこれは同じだけど、自然の仕組みを人間の都合の良いように変えるのだから、確実に環境破壊なんだな。でもよ、それはイコール環境問題になるって事を必ずしも意味しないんだよ。破壊した結果生まれた環境が、調和のとれた生態系になるって事もあるんだ。そして、意図的にそうする事も可能なんだな。
この町はそれを目指したんだよ。そして、今のところは、それを実現できている。苦労もかなりしたけどな」
……ですが、この町に入居者があるというのは単純にここが良い町というだけの話なのかもしれません。お金の為ならば何でもやるという発想がない。焦りというか、貪欲さのようなものがなく、人々が余裕を持って生活しているような印象を受けます。死にやしないんだから、そんなに稼がなくても良いじゃないか、みたいな。一時的に収入を得られても、それでは意味がない事を理解しているのかもしれません。
だったら、ここを都市伝説の噂の町として取り上げる事は誹謗中傷に繋がり兼ねません。記事の内容に気を付けなくては、負の部分にばかり注目がいく。それが世間というものです。社会的に見ても、悪い事をしてしまう結果になるかも。記事として取り上げなかった、以前の鈴谷さんの判断は正しかったという事になるでしょう。でも、ならば尚更、何故今になって彼女は、ここを取り上げる気になったのでしょうか? 私は不思議に感じました。
「だからさ。この町の近くに、リゾート地を作ろうなんてのはさ、この町の人間にしてみたら、とんでもない事なんだよ。今までの苦労が水の泡になっちまうかもしれない。
あんたも、その反対の記事を書くために、取材に来たんだろう? できるだけ、上手く書いてやってくれよ。
ここはいい場所なんだからさ」
へ?
お爺さんにそう言われて、私は少し驚いてしまいました。
リゾート地……。
確かにそんな話があるとは聞いていましたし、多少は調べてもいました。県の開発で観光スポットにする計画があるとか。その為の交通整備だとかに、巨額のお金が動こうとしているとも。ただ、都市伝説には関係がないだろうと然程、重要視もしていなかったのです。
……考え過ぎかもしれませんが、もしかしたら、今回この件を鈴谷さんが取り上げる気になったのは、これがあるからなのかもしれません。リゾート地開発に反対する為の記事を書いてやろう。都市伝説に関する記事でも、書き方によってはそうする事もできます。実は、中々に社会派な女性でもある彼女ならそれも有り得るでしょう。私にその事を話さなかったのは、偏見を持って欲しくなかったからなのかもしれない。
随分と長くかかりましたが、お爺さんの話を聞き終わると、私は町役所でこの町の簡単な歴史を調べてみました。
養殖が盛んになると同時に、自然環境にも配慮するようになり、漁業、或いは農業との連携による共存を実現し、総合的な自然資源の活用に成功してきた。それと共に、人口も増えていき、緩やかながら発展を続けている。
そんな事が書かれてありました。どうやら、あのお爺さんの話は全部、本当だったようです。自然環境というのは、とてもデリケートなものですから、観光スポットになってしまえば、その調和が壊れてしまうという事も充分に起こり得ります。止めておいた方がいいでしょう。
ただ、この開発には政治家や官僚や民間企業なんかが絡んでいて、簡単に覆すことはできそうにないのですが。
公共開発のこういった問題は、時代遅れのような気もしますが、どんな社会でも少し油断すると、簡単に不正な癒着は生まれてしまうものなのかもしれません。
重要なポイントは全て調べ終わったと判断した私は、それで取材を終えて帰りました。結果を報告しようと、鈴谷さんにメールを送ると、何故か紺野さんの研究所に来るようにと言われてしまいました。しかも、次の日です。何だか急だな、と思ったのですが、検査を行っておきたいとの事でした。
………検査?
どうして検査が必要なのでしょう? やっぱりナノマシン・ネットワーク絡みだったのでしょうか?
「説明なくて、ごめんなさいね。いえ、変な偏見を持たせたくなくって…… 普通に記事にもしたいと思っていたから」
少し不機嫌な私の顔を認めたのか、鈴谷さんはそう謝ってきました。紺野さんは少し困ったような表情をしながら、「なに、ナノマシンの特定はできていますから、電磁波を利用して検査ができます。簡単に済みますよ」とそう言いました。別にそういう事を怒っている訳じゃないのですが。
どうも、今回の件は、やっぱりナノマシン・ネットワーク絡みだったようです。ナノネットが関係しているからこそ、万一の場合を考えて、ナノネットの影響を受け難い体質を持つ私に、この仕事の依頼が回ってきたらしいのです。
「私は、もしかしたら、あの町の海が観光スポットにされそうな事への批判記事を書くつもりなのかと思っちゃったわよ」
私が皮肉気味にそう言うと、彼女は「あら、それもいいわね」なんて、調子良く話を合わせてきました。
「いや、今回は日下さんの件で頭がいっぱいだったから、そういうような事まで考えがいかなくてさ」
――日下さん。なんでも、その方が奇妙な体験をしている事が、今回の件の発端らしいのです。人込みの中、少しずつ自分じゃない何かが入ってくる。そして、ある日気が付くと何故か、環田町の海の記憶があった。環田町ではないかと噂されている、人を吸う町の都市伝説と重なります。しかも、日下さんの血液中からナノマシンが検出されたのだとか。ならば、当然ナノマシン・ネットワークの関与を疑うでしょう。そこで紺野さんと鈴谷さんは、私に環田町の取材をさせた。私は取材の最中で、町のナノマシンを体内に取り入れるはず。もし、私の体内から、日下さんから検出されたものと同種のナノマシンが発見されたなら、更に疑いは強くなる。と、どうやら今回の狙いはそんなものだったようです。もっとも、本当に取材目的もあったらしいのですが。
……もしかしたら、取材にすれば交通費なんかが経費で落ちるから、敢えて鈴谷さんはそうしたのかもしれません。ネタも尽きかけていたと言っていましたし、ちょうど良いと思ったのかも。いい加減なものです。
簡単に終わると言っても、それでも紺野さんの検査が終わるまでにはそれなりに時間がかかりました。その間は少し退屈で、暇になった私は思わずこんな話を二人に振ります。
「あの環田町は、本当によく自然との共存を考えて作られている場所みたいでした。海もとても綺麗だったし。私、冗談じゃなくて本気で観光スポットにされる事への批判記事を書きたくなりましたよ。企業と県や国との癒着で実施されそうな計画みたいですから、尚更です。今の時代でも、こういう事ってあるのですね」
紺野さんは、病院にある心電図のような装置を操作しながら、私の発言に返してきました。
「ええ、そうですね。そういった事は、いつの時代でも、どんな制度でも起こり得ます。もちろん、それを防ぐ為の制度が配備されていたりもするのですが、完璧にとはいきません。ほら、ずっと前に説明した事があったでしょう? これは“正のフィードバック”によって起こる集中化現象なんですよ。この場合は、権力の集中が起こっているのですがね」
「“正のフィードバック”によって起こる権力の集中?
それって、何ですか?」
そう質問をしたのは、鈴谷さんでした。彼女は前に説明を受けていないから、当然の疑問かもしれません。
「“正のフィードバック”というのは、結果が原因に影響を与え、それが益々強くなるような現象をいいます。例えば、企業の発展。有名になって認知度が上がると、商売が有利になり、その企業は発展します。そして、企業が発展するともっと有名になり、また商売が有利になる……
これを繰り返していくと、一部の企業に利益が集中する事になりますね。これと同じような現象が、政治の世界でも起こるのです。権力が強くなって利益を得られるような癒着関係を構築する。政治の力を利用して、自分達に有利な法律や条令を作って、それをやり易くもするでしょう。そうすると、利益が得られる事で、益々その組織の権力は強くなる。すると、もっと自分達にとって有利なルールを設定できるようになる。以下、これの繰り返しで癒着構造はどんどんと酷くなっていき、権力が一部へと集中してしまう。
これと似たような現象は、いつの時代でも観られます。権力を握った人間が、自分達にとってのみ有利なルールを設定し、更に自分達の権力を強くし、やりたい放題やる。民主主義のような、選挙などによって、政治に影響を与えられるようなシステムならば、この途中でそれに気が付けば、比較的容易に権力の集中化を防ぐ事が可能かもしれません。しかし、気が付かなければ最悪の結末…… つまり、専制政治のような体制に至ってしまう場合もあります。ヒットラー政権がその好例ですね。民衆が盲目的になったり、無関心になり過ぎたりした場合には特に注意が必要です」
紺野さんの説明が終わると、「へぇ」と、感心したような声を出してから、鈴谷さんはこう言いました。
「なるほど。“正のフィードバック”って厄介な現象なんですねぇ」
すると、紺野さんは少し笑ってから「いえいえ、“正のフィードバック”自体に効果の良し悪しは無いんです。ただ現象を指し示しているだけですから。悪く働く場合もあれば、良く働く場合もあるのですね」と、答えました。
鈴谷さんが不思議そうな顔をしているのを見て、紺野さんは更に説明を続けます。
「例えば、都市などは正のフィードバックのお陰で形成されますし、星の形成も重力が一部に集中する事で起きたものです。また、生態系の形成や、人間関係の形成にもこれは絡んでいるのです… っと」
そこまでを説明したところで、紺野さんは言葉を止めました。どうやら、ようやく検査結果が出たようです。
「検査結果が出ました。やはり、問題のナノマシンが通常よりも多く混入していますね。何かは分かりませんが、これで今回の件に環田町が関与している可能性がより大きくなりました」
それを聞くと、反射的にその言葉に私は疑問の言葉を挟んでいました。多分、あの綺麗な町を、悪モノにしたくなかったからだと思います。
「でも、あの町に行く前に私は検査を受けませんでしたよ? データの比較ができないのだから、そうは断定できないのじゃないですか?」
「確かにそうですね。今回は省略してしまいました。今まで山中さんには、何回も検査した事があって、データにバラつきがそれほど観られなかったからですが、怠慢だったかもしれません。ですが、それでもこれは無視できる結果ではありません。
恐らく、このナノマシンは、人間関係のネットワークを使って“何か”をやっているのでしょう。私はそう予想します」
紺野さんにそうまで言われてしまっては、流石に私は何も返せませんでした。すると、そんな私の様子を見てか、紺野さんはニッコリと笑って、「安心してください、あの町が何か悪い事をやっているとは限りませんよ」と、そう言いました。どうも、私の思考は見抜かれていたようです。
「人間関係のネットワーク…… 確か、以前にもそんな事を紺野さんは言っていましたよね?」
今度は鈴谷さんが、紺野さんにそう問い掛けました。それを受けると、少し間を挟んでから紺野さんは口を開きます。
「六次の隔たり…… という言葉を聞いた事はありませんか?」
鈴谷さんと私は首を振りました。そんな言葉は初耳です。
「スタンレー・ミルグラムという有名な社会心理学者がいます。彼は、極めて独創的な実験手法によって名声を得た人物なのですが、その彼の行った実験の一つに、スモールワールド実験というものがあります。簡単に言ってしまえば、人間関係のネットワークが、どれくらい離れているのかを確かめる為の実験ですね。
多数の人に手紙を配り、直接の知り合いにしか手紙を渡してはいけないというルールで、手紙をある人物の許に届ける試みを行う。何人を介せば、最終的な人物に辿り着くかを実験したところ、平均して六人を介すれば充分である事が分かった。つまり、知り合いの知り合いの知り合い… とやっていけば、約六回で全世界のほぼ誰とでも繋がる事ができる、というのです。これが“六次の隔たり”と呼ばれているものですね。
もっとも、これは厳密に言えば、完全には証明できないものなのですが。ただ、それでも現実の六十億から成る人間関係のネットワークが、とても緊密に繋がっている事はほぼ確かだと言えるのです。緊密に繋がっているからこそ、“口裂け女”や“人面犬”などの噂話は急速に広まる事ができた。逆に言えば、人間が吸い上げている情報を、このネットワークを利用して集める事も可能なんです。よく物語なんかで人のネットワークを利用して、情報を収集するなんてシーンがあると思います。もし、それをナノマシンを利用して、更に本人にも無意識の内に行えたなら、とても強力なシステムになる事は想像に難しくありません」
紺野さんの説明が終わると、一瞬、間が生まれました。その空気を破るようにして、私は言います。
「つまり、今回のナノマシンのやっている事は情報収集だというのですか? そして、それに環田町が関与している、と」
「いえ、まだ確かな事は何も言えませんがね。取り合えずの、予想を口にしてみただけです。単なる印象ですよ。
もしかしたら、人間関係のネットワークではなくて、他のネットワークが狙いだって可能性もありますしね。説明し忘れましたが、人間社会で見られる“六次の隔たり”のようにネットワークの構造がスモールワールドになっている例は他にもたくさんあるのですよ。生態系のネットワークもそうですし、人間の脳神経のネットワークもそうです。因みに、そういったスモールワールド・ネットワークが形成される要因の一つに、先に述べた“正のフィードバック”があります」
そう紺野さんが説明すると、鈴谷さんが口を挟みました。
「もしかして“正のフィードバック”によって、ネットワークが一部に集中するとか、そんな話ですか?」
それを聞くと、紺野さんは少し驚いた表情を見せます。
「おお、なかなか素晴らしい発想力ですね。その通りです。ネットワークのリンクが、一部に集中すると、そのコネクターを通して、ネットワーク全体が効率良く結び付くといった状態になるのです。これが、スモールワールド構造が発生する仕組みの一つですね。この構造を持っているネットワークの弱点は、そのコネクターになっている存在が壊されると、一気に崩壊してしまう点です。例えば、生態系でもし、そのコネクターとなっている種を滅ぼしてしまうと、その生態系の様相は一変します。酷い場合には、壊滅的被害を受ける事にも成り得るでしょう。
もっとも、スモールワールド・ネットワークの形成はこれによってのみ為される訳でもないのですが。もう一つの要因は、ショートカットです。整然と並んだリンクから、数本のリンクが遠くに繋がるだけで、世界は狭くなる事が知られています。これは、整然さの中にランダムさが入り込んだ状態とも表現されているのですが。この二つともが関係しているネットワークの方が、現実世界には多いのではないかと考えられます」
そう紺野さんが言い終わると、それから鈴谷さんはこう質問しました。
「今回の件には、そういったものが絡んでいるのですね。それは分かりましたけど、では、日下さんを助ける為には、どうすればいいのでしょうか?」
そうです。忘れていましたが、この話はそもそも日下さんという方を助けるのが目的だったのです。
紺野さんはそれにこう返します。
「できれば、このナノマシン・ネットワークの正体を探ることから始めたいですが、緊急を要するのであれば、日下さんの中のナノマシンを退治してしまうのが一番かもしれません。どれだけ日下さんの中に、ネットワークが喰い込んでいるかにもよりますがね。その方法もこの数日で調べてあります。通常のナノネットとは違うので、少し時間がかかりましたが、恐らく上手くいくのじゃないかと思います」
それを聞くと、鈴谷さんは安堵した表情を浮かべました。どうやら、本気で日下さんという方を心配していたようです。
私が環田町を調査している間で、紺野さんは問題のナノマシンの特性を調べていたらしいです。環田町に行った人間に、何かしら異変が現れるといったデータは見つからなかったし、私は元よりナノネットの影響を受け難い体質をしている。もし、それでも私に何か影響が現れたとしても、発見が早ければ簡単に対処ができるはず。そう考えて、並行して作業を進めたようです。
鈴谷さんは、それから直ぐその日の内に、日下さんへ連絡を入れたそうです。解決ができそうだから、もう一度、紺野さんの研究所を訪ねてくれないか、と。ですが、何故か、なかなか返信は来なかったのだそうです。当然、鈴谷さんは訝しげに思います。そして、不意に、ある日に突然、日下さんからメールの返信が届いた……
それは、驚くべき内容のメールだったそうです。なんと、環田町の海の開発を決めた県知事への、正体不明の憎悪が自然に溢れてきてどうにもならない、といったものだったというのです。しかも、ナノマシン退治の意志があるのかどうなのか、判断に困る内容で、混乱しているとしか思えなかったとか。鈴谷さんは悩んだ末、日下さんの家を訪ねてみたのだそうですが不在で、しかも、数日家を空けているような様子だったらしいです。
紺野さんと私に向けて送られたそのメールで、私はそれを知りました。そして、続けて紺野さんから私にメールが来ました。
『知っていると思いますが、緊急事態です。くまさんのナノネット・ハッキング能力を頼る事になると思いますから、連絡をお願いします』
メールの内容はそんなものでした。私はそれを読んで、嫌な予感を覚えます。何故なら、くまさんのハッキング能力は、今は使えない状態にあるかもしれなかったからです。