3.巫蟲システム
(編集記者・鈴谷凛)
その雑誌に、都市伝説を扱うコーナーを設けたのはわたしの発案だった。単なる思い付きなどでは決してなく、面白い記事さえ書ければ、ある程度の読者は確実に確保できるだろうと予想してのものだった。
もっとも、しっかりとした情報収集及びに分析を行った訳ではないのだけど。それは、長年インターネットを通して人間を観てきた中での、いわば直感のようなものだった。
だから、初めはとても小さなコーナーだった。つまり、小さくまずは試してみて、それが好評だったら徐々に大きくしていこうと、そんな事を考えたのだ。
面白い記事になる自信はあった。それを書ける適当な人材がいたからだ。というよりも、実を言ってしまうのなら、そもそも面白い記事を書けそうな人材を見つけたから、都市伝説を扱ったコーナーを始めてみたいとわたしは考えたのだけども。
わたしはある怪談サイトを持っている。そのサイトを通じて、多くの人間と知り合った。その人間達の中には、霊的な現象を自然科学的現象と捉えようとするような輩ばかりではなく、それを社会科学的に分析しようとする者もかなりいて、そして、そこで交わされる議論はかなり面白かった。
その怪談と関係のありそうな、古くからの怪異や妖怪、事件、が提示され、それらを材料とした怪談誕生の経緯の推測が為されたり、精神分析的アプローチによって、それらを分析してみたり。目撃談がしっかりとしているモノに対しては、正体を自然現象や生理現象、ナノマシン・ネットワークなどに求めたりもした。
ただ、いくら面白くても、それらは所詮、インターネット上の乱雑な議論でしかなかった。ただ単に、情報が乱反射しているようなもの。それが論文として体系化されるような動きがあるはずもなかったのだった。それを残念に思っていた事も、そのコーナー発案の切っ掛けの一つではあったかもしれない。論文とまではいかなくても、何とかそれを纏めてみたかったんだ。わたしは。
都市伝説コーナーは、予想通りに好評を得る事ができ、なんと単行本としての出版が決定するほどまでになった。単純に都市伝説を紹介するのではなく、一つ一つを多方面な視点から慎重に掘り下げて、その意味を追求するという姿勢は斬新だったようで、それが評価されたようだ。もちろん、そんな事が可能だったのは、インターネットを通して、たくさんの色々な知識を持った人間の協力を得られたからに他ならない。偶然とはいえ、素晴らしいネットワークシステムを作り上げられたと思う。
ただし、連載を続けていけば、ネタはやはりなくなってきてしまう。新たな話が集まるまでは休載という手段もあったが、人気のあるコーナーとして定着してきていた上に、単行本出版前という事もあり、できればそれは避けたかった。
まだ、いくつかネタは確保していたが、後もう少しで尽きそう。そんな事が見え始めた頃、わたしは少し方針を変え、個人的な怪異体験にも着目をしてみた。怪談サイトで、常にそういった体験談を募集しているのだ。都市伝説にはなっていないだけに、社会科学的なアプローチは難しいが、個人の怪異体験というのもそれはそれで面白い題材だ。それに、その怪異で何かしらその人が困っていたとしたら、それを解決する事で社会的にも貢献できる。新たな読者層も獲得できるかもしれない。
投稿されてきた怪談は有りがちなものが多く、既に題材に用いてしまっているようなものばかりで、ほとんどは使えなかったが、中にはいくつか面白そうなものがあった。その内の一つを、わたしは拾ってみた。奇妙な体験談だった。自分が徐々に失われていく。それも、人込みの中で、フラッシュバックのような体験をする度にそう感じるのだという。解離性人格障害とも違うし、統合失調症の可能性も医者から否定されたらしい。文面からは、真剣に悩んでいる気配が感じられたし、その人物はそれを恐れて、長期間自宅に引きこもっているらしかった。かなり困っている様子だ。力になれるのなら、手を貸してあげたいと思った。そこでわたしは考えたのだ。ナノマシン・ネットワーク関与の可能性を。
怪異体験にナノマシン・ネットワークが絡んでいるケースがある、という話をわたしはよく知っていた。山中理恵という怪談仲間が、ナノネット専門家と知り合いで、その関係でよく話を聞いていたのだ。その専門家に実際に会って相談した事も何回かある。紺野秀明というその人は、性格に排他的な部分が少なく、しかも素人にも分かり易く伝えてくれるので、相談相手として適している。
わたしはもしかしたら、紺野さんならば何か分かるかもしれないと思い、投稿してきた日下という人物に、会って相談してみないかと話を持ちかけてみた。すると、彼は少しでも可能性があるのなら、とわたしのその提案を受け入れてくれた。
当日は、わたしも同席する事にした。もちろん、できるのならネタにしたかったからだけど、一緒の方が都合が良いだろうという思いもあった。
長期間引きこもっていたという事もあり、日下さんはどこか疲れているような、不健康そうな外見をしていた。精神的に、かなり追い詰められているのかもしれない。力のない瞳をしていた。活力が感じられない。どうやら彼は、紺野さんに会ったとしても、現状が打開できるとは考えていなかったようだった。わたしはだからこそ、何か成果を期待したのだけど、流石の紺野さんでも原因までは分からなかった。
ナノマシン・ネットワークが原因で起こる何か似たような現象がある事をわたしは期待していたのだけど。
紺野さんは、日下さんの話を聞いて、もしもナノネットだとすると、そのナノネットは何か情報を集めているかもしれない、というような事を言い、それから、日下さんの血液を採った。どうやら、前向きに調べてくれる気があるらしかった。それが救いと言えば、救いだったかもしれない。もっとも、元よりわたしは、紺野さんが自分を頼ってきた者に対して冷たく接するとは思っていなかったのだが。
しかし、検査結果は中々出なかった。分析が難しいのか、或いは紺野さん自身に暇がないのかもしれない。多忙な人だというのは承知している。日下さんからの連絡もなかった。それでわたしは、この件は自然消滅してしまうかと考えていた。ネタにはならなかったと焦りつつ。だけど諦めかけていたそのタイミングで、紺野さんから連絡が入ったのだった。
『信じられない事実ですが、原因と考えられるナノマシンが特定できました。ただし、裏付ける為のデータがまだ足りません。できれば、“白金触媒改質用ナノマシンの自己進化に関する都市伝説”の資料が欲しいのですが……』
紺野さんからの連絡内容は、そのようなもので、わたしにデータの提供を要求してきていた。都市伝説のデータなら、確かにわたしは豊富に持っている。しかも、紺野さんが指定してきたその都市伝説は、単行本収録も予定されていて、連載時よりも更に詳しく調べられてあった。
その“白金触媒改質用ナノマシンの自己進化に関わる都市伝説”とは、現代版のオーパーツのようなもので、まだナノマシンに関する技術があまり進んでいなかった頃、奇妙な進化を遂げたナノマシンが自然界から発見された事件を指す。
通説では、この事件は全くの偶然にナノマシンが進化したのだという事になっている。自然界に流出したナノマシンが自己を複製する際、保存機能にエラーが起こり、偶然に変異、自己進化をしたのだ、と。しかし、だとすると、ナノマシンは自己進化をした後に、また偶然、正常な自己保存複製機能を復活させた事になり、確率を計算すると天文学的数値になってしまうらしい。それで、こんな都心伝説が生まれた。ある科学者が、ナノマシンを進化させ、何らかの目的の為に自然界に解き放ったのだ、と。
その当時、怪しい行動を執っていた人間の存在も知られており、信憑性は高いように思われた。だけど、その特定できた人物、海原真人氏は生態学者で、ナノマシンに関する深い知識は持っていなかったのだった。自己保存複製機能を外す事くらいならできそうだが、当時の技術では困難とされていた、ナノマシンの進化の制御などとてもできそうにはなかった。更に、都市伝説に有りがちないかにもなエピソード付きで、海原氏はその後失踪している事になっている。海原氏の目的も不明だし、これでは彼が犯人だと断定はできない。
……紺野さんが要求してきたのは、その都市伝説に関するデータだった。これから出版する予定の本のデータだから、軽はずみにメールで送る訳にもいかない。わたしは事情を説明すると共に、直接資料を手渡しに行くと、紺野さんに返信をした。もちろん、日下さんの方にも原因が特定できそうだという内容のメールを送っておいた。恐らく、彼も不安に思っているだろうから。
手渡しに行けるような暇ができるのに、少しばかり時間がかかってしまった。その間で日下さんからメールの返信が来た。何故か自分にあるはずのない海の記憶がある事、そして、それが房総の南の環田町周辺の海である事が記されてあり、自己喪失の不安が最近では和らいでいると追記されてあった。
環田町。
その名前にわたしは、聞き覚えがあった。都市伝説が絡んでいたように思う。題材にする程ではないと判断して、取り上げなかったものの中に、その町の名前があったはずだとおぼろげながらに記憶していたのだ。
わたしはどうせならと思って、その都市伝説の資料も、紺野さんの所に持っていく事にした。
紺野さんの研究所を訪れると、紺野さんは何か水槽のようなものとパソコンが繋がれているような、妙な装置を操作しながら熱心に画面に現れる何かのデータを観ていた。
わたしの存在に気が付くような様子がなかったので、「お邪魔します」と、話しかけた。いつもの事なので、玄関ベルの返事を待たずに勝手に上がらせてもらったのだ。少し無用心だとは思うけど、人手の少ないこの研究所ではこれが当たり前になっている。
わたしの声に反応して振り返ると、紺野さんは細い目を更に細くして笑顔を作った。
「どうも、今日は。すみません。全然、気が付かなくて。それと、ご足労様でした。わざわざ、お越しいただいて」
「いえ、元々、こちらからお願いした事ですから。……あの、それは何ですか?」
紺野さんが熱心に操作していた機械は、何度か足を運んでいるわたしも、まだ見た事がないものだった。
「これはですね… 今回の件にも関係があるものなのですが。何と表現するべきか、巫蟲を行う為の装置と言ってしまうと一番分かり易いかもしれません」
「ふこ? 巫蟲というと、あの呪術の巫蟲の事ですか? よくオカルトものだとかのお話なんかに出てくる。虫だとか、蛇だとかを壷か何かに入れて殺し合わせ、生き残ったモノを呪術的な道具として用いるという」
「そうです。まぁ、呪術じゃありませんが、これはそのナノマシン・バージョンといったところですかね。雰囲気は似ています」
巫蟲と聞いて、わたしは少しだけ怖くなった。それほど詳しくはないのだけど、それが危険な術であるという事を知っていたから。すると、敏感にわたしの反応を察したのか、紺野さんは笑いながらこう言ってきた。
「安心してください。巫蟲と言ったのは単なる比喩ですよ。これは、遺伝的アルゴリズムの発想を応用した進化を制御する為の装置です。と言っても、実際に活用する為に作った訳ではなくて、検証実験用ですね。ナノマシン界のオーパーツの謎を解くための」
「検証実験用?
それは、あの例の“白金触媒改質用ナノマシン自己進化”の事ですか?」
「そうです。もしも、あの当時の技術水準で、ナノマシンの進化を制御できたとすると、どんな手段があるのか。私なりに考えて試してみたのですよ」
それを聞いてわたしは驚いた。ちょっと凄い話になってきたかもしれない。
「まず、“白金触媒改質用ナノマシン”から説明した方がいいですね。このナノマシンは燃料電池の機能改善の為に開発されたナノマシンで、燃料電池の白金を用いた触媒の劣化を抑えたり、回復させたりする働きをします。燃料電池とは知っての通り、酸素と水素を結合させて水になる、その反応中に放出するエネルギーを電気エネルギーとして得る発電機の一種ですね。効率が良い上に、純粋に水素と反応させるのなら、水しか生成されないので、環境問題対策にとても適しているものです」
それくらいの知識なら、わたしも持っていた。
「はい。だからこそ、環境問題に深い関心のあった生態学者の海原氏が、このナノマシンを進化させたのじゃないか、と疑われたのです」
紺野さんは、それを聞くと数度頷いてから更に続けた。
「そして、このナノマシンには、実はナノネットを形成する能力もあるのです。と言っても、本来は人間の精神に影響を与える為にある能力ではなく、飽くまで、ナノマシンをコントロールする為に開発されたものです。だからこそ、私は信じられない事実と思ったのですがね。
今回、日下さんから採取した血液中から、このナノマシンが発見できました。しかも、人に影響を与えるのに、充分な濃度の。そして私は、このナノマシンがネットワークを形成していて、しかも、人の精神に影響を与える能力を持つ事までも確認してしまったのですよ。日下さんは、このナノネットの影響を受けている可能性が大きい。ならば、ナノマシンの進化に、何らかの意図的な力を行使した者の存在を想定しなくては、いくらなんでも無理があるでしょう?」
「それで、検証実験をしてみたのですか? ですが、ナノマシンの進化を制御する方法なんて、そんなに簡単に思い付けるものなんですかね? 専門外の人間に」
それを聞くと、紺野さんはにやりと笑う。
「その専門外の人間、という点がヒントになりました。生態学者だという点も。生態学者だったという事は、遺伝的アルゴリズムの概念も知っているはずですからね」
そう言うと、紺野さんはさっきまで操作していた例の装置を観たのだった。そして、更に語る。
「生物は、生存競争の中で進化をし続けてきました。変化を伴う自己複製による増殖、環境による選択、進化、そしてまた変化を伴う自己複製… と。
その発想を応用したものが遺伝的アルゴリズムです。より優秀な“数の並べ替え処理”を行うプログラムが生き残る、というロジックに基づき、システムを構築し動かすと、その中でプログラムが勝手に自己進化をし、自然と優秀なプログラムが出来上がる。
私はこれをナノマシンにも応用できるのではないかと考えました。そして、その発想を基にこの装置を作った。ナノマシンの巫蟲システムです。ある条件を満たすナノマシンがより多く生き残るというロジックを作り、ナノマシン達を自己進化させてみたのです。結果は成功と言っても良いものになりましたよ。まだ、時間をそれほどかけていないので、望むままとはいきませんでしたが、工夫していけばもっと面白い事もできそうです。これと似た発想を使ってなら、専門外の人間でも、ナノマシンの進化をコントロールできるでしょう。何しろ、開発者はナノマシンの具体的な仕組みを知らなくていいのですから。ナノマシン達が勝手に自己進化してくれる。海原氏はこの方法を使ったのかもしれません」
わたしは説明を聞き終えると、少しばかりの緊張感を覚えたの自覚した。唾液を飲む。それから口を開いた。
「でも、だとすると、その、目的は何なのでしょうか? 海原氏の」
「それは私にも分かりません。一番の謎ですね。彼は何をしようとしていたのでしょうか? 恐らく、日下さんの身に起こっている現象がヒントになるかとは思いますが。フラッシュバックの最中に見たという海の光景だとか」
海?
そう言われてわたしは思い出した。日下さんから、ないはずの“海の町の記憶”があるというメールを受け取っていた事を。そして、その町にある都心伝説が関係している事を。
「あのですね……」
それからわたしは、紺野さんにその内容を説明したのだった。