2.自己
(会社員・日下正史)
時々聞く“自分探し”という言葉が、どうも私にはしっくりと来ない。
自分を探す?
果たして、自分とは探すものなのだろうか?
もちろん、それは比喩のようなもので、本来の“探す”というニュアンスで捉えるべきものではないのかもしれない。それは、自己同一性を見つめ直すだとか、そういった意味の言葉なのだろう。だが、それを踏まえた上で敢えて私は疑問を投げかけたい。自分とは探すべきものではないのではないか?と。
少し調べてみたところ、自己同一性とは人間において、一つしかないものではないらしい。何らかの職業に就けば、職業上の自己同一性というものがあり、年齢を重ねて親になったのなら親としての自己同一性が、老年になればまたそこにも自己同一性が。
つまり、“自己”というものは、環境や自らの成長と共に変わっていくものなのだ。そして、それは作り上げるべきものであって、決して探せば見つかるような類のものではない。何故なら、普遍的な本当の自己などといったものは存在しないからだ。
だからこそ、人生には何度か、自己同一性を確立しなくてはならない時期があり、そういった時期は不安定になり易いらしい。思春期ばかりが有名だが、中年期にも老年期にもそれに相当する時期がある訳である。
もっとも私には、そういったはっきりとした人生における苦悩を経験した覚えがないのだが。苦悩の連続だと言われる思春期ですら、なんとなく過ぎてしまっていた。自己が何かなど疑問に思った事もなく、もっと言ってしまえば、自己が何ものであっても構わないと思っていた。
寝る場所があり、三食の飯が食え、健康だったなら人間はそれだけで仕合せになれる。それが私の持論だ。だったなら、己が何であったとしても、それがどうして問題になるのだろう?
もちろん、自己について悩む人間を馬鹿にするつもりはない。そういった人の方が、人間として正常だろうし、人生に対して真剣に向き合っていると思う。私は、恐らく不真面目な上に鈍感なのだ。そう思う。
そこそこ勉強し、並の学歴で並の会社に就職し、仕事に生き甲斐を見つけるのでもなく、結婚相手を見つけるのでもなく、ただある日常をなんとなく過ごしている。流されているだけとも言えないが、何かの目標に向けて必死に泳ぐつもりもなく、充実しているとは言えないかもしれないが、不満もない。そんな生き方。それでいい。それでいいと言えてしまえる人生。もし、それで許してくれるというのであれば、それが私の自己同一性だという事になるだろうか。
だが。
最近になって、そんな私の人生に異変が起こってしまった。
――自分じゃない。
いつの頃だったかは、よく覚えていない。妙な違和感のようなものを私は感じるようになってしまったのだ。自分じゃないものが、自分の世界のどこかに入り込んでしまったかのような。
その違和感は、ある時を境に加速度的に増していった。そして、その違和感は私の自己を脅かし始めたのだ。
私はそれに恐怖を感じた。
皮肉なものだと思う。自己というものを軽視している自分が、それが何であっても構わないと思っていた自分が、自分を失う事を恐れているのだから。
と言っても、その自分を失うという感覚を、私は明確に説明できる訳ではない。それは、自己同一性が破壊されている、といった類のものではない気がする。敢えて言うのなら、多重人格障害のようなものだろうか。或いは統合失調症か。
少し迷った挙句、精神科に行ってみもしたが、疲れているだとか、不安定な時期なのではないか、とか言われて終わりだった。それも仕方ないと思う。症状の内容も上手く表現できないのに、治療が可能なはずがない。医者だって困ってしまうだろう。
日常生活が普通に送れるのなら、取り敢えず、様子を見てみてはどうか?、という至極真っ当な意見をいただいて、私は会社を休むでもなく、普通に生活を続けた。
しかし。
異変はそれで終わりではなかったのだった。
確か、満員電車の中だったと思う。不意に、目まいのようなものに襲われた私は、フラッシュバックのような、奇妙な光景を頭の中で見たのだった。
海。海辺の町。丘。森。土。海中。
そんな景色を滅茶苦茶に巡った後で、誰か人が見えた。顔は不鮮明なのに、目だけが妙に印象強く、気付くとハイスピードでその中に私は飛び込んでいた。そして、続け様に休む間もなく、再び誰かがあり、またその目に。何人かの目玉に飛び込むのを繰り返した後で、私は見覚えのある誰かを見た。忘れるものか。何故ならそれは、私自身の姿だったのだから。私は、自分自身の目玉に向かってダイヴをした。
気が付くと、私は何事もなかったのかのように電車の吊り革を持ち、満員電車の中で揺られていた。その現実を確認した時、とても安堵をしたのを覚えている。ただの目まいだと、そう思いたかったのだが、それからその異変は更に悪化してしまった。何度かそういった事が続いた上、私は日常生活においても、奇妙な幻を見るようになってしまったのだ。
座敷童子を思い出してくれれば、伝わるだろうか? それを、とても小さくしたような姿をしたもの。そんなものを、私は見るようになってしまったのだ。
妖怪のような。妖精のような。
気付くとそれは傍らにいて、そして、いつも私を誘う。それが現れるのは、大抵の場合は人込みの中で、そしてそれは、何かを見つけたかのような仕草をすると、それから、人込みの中の誰かを指差すのだ。
それが指差したその人間には、いつも何かが乗っていた。乗る?いや、或いは、憑いているのかもしれない。
その小型の座敷童子のようなものは、私をその人間の近くにまで引っ張っていく。もちろん、物理的に引かれる訳ではないのだが、私は何故だか、それに逆らえないのだ。そして、その人間にある程度近付くと、先に説明したようなフラッシュバックのような現象が起き、私は私の中に飛び込む。そうして、いつも、その後で、私の中にある自分じゃないものの感覚は、更に強くなってしまうのだった。自分が何かに食われているような。或いは、上書きされているような。
そんな過程をもって、私は人込みを恐れるようになってしまった。人込みに混ざると、例の現象が起き、私は私を少し失う。私は自分を失いたくはなかった。
精神科へ行き、症状を話すと、今度は「パニック障害」ではないか?と言われた。私が見るフラッシュバックは、パニック発作の一種ではないかと言うのだ。人込みを恐れるという病状は、正しく広場恐怖症と呼ばれるもので、パニック障害の特徴の一つだという。
反論する事はできなかったが、私には納得ができなかった。何か違うような気がする。幻を見るという点から、「統合失調症ではないだろうか」、と不安を口にしてみると、「例外は多々ありますが、統合失調症は自分が異常だと判断する事は少ないのです。あなたは自分が幻を見ていると認識しているし、話している様子もとてもしっかりしている。そこから判断して、恐らくその心配はないでしょう」と説明をされて、私は少し安心をした。
更に、例え統合失調症だとしても、危険な類ではないだろうという事だった。社会的に非常に問題のある行動…… 暴力事件を起こすようなケースは、ほとんどの場合、被害妄想を伴うのだという。つまり、何かに命を狙われている等の妄想を抱き、自分の身を護ろうとして、結果的に他人を傷つけてしまうのだ。
不安を抑える効果があるのだとかいうセロトニンを調整する薬を出してもらい、私は病院を後にした。しかし、その薬を飲んでも私の症状が回復をする事はなかった。相変わらずにフラッシュバックもあるし、座敷童子の幻も見えてしまう。そして、何より、自分が失われていくというあの感覚が。
症状が回復しない事もあり、どうしても私には、医者の言うように自分の罹っている病気が、不安神経症だとは思えなかった。否、正直に告白するのなら、そもそも精神的な病だとも私には思えなかったのだ。しかし、では何なのかと問われても答えられない。恐らく、誰にも理解してもらえないと思うが、それはソンナモノではないのだ。
結局、私はできる限り、他人に触れないようにして過ごすしかなかった。食糧を買い込み家に閉じ篭る。会社は、病気を原因として長期休暇を取った。どうせ、私がいなくなっても、代わりの者はいくらでもいるので抵抗感はなかった。がしかし、そう思うと自分の今の立場が誰にも理解されないという思いが更に浮き上がり、強く孤独を感じた。
私は孤独を癒すために、インターネットに依存するようになった。そして、私の話に真剣に耳を傾けてくれる相手を探す内、私はある怪談サイトに辿り着いたのだ。
そのサイトの管理人は、私の話を単なる精神的なものとして切って捨てたりはしなかった。しかし、では怪談サイトらしく何か霊的なものとして捉えるのかというと、それも違った。いや、もちろん、その可能性も考えているらしかったが(というよりも、そうであって欲しいと願っているようだった)、別の原因を真摯に考えてくれた。
そして、飽くまで可能性があるだけの話、と断った上で、こう続けたのだ。
――ナノマシン・ネットワークが関係しているかもしれません。
ナノマシン・ネットワーク。名前だけは聞いた事があった。確か、過去に盛んに活用されていた技術だったか。詳しくは知らなかったので説明を求めると、何でもそれが自然界で繁殖していて、様々な不可思議な現象を引き起こす事があるのだとか。少し驚いたが、知り合いの専門家を紹介してくれるというので、私はその言葉に甘える事にした。
いつまでもこんな状態でいる訳にはいかないのだ。いずれ貯金も尽きるだろうし、それに、どんなに機会を減らしても、人との触れ合いを完全にゼロにする訳にいかない。少しずつでも、それは私に侵食してくる。なら、解決の為に動くしかないだろう。少しでも可能性があるのなら。
怪談サイトの管理人は、以外にも女性だった。しかも、若く、毅然とした印象を受けるタイプ。鈴谷凛という名前らしかった。名刺を貰ったのだ。なんでも、出版関係の仕事をしており、記事を書いたり編集などの作業も行っているのだとか。怪談サイトは、怪談のネタが欲しい時に便利なので立ち上げたものらしい。どうやら、今回の私の件も、記事のネタに使えると判断されたようだった。
紹介してくれるというその専門家とは、彼女の仲間の怪談関係者を通じて知り合いになったらしい。怪異体験とナノネットは深い関係にあるので、時折、こういった相談事をするのだとか。
怪しげな場所を想像していたのだが、その専門家がいるというナノマシン・ネットワーク研究所は、以外にも健康的な佇まいを見せていた。
敷地内にガラス製のハウスが幾つもあり、私は思わず農業関係の研究施設かと思ってしまった程だ。
その施設の所長だという、鈴谷さんから紹介された男は、紺野秀明といった。面長の顔に細い目が印象的で、狡猾そうではあるが胡散臭い雰囲気はない。態度もすっきりしていて、どちらかといえば好印象を私は持った。科学者と言ったら、世捨て人のような人間を私は安易にイメージしてしまうのだが、この男は人と接するのにとても慣れていた。高圧的なところもない。お陰で私はリラックスして話す事ができた。
私が話し終わると、少し考え込むような姿勢のままで、紺野氏はこう口を開いた。
「ふむ。正直、その話だけからでは何が原因でそんな事が起こっているのか、想像すらできませんが…… 確かに、何点か気になる部分がありますね」
私はそれを聞くと、身を乗り出して質問をした。「気になる点、といいますと?」。少しでも、解決の糸口を見つけたかったのだ。
「飽くまで憶測に過ぎませんが、もし、仮にナノネットが絡んでいるとすると、まるで、そのナノネットは、何らかの情報をかき集めているように思えます」
そう紺野氏が答えると、今度は鈴谷さんが質問をした。
「情報をかき集める。でも、一体、何処からですか?」
「もちろん、人間のネットワークの中からですよ。この方は人込みの中で、その体験をなさっているのでしょう? 人間社会は、実は全体が効率良く緊密に結び付いた構造をしている事が知られています。これはスモールワールドなどと呼ばれているのですがね。その為に病原菌が蔓延したり、噂が簡単に伝播したりもします。理論的には、だから、そんな事だって可能なはずなんです。
誰かが何処かで取得した情報を、人間社会ネットワークを通じて集める…… もちろん、その情報がネットワークを流れる場合において可能な事ですが」
一応、理解はできた気になったが、私には紺野氏の語る内容から、リアリティを感じ取る事ができなかった。そもそも、私はナノネットの事だって、最近になって初めて知ったのだから、それも無理もないのかもしれないが。
ただ、この紺野という男は何となく信用してもいい気がした。真面目に、私の病気について考えてくれている。私を騙そうとしているような雰囲気も感じ取れない。
その後、紺野氏は血液を採取したいと言ってきた。もし仮にナノマシン・ネットワークが絡んでいるのならば、何らかのナノマシンが発見できるはずだというのだ。検査分析費用は、鈴谷さんが取材費という名目で出してくれるというので、私はその言葉に甘えつつその話を了承した。
――それから、しばらく時間が流れたが、分析結果は中々返ってこなかった。或いは、紺野氏は多忙な人なのかもしれない。そして、分析結果が返ってくる前に、私は“あの海”の存在を知ってしまったのだった。
それはテレビで中継されていた。県が新たな観光スポットにしようとしている場所で、房総半島の南の綺麗な海。
行った事はなかったはずだが、その風景を、何故だか私は知っていた。懐かしく感じてしまったのだ。そして、その時に初めて気が付いた。
自分に、存在しないはずの記憶がある事に。