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1.権威と常識

 (研究員・深田信司)

 

 初めに、室長からその話を押し付けられた時、僕は面倒くさいとしか思っていなかった。その話に、“中間管理職のジレンマ”のような世間のしがらみ的な嫌な雰囲気がまとわり付いている事は、皆の態度や、話を振って来た室長の言い回しを考えれば直ぐに察しがついたし、そもそも、その内容自体に魅力を感じられなかったんだ。

 人間関係のそういったいざこざみたいのを僕が疎んじる傾向にある事も、それには少なからず影響していたと思う。

 うちの研究室はナノマシンを研究していて、一応、大学の付属って事になってはいるのだけど、実質的にはとあるベンチャー企業に資金提供のほとんどを頼っている。その所為で、スポンサーであるベンチャー企業関係者からの仕事の依頼は非常に断り辛い。そしてその話は、そのベンチャー企業関係者からの依頼だった訳だ。

 「ナノマシン・ネットワーク絡みの話なんだけどね……」

 いかにも困ったという雰囲気を、身体全体で表現しながら、室長はその時僕にそう切り出してきた。

 僕はそれを受けるなり、こう言った。

 「僕らの専門とは微妙に違いますね。もっと……」

 もちろん、その後で僕は「ナノマシン・ネットワークを専門にしている人間に話を回した方がいいのでは?」と繋げるつもりでいた。でも、それを妨げるようにして、というよりも、明らかにそれを妨げる目的で、室長はこう言葉を発したのだ。

 「素人さんには、見分けはつかないよ」

 僕はそれを聞いて、無言になる。筋で言うのなら僕の方が正しい、でも、それを踏まえた上で敢えて話を聞いてくれ、と室長が暗にそう言っている事が分かったからだ。

 話の内容の凡そは、大体、こんなものだった。ナノマシン・ネットワークと脳を共有している少女がいる。その影響はかなり強く、時には少女の人格まで乗っ取ってしまう事すらもある。このままでは、少女の日常生活に支障をきたす可能性がある。なんとか、治療する事はできないだろうか?

 話を聞き終わると、僕はこう質問した。

 「他の専門家に診てもらった事はなかったのですか?」

 医療関係にもナノマシンの専門家はいる。そういった人達の方が、この仕事には向いているのではないかと考えたのだ。室長はそれを聞くと首を横に振った。

 「ほとんどの医療関係者は、サジを投げたらしい。ナノマシン・ネットワークの専門家が一人、その子に関わっているが、結局は解決できなかった。というよりも、どうやらその人物は、治療するよりも、少女はそのナノネットと共存した方が良いと結論出したようでね」

 「それなら、僕が診たところで、どうにもならないのじゃないですか?」

 「いやいや、その専門家の意見は、飽くまでナノネット中心のものだ。我々ほどには、ナノマシンの性質を熟知している訳じゃない。君が診たら、別の何かが分かるかもしれないじゃないか。治療できなかったら、できなかったで仕方がないんだ。診るだけでも、診てやってくれよ」

 室長の態度には、有無を言わせない迫力があった。どうやら、室長は本気でかなり困っているらしい。ナノマシン・ネットワークの専門家だという、その人物の名前を出さなかった事も少し気になった。僕は少し悩んだ末、その話を引き受ける事にした。いや、実を言うのなら、初めから、僕にそれを断る力なんてなかったのかもしれないのだけど。

 室長の口ぶりを考えても、問題を本気で解決する必要がない事は明らかだった。要は仕事を持ち込んできた、ベンチャー企業の実力者の誰かを、納得させられるような仕事ぶりを示せばいいという話だろう。つまり、真面目にやりはしたけど、やはり実力不足でどうにもなりませんでした、とそう言えるようなスタイルで充分な訳だ。いや、室長の態度を考えると、むしろそれ以上は望んでいないような雰囲気すらもある。

 どちらかと言えば、深い人間関係を避けるタイプの僕を、室長が選んだのはなんとなくだけど納得がいった。僕は、適度なバランスを保って他人に深入りをしないって位置を築く能力には長けているんだ。素人を納得させられるような適当な説明くらいならできるし。

 その問題の少女の名前は、“森里佳子”というらしかった。この相談を、どういった経緯でかは分からないが、僕らのスポンサーに持ち込んできたのはそこの両親で、話によると、その両親はその森里佳子という女の子の事を、恐れているらしかった。

 ほぼ何も知識のない両親にとってみれば、ナノマシン・ネットワークなど、悪霊と大差ないのだろうと思う。それも無理もないのかもしれない。

 僕はその話を聞いて、そんな境遇にある少女に同情をした。両親から恐れられているという現実は、幼い子供にとって、どれだけ辛い事なのだろう? いや、同情すべきなのはそんな境遇にある、この家庭そのものなのかもしれない。両親だって、辛いのだろう。だから、ワラにもすがる思いで、わずかなつてを頼って、うちの研究室に仕事を依頼してきたのだろうから。

 森家を初めて訪問した時、問題の少女はいなかった。どうやら、まずは両親が会って話を聞いてから、という事らしい。多分、僕の人柄を見定めたいのだろう。見も知らぬ人間を、いきなり子供と会わせる訳にはいかないという親心は分かるが、やや過保護気味であるような気がしないでもない。

 森家の両親は、慎重な姿勢とは裏腹に単純なところもあるようで、少し真摯そうな態度で応対していると、簡単に僕を信用してしまったようだった。かなり詳しい内容まで、僕に教えてくれたのだ。詐欺にひっかかり易そうだ、と少し心配になったが、お陰で話は早く進んだ。

 「紺野秀明?」

 そして、ナノマシン・ネットワークの専門家の調査内容にまで話が言及された辺りで、突然にその名が出てきたのだった。僕は驚いて思わず、そう聞き返してしまった。両親は僕の反応に驚いたようで、こう問い質してきた。

 「はい。娘を診てくださった専門家の方は、そういう名前です。それが何か?」

 「いえ、気にしないでください。聞いた事のある名前だったので、驚いてしまって」

 そう言って誤魔化したけど、僕は内心で室長の態度を思い出して納得していた。どうして、ナノマシン・ネットワーク専門家に仕事を回さなかったのか。そして、室長が担当した専門家の名前を語らなかったのか。紺野秀明。この業界では有名な男なのだ。ナノマシン・ネットワークの研究に関しては第一人者で人望もある。この男の判断に逆らう事は、実質、権威に歯向かうのとほぼ同義だ。もしも、別の判断を下して、それで何か問題が起こったのなら、ダメージは凄まじいだろう。業界内にどんな悪評が流れるか分からない。そんな問題に首を突っ込みたがる研究者は恐らくいない。つまり、室長は仕事を回さなかったのではなく、回せなかったのだ。それが、紺野秀明の手がけたものだったから。もちろん、そのリスクを今僕は負っているという事になる。

 僕はそれについて少し考えてみた。リスクは確かに怖い。でも。

 説明が終わってから、僕は今回の件に関する資料に軽く目を通していた。すると、それが終わる頃合を見計らって母親の方が、「……あの、どうでしょうか? その、娘を治療する事は可能でしょうか?」と、そう質問をしてきた。どことなく疲れているような、弱々しい眼差しで僕を見ている。

 「そうですね。まだ、確証は持てませんが、少なくとも、試してみる価値があるのは間違いないと思います」

 場の雰囲気に気圧されて、そんな事を言ってしまった訳じゃない。本当に試してみる価値があると考えていたんだ。僕は。

 リスクを恐れて、紺野秀明以外の人間は、誰もここの家の少女を詳しくは調査していない。なら、明らかに調査不足のはずだ。多人数の人間によって多角的に検証され、正しさが確認されていくという、科学の基本にもそれは反している。試してみる価値はある。

 「飽くまでこの調査結果からのみの判断ですが、確かに紺野秀明さんという方が共存という道を選択した事には一理あると思います。このナノマシン・ネットワークは、娘さんの人格に深く喰い込んでいる。下手にいじるのは危険かもしれないし、また、このナノネット自体、酷く害のあるものでもないでしょう。絶対に消滅させなくてはいけな類のものでもないかもしれません。

 しかし、全てを消滅させるのではなく、ナノネット人格を、表層に出さないようにするくらいなら可能であるように思います。それに、いくら害がないと言っても、常識的に見てこんな状態でいる事が、健康的であるとはとても思えません」

 両親には話さなかったが、意図的でないにしても、調査結果を紺野秀明が改竄している可能性も僕は疑っていた。自分の希望に沿って、データを捻じ曲げてしまう事が、科学研究にはよくある事なのだ。話によると、紺野秀明は、調査が終わった後も、度々、この家を訪問し少女と面会しているらしい。それも怪しい。紺野秀明は、ここの少女を何かの研究に利用しているのじゃないだろうか? それで、ナノネットを生存させておく必要があったんだ。

 「取り敢えず、この資料を今日は持ち帰らせてもらえませんか? この資料を基に、これから何をするべきなのか、計画を考えてみたいと思いますから」

 僕がそう尋ねると、両親は快く了承してくれた。やはり、他人を簡単に信用してしまうタイプの人達のようだ。紺野秀明に騙されている可能性も捨て置けない。僕は家で資料を一度じっくりと洗って、怪しい点を探ってみようと考えていた。この資料は、紺野秀明が作成したものなのだ。

 帰り道。冷静になった僕は、自分がいつの間にかに、真剣にこの仕事に取り組もうとしている事に気が付いた。確か、最初は面倒くさいとしか思っていなかったはずだ。どうしてだろう?

 考える内に、自分が異様に紺野秀明という人間を敵視している点に思い至った。そして、どうやらその怒りが、僕にこの仕事への意欲を駆り立てさせていることにも。僕は紺野秀明という人間を嫌っているのだろうか? だけど、その想定には無理があった。何故なら、僕は紺野秀明という人物に会った事がないからだ。ほとんど知らない人間を嫌える程、僕は想像力豊かじゃない。それに、噂で聴こえてくる紺野秀明という人間の人物評は悪いものじゃない。多少、浮世離れしている感はあるらしいが、悪口はほとんど聞いた事がない。

 更に言うのなら、話で聞く限りでしか知らないけど、その独自の研究スタイルを、僕は尊敬すらしていた。彼が有名な理由は、その独自の研究スタイルにもあるんだ。

 紺野秀明は、どこの企業もバックアップにつけてはいない。つまり、純粋に自分のしたい研究だけをやっている。その為、ほぼ万年資金不足らしく、その不足を補う為に、多方面に協力者を得ているという。

 人間関係を避ける傾向のある僕にはとても真似のできない芸当だけど、その自由さは、同じ研究者の端くれとしてやはり憧れる。

 企業なんてどうでもいい。利益なんかどうでもいい。そんな世界で研究がしてみたい……

 ……この怒りは、もしかしたら、そんな憧れが転化したものなのだろうか? 憧れているからこそ…… そう自分を探ってから、僕はそれを否定した。いや、僕の彼への憧れの思いはそんなには強くない。

 では、なんだ?

 権威。

 思いを巡らせている内に、僕はその単語に思い当たった。権威。多分、今回の僕の情動のキーワードはそれだ。ただ、それだけじゃない。権威によって脅かされている子供。森家の少女から、僕はそんな存在を連想していた。そして、その連想は…

 殴られ続けていた、思い出、

 そこに繋がった。

 意味も分からない、理不尽な理由で、僕は子供の頃、父親からよく殴られていた。父親は、そういう癖を持った人間だったんだ。父親は僕にとって恐怖の象徴で、同時に支配力の権化でもあった。もちろん、大怪我を負うほどの酷い暴力はなかったのだけど、幼い僕にとってそれはそれでも、殺されるかと思うほどの圧倒的な絶望だった。

 僕は父親の暴力が始まりやしないかと常に怯え、神経を擦り減らして暮らしていた。あの世界には安心がなかった。あの世界は、憎悪で溢れていたんだ。

 子供の頃の、僕の夢の国。

 権威。

 恐らく、僕は……

 

 資料を見る限りでは、少女に憑いているナノネットは、明らかに特殊で、更にかなり厄介な代物でもあった。

 ナノマシンというのは、細菌やウイルスサイズのロボットの事をいい、分子レベルでの物質の加工や、病原体の除去、情報収集、などなどと幅広い用途がある。その中でも特殊なのが、人間の精神に働きかけをする使い方で、これは通常、ナノマシンによるネットワークを介して行われる。

 神経細胞のネットワークによって、人間の精神が形成されるように、ナノマシンのネットワークによって、そこに擬似的な精神のようなものを形成させる技術があるのだ。そして、そのナノネットを利用して、人間に様々な影響を与えられる。

 一時期は、主に医療目的で盛んに用いられていたが、危険性を指摘されるようになり、やがては衰退していった(もっとも、技術自体は、他の応用方法が発見された事もあり、その後も発達しているのだけど)。その為、今は極限定されたケースでしか使用されていない。ただし、それはそのままでは終わらなかった。ネットワークを形成する能力を持ったナノマシンは、使用が規制された当時、既に自然界で繁殖していたからだ。しかも、社会の裏で、人間に対して悪影響を与えているケースすらもあるらしかった。……例えば、今回の、森里佳子のケースのように。

 人間の精神に影響を与えるようなナノマシン・ネットワークの自然界における存在は、まだ世間にそれほど認知されていない。だから、研究もそれほど進んでいないし知識の普及もされていない。が、それでも、僕のような門外の者にも、森里佳子に憑いているナノネットが特殊である事は一目瞭然で分かった。

 もっともスタンダードなケースでは、ナノネットは、人間の精神や動物の精神をコピーして、自らを形成する。しかし、この森里佳子のケースでは、生まれた時から既にナノマシンが体内に存在していた為に、正常にそれが行われなかった。誕生当時はまだ、精神は未成熟でそこにコピーできるような、はっきりとした人格は存在しない。だから、ナノネットは完全には形成されない。ただし、例え未完成であってもナノネットは人の精神に影響を与える事ができる。結果的に、未完成なナノネットが、森里佳子の人格形成に影響を与え、更にその森里佳子の人格がナノネットを形成するなんて事が起こったのだ。つまり、森里佳子とナノネットは互いに影響を与え合いながら、共に成長をして来た事になるらしい。それも、不可分とも言える程に、根深い部分で存在を共有しながら。

 要するに、森里佳子に形成されているナノネットは、既に彼女の人格の一部分になってしまっているという事だ。確かに、これでは手の出しようがないかもしれない。資料を入念に見直した後で、僕は紺野秀明の判断の正しさを認めざるを得なくなっていた。意図的にデータを改竄したような不自然な形跡も見つけられなかった。

 しかし。

 しかし、それでも、紺野秀明は大切な事を試していない。僕はそれに気が付いていた。或いは、安全にそれを試せる方法を知らなかっただけかもしれないが。室長も言った事だけど、ナノネットに関しては知識があっても、ナノマシン単体の性質に関しては、熟知していない可能性がある。それとも、何か別の意図があるのか……。

 いずれにせよ、森里佳子の治療に関する僕の方針は、それで固まった。ナノマシンの活動を抑え、徐々に森里佳子自身の人格の勢力を拡大させる…… 巧くいくかどうかは分からないが、やってみる価値はあるだろう。

 

 境遇を考えれば、予想できる事ではあったけど、森里佳子は内気で、人見知りをするタイプの子供だった。

 初めて見る僕を目の前にし、こわばったような不自然さのある表情で少女は固まってしまった。ただ、僕の方も、そんなに簡単に心を開いてくれるとは思っていなかったので、それで動揺する事はなかった。

 彼女から血液を採取し、他にもナノマシンがいそうな場所…… 彼女がいつも持っている、くまのぬいぐるみなどから、埃なんかを採取する。

 初日は、それで帰った。

 紺野秀明の作成した資料とズレがないかを確認しておきたかったのだ。恐らく資金の差を考えれば、調査機器の類は、うちの研究室の物の方が性能はいいはずだろうし(もっとも、こういった機器の扱いには熟練を必要とするので、やっぱり、紺野秀明の方がより正確な結果を得ているかもしれない)、過去と現在では、ナノマシンの状態が変わっている可能性もある。

 僕の分析結果は、紺野秀明の資料と大差ないものになった。ただし、ナノネットが過去よりも、更に発達しているだろう痕跡らしきものが発見できた。仮に、森里佳子のナノネットを病気とするのなら、更に進行してしまっているという事になるだろう。

 次の日。僕は機材を用意すると、再び森家を訪ねた。相変わらずに、森里佳子は僕には慣れていなくて、僕が来た事が分かると、自室に閉じこもってしまった。母親がとても困った様子で、部屋の向こう側へ呼びかけていたが何も応えがなかった。もちろん、僕が声をかけても無駄だった。

 これは根競べしかないと思い、森里佳子の近くの部屋で、僕は待たせてもらう事にした。彼女が出てきたら、治療を開始するつもりでいたのだ。そこで、ナノマシン・ネットワークを分析する為の、小型の機械の調子を見る事にした。今の内に調整をしておいた方がいいと判断したのだ。ナノネット絡みの機械類は、専門外だけにそれほど高性能の物はうちにはない。恐らく、紺野秀明の方がいい物を持っているだろう。

 試しにそれを作動させてみると、自分が今いる部屋にも、それほど強くはないが、ナノマシン・ネットワークが形成されている事が分かった。森里佳子のモノと同じモノかどうかは分からないが、興味深くはある。僕は少し集中して調べてみる事にした。

 それから、しばらくが経った。熱心に調べていた僕はふと我に返ると、その異変に気が付いた。

 何かの気配がする。

 部屋のドアの方。

 森里佳子がいつ出てきても良いように、部屋のドアは開けっぱなしにしてあった。だから、僕が首を回すと、いきなり“それ”が視界に入ってきた。

 一瞬、ショックを受ける。

 くまのぬいぐるみが、宙に浮いているように思えたからだ。しかし、直ぐに冷静になると、それが単に目の錯覚で、森里佳子が抱えているくまが、光の加減で目立っているだけだと悟った。

 安堵すると、僕は彼女にこう呼びかけた。

 「どうしたの?

 治療を受けてくれる気になった?」

 しかし、その言葉に対する彼女の返答で、僕は再びショックを受けたのだった。

 「オマエは、ナンダ? 紺野ノ知り合いカ?」

 それが、どう考えても少女の声ではなかったからだ。森里佳子よりも少し年上くらいの少年の声質に聞こえる。しかも、乱暴な口調。

 もちろん、僕は今の彼女が森里佳子ではなく、そのもう一つの人格である…… ナノマシン・ネットワークの人格なのだと瞬時に理解した。だから、緊張しながらもこう返した。対峙するべき敵が目の前にいる……。

 「いや、違うよ。彼は関係ない」

 ゆっくりとそう言う。すると、ナノネットはこう返してきた。

 「ナラ、去れ。オレは、アイツ以外と交渉をスル気はナイ」

 それから森里佳子は、方向を変えると、自室へ戻っていこうとした。だけど、僕がこのチャンスを逃すはずはなかった。急いで用意していた装置を取り出すと、駆けて行って彼女の持っているくまのぬいぐるみを挟む。それから、スイッチを押した。このくまのぬいぐるみの中にも、ナノマシンがどうやらかなり大量に含まれているようなのだ。

 森里佳子は、少し驚いたような顔をしてから僕を見て、それからこう言った。

 「キサマ、いったい、ナニをした?」

 続けて、僕は森里佳子自身にも装置を挟んだ。もちろん、彼女は抵抗したが、子供の力だからほとんど意味がない。スイッチを押すと、彼女の意識は急速に鈍化した。

 この装置はナノマシンを操作する為のもので、電磁波を出力し、ナノマシンに直接影響を与える事ができる。僕はそれで、ナノマシンの活動を不活発にする為の信号を送ったのだ。恐らくそれが成功したから、彼女の意識が鈍化したのだろう。

 感情のない瞳は意識が鈍化した所為か眠たそうに半開きになっていた。それが、やがてスライドするように代わり、今度は怯えたような少女の瞳になった。恐らく、森里佳子本人が帰ってきたのだろう。僕はその瞳に向けて、こう言ってみた。

 「ごめんね。少し乱暴なことをしてしまって。気分はどう? 今、君の中のナノマシンの活動を抑えているんだ」

 少女はそれを聞くと、目を丸くした。

 そして、それから、無言のまま僕から逃げるようにして、自室へと引き返してしまった。いや、実際、逃げていたのかもしれない。少しだけ、心が痛んだ。

 僕が用いた装置の効果は、今回のタイプのナノマシンに対しては、永続的には働かない。特に、自然界で独自に繁殖しているようなタイプのナノマシンには、その効果も半減する事が多いらしい。

 だから、定期的に僕は彼女の家を訪れ、同様の処理をする必要があった。そうじゃなければ、いずれは復活してしまう。もちろん、こんな事をいつまでも続ける訳にもいかない。だから、ナノマシンを鈍化させている間に、彼女の人格をしっかりと独立させる必要があった。そうすれば、もっとナノネットに徹底的なダメージを与えられるようになるはずだからだ。

 次の訪問時、意外にも彼女は素直に僕の前に出てきてくれた。僕は彼女が治療を受ける気になったのかと思い喜んだが、彼女の意図は別のところにあったのだった。

 「元に戻して……」

 とてもか細く、森里佳子は僕に向かってそう声を発した。

 どうやら、なかなか自らのナノネットが復活をしない事に不安を感じた彼女は、勇気を振り絞って自ら僕の前に出てきたようだった。

 「それはできないよ。君が正常になる為に、どうしてもこれは必要な作業なんだから」

 落ち込みながらもそう答えると、僕は再び彼女の中のナノマシンを不活発にする処理をした。まずい兆候だと思いながら。いくらナノマシンの動きを抑えても、彼女自身にナノネットと決別する気がなければ、恐らく、この試みは成功をしないだろう。僕は、時間をかけて説得をしていくしか方法はないか、とそう自分に言い聞かせた。

 

 何度か同じ作業を続けたある日、室長から僕は呼び止められた。

 「深田君。君に頼んだ仕事の方は順調なのかな?」

 どうも、妙な感じだ。複雑な表情をしている。

 「順調なような、そうでもないような、そんな感じですね。取り敢えずの問題はクリアしましたが、次の壁が手強くて。何かありましたか?」

 「いや、ご両親が大変に喜んでいるらしくてね。君の仕事ぶりを、評価してくれているようなんだ……

 ただ、私はちょっと心配なんだよ。あまり踏み込み過ぎているのじゃないかと。今している仕事は、君の本業じゃないって事はよく自覚してくれよ?」

 室長が何を不安に思っているのかは簡単に理解できた。僕が、紺野秀明という権威に逆らうような態度を執っているかもしれないと疑っているのだろう。

 僕はそれを聞いて少し笑う。そして、こう答えた。

 「大丈夫です。自分の本業は自覚していますから」

 もしかしたら、紺野秀明自身から、圧力がかかったのかと少し思ったけど、流石にそこまではないだろうと思い直した。権威と言っても、それは彼自身が望んだものじゃないはずだろうから。周囲が勝手に騒いでいるだけだ。今回の件で、紺野秀明自身が動く事はまずないだろう。そう僕は判断した。

 しかし。

 次の森家への訪問時、紺野秀明の関係者が僕を待ち受けていたのだった。その人物は女性で山中理恵と名乗った。紺野秀明の調査協力などをよくしているのだとか。そして彼女は、どうやら少し怒っているようだった。

 居間。どんな事情かは分からないが、両親は席を外していた。森里佳子本人は、どうやら部屋の外から、僕らの様子を窺っているようだった。もしかしたら、ナノネットが一時的に復活をしてしまったのかもしれない。何か計画を練ったのか。

 「いきなりで失礼かもしれませんが、里佳子ちゃんから、助けを求められたのでやって来ました。取り敢えず、あなたのしている事を中止してくれませんか? 彼女、とても怯えています」

 しっかりとした女性だ。と、そう言われて何故か僕はそんな事を思った。

 「助けを求め?」

 「紺野先生だと、ここのご両親は家に上げないでしょうから、里佳子ちゃんは私に連絡を入れたのです。恐らく、この事を紺野先生はまだ知りません」

 「どういう事でしょう?」

 「あなたは良かれと思ってしているかもしれませんが、それが里佳子ちゃんに、本当に良い影響を与えているかは分からない、という話をしているのですよ」

 僕は少し迷うとこう言った。

 「それは、ナノネットと共存した方が、彼女にとって良いと言っているのですか? これだけここの家庭を不幸にしているのに」

 それを聞くと、彼女はきつく僕を睨んだ。

 「良いですか? 里佳子ちゃんにとって、くまさん… 彼女の中のナノネットの事ですが、くまさんは共に協力して生きてきた一番頼れる仲間なんです。その仲間が消滅させられそうなら、当然、護ろうとするでしょう? そんな事も分からないのですか? それに、心細くて不安にもなります。独りきりで生きられる程、彼女は強くない。そもそも…」

 やや激昂しかけている自分自身に気が付いたのか、荒げていた口調を途中で改めると彼女は続けた。

 「そもそも、彼女の中のナノネットは、彼女自身でもあるのです。それを消滅させなくちゃいけない、と主張する事は、彼女にとって自分を否定されるのと同じなんです。周囲の人間達から、自分の存在を否定される子供の気持ちが、あなたに分かりますか?」

 それを聞いて、僕は動揺してしまった。そして、自分が大切な点を見失っていたのじゃないか?と不安になる。自分自身の過去を思い出したからだ。子供の頃、僕は否定され続けて生きていたんだ。父親の、暴力によって。

 その後で、静かに山中理恵は続けた。

 「里佳子ちゃん。あなたに心を許していないのじゃないですか?」

 僕は何も返せなかった。

 「でも、紺野先生を含めて、私達には話をしてくれるのですよ、彼女は」

 それで沈黙が生まれた。

 重い沈黙だった。森里佳子の中のナノマシンを消滅させようとする事。それは、彼女の存在の拒絶を意味していたのか。

 「しかし、常識で判断すれば……」

 反省しつつも、自己弁護をするように、気付くと僕はそう口を開いていた。悔しかったからだ。子供の事を一番に考えているつもりでいて、僕は実は何も考えていなかった。自分の父親と同じ事をしていた。権威で、子供を支配していた。

 「常識? 常識って何ですか?」

 しかし、山中理恵は、それを聞くなりそう聞き返してきた。僕は言葉につまる。苦し紛れに言った言葉だから、何も出てこない。

 「常識って言葉を、よく耳にするけど、私、それが何処にあるものなのかいまいち分からないのです。常識って、一体、何処に存在しているのでしょう? 世間の常識に反している、とか、非常識な人間、とか、そう言って非難の言葉にしたりとか、或いは逆に、常識に囚われるなとか……」

 そんな事は僕も分かっていた。

 常識。便利な言葉だけど、それはとても危険な言葉でもある。そう思う。何故なら、それは………

 「常識が自然科学的な存在でない事は、子供にだって分かります。自然界には、そんなものは存在しない。じゃ、社会の中にそれは存在しているのでしょうか? でも、それも私は少し違うと思うのです。

 そもそも、民主主義だとか、社会主義だとか、そういった社会科学的な存在は、人間の脳の中にしか存在しないのです。アイデアが人から人へと渡り、波的に伝播していき、やがては共通の認識になっても、本質的には、それは脳内にしか存在しない」

 彼女は一度言葉を切ると、こう続けた。

 「常識もそうなのじゃないですか? それは、脳内にしか存在しないものなのじゃないでしょうか?」

 そう。常識は、自分の世界にしか存在しないものだ。自分の常識に沿って、物事を判断する。だからそれは、自分の世界を他人に押し付けようとする、とても傲慢な行為なのかもしれないんだ。しかも、本人がそれを社会の常識だと錯覚している分だけ、性質が悪い。自分の傲慢さに気が付けない。

 変わるべきなのは、森里佳子という弱者ではなく…… 世間の常識。いや、違うのか。常識に囚われるなとは、つまり、己に囚われるなという事。

 山中理恵は、僕が完全に無言になると、その様子を見てか、

 「すいません。少々、興奮しました。もう少し話の通じない方かと勝手に思っていて。私も、自身の常識で行動していたのかもしれません。ですが、私にはどうしても納得ができないのです。どうかもう少し慎重に答えを探してはもらえませんか?

 取り返しのつかない事を、やってしまう前に」

 と、そう言ってから、その場を去ってしまった。彼女が去った後、僕は自分がどうするべきなのか、分からなくなっていた。

 そして、なんとなく、紺野秀明という人間に会ってみたくなっていたのだ。彼は、森里佳子という存在を観て、どう感じ、どう考えあんな判断を下したのだろう?

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