12.深く潜る
(青年・深田信司)
車は、市街地を目指して走っていた。
環田町の海の水と、そして海原さんを加えた人数を乗せるのには、大きなワゴン車といっても無理があった。車内はかなり狭苦しい状態になっている。正直、快適とは程遠い環境だったのだけど、それでも紺野さんは熟睡をしていた。やはり、かなり疲れていたのだと思う。昨晩はほとんど徹夜したはずだし、その後も働き続けたのだから当然だろう。
紺野さんは僕の横で、気持ち良さそうに寝息を発てている。頼りになる印象とは違って、服を通して伝わってくる紺野さんの体の感触はとても弱々しく思えた。それで、当たり前の話なのだけど、この人も人間なんだ、とそんな事を僕は思った。
車を運転しているのは山中さんだった。ナノネットの検索を行うのに、人と人が途切れてしまうだろう田舎では適さないと考えた僕らは、市街地に行く事にしたのだ。その間で紺野さんは休養を取っている訳だ。
陸のナノネット検索を行うのには、海のナノネットが必要だった。海のナノネットを通さないと、海原さんは陸のナノネットに情報を送れないからだ。だから、充分な量の海の水を車に積んでいる。それほどの量ではなかったけど、それでも車内は磯の匂いに包まれていた。不快ではないけど、奇妙な感じだ。
くまさん…… 里佳子ちゃんは、助手席で眠っていた。彼女もまた疲れているのだ。ナノネットにハッキングするのは、かなり疲労するらしい。更に、彼女にはこれからまだがんばってもらわなくてはならない。それで、比較的快適な助手席で休んでもらっているのだ。
僕。
僕は少し緊張していた。
出発前に、こんなやり取りがあったからだ。
「くまさんと一緒にダイブしてもらう人が必要です」
と、紺野さんがそう言った。
「ダイブ?」
鈴谷さんが疑問の声を上げる。それに対して、紺野さんはこう説明した。
「今回のナノネットは特殊ですし、それに範囲が膨大過ぎます。正直、正確な位置の特定は私の持って来た機器類では不可能でしょう。だから、一緒にダイブして場所を教えてくれる人が必要なのです。里佳子ちゃんやくまさんでは、人間社会の知識はまだ未熟ですから、それをサポートする為の、大人が必要になってくるのですね」
その説明を聞くと、山中さんが残念そうな声を上げる。
「私が、と立候補したいところですが、やっぱり私では無理なのでしょうね」
「そうですね。ナノネットと極めてシンクロし難い体質を持つ山中さんでは無理でしょう。因みに、私も駄目です。機器類を操作しなくてはならないですから。海原さんは海のナノネットから信号を発してもらわなくてはならないので無理。すると、残りは鈴谷さんか深田さんという事になりますが……」
紺野さんはそれから僕と鈴谷さんを見た。その視線を受けて、僕は少し戸惑ってしまう。山中さんがその光景を見て、ため息を漏らすようにこう言った。
「星君がいたら、問答無用で彼なんでしょうけど、困りましたね…… 今から連絡を取るのじゃ遅すぎますし。鈴谷さんもそれほどナノネットと相性が良くないし」
山中さんの言葉が終わると、当然のように僕に視線が集中した。僕も一応、ナノマシンを研究している人間だから、ナノネットとの相性は確かめてある。僕は比較的、ナノネットとシンクロし易い体質を持っているらしいことをそれで知っていた。僕がそう言うと、紺野さんはニヤリと笑った。
「決まりですね。深田さんに、その役目をやってもらいましょう。くまさんと、里佳子ちゃんのサポートをよろしくお願いしますよ」
不意に振られた大役に、僕が緊張をしたのは言うまでもない。くまさんの…… 里佳子ちゃんのその時の表情を見る勇気は、僕にはなかった。
彼女は、僕のサポートを果たして喜んでくれるのだろうか?
車が目的地…… 昨日、ナノネットの検索を行って感触の良かった場所、に着くと、僕らはまず昼食を取った。いきなり検索を始めるべきかと僕は思っていたけど、どうやら作業は長時間に及ぶ可能性があるらしく、ここで腹ごしらえをしておいた方が無難だと紺野さんが判断したのだ。
自然、里佳子ちゃんの様子を僕は気にしてしまう。
一眠りして元気になったのか、彼女はいつもよりも明るいように思えた。ただし、それは緊張感の裏返しのように思えなくもなかったのだけど。
「上手く日下さんを探し当てる事ができるでしょうか?」
昼食の最中、鈴谷さんが不安そうにそんな声を漏らした。すると、紺野さんは頭を掻きながらこう返す。
「正直、五分五分ですね。いえ、大まかな場所ならば特定できるとは思います。ただ、いきなりビンゴは難しいかもしれません」
僕はそれを聞いて、こう尋ねた。実はずっと疑問に思っていたんだ。
「あの、日下さんという人が県知事に対して憎悪を抱いているのだとすれば、その、県知事の周囲を探すべきなのじゃないでしょうか?」
その可能性が一番高いはずだ。ナノネットを検索しなくても、その線で探していけば見つける事ができるのじゃないだろうか。
「もちろん、その可能性は考えてあります。が、そちらはそちらの専門家に任せてあるのですよ。まぁ、前に話しましたが、知り合いの探偵の方に。
それに、県知事に殺意を向けるとは限らないでしょう? 何か妨害工作のような事をするかもしれない。また、直接手を出さなくても何か爆弾をのようなものを郵送するといった手段だってあります。その場合、周辺の探索では見つけられません。
更に言うのなら、日下さんは環田町のナノネットに憑かれているのです。混乱しているその状態で、もしかしたら、環田町を目指している可能性もあります。相手が理知的な行動を執るとは限らない以上、推理する事で正しい結論に至れると考えない方がいいでしょう。できるだけ広い範囲をカバーするのが得策だと私は判断します」
つまり、このままネットワーク検索を行うのが最善の策であるらしい。
……正直に告白するのなら、僕は逃げたがっていたのかもしれなかった。森里佳子ちゃん。彼女と共にナノネット検索を行うのを。それは彼女の内面に触れる事を意味し、また彼女が僕の内面に触れる事をも意味していたから。
それとも僕は、自分の、里佳子ちゃんに対する接し方の間違いを認めるのを怖がっているのだろうか?
いや、違う。僕はいつも、そういうものから逃げている人間なんだ。そういった深く人と関わる事から。いつもの僕の、僕の性質だ。それは。
(僕の自己同一性)
……やがて駅から少し離れた位置に紺野さんは車を停めると、そこからネットワーク検索を開始した。今回のケースでは、電車を介するネットワークに入ると、追いかけ難くなってしまうので、それを避ける意味で駅からは離れたのだ。
海原さんの頭に、コードが付けられる。そのコードは、環田町から持って来た海の水の入ったケースに繋がれていた。
「少しやり難いな」
海原さんはそう言う。確かに、いつもと随分と勝手は違っているはずだ。
「すいませんが、我慢してください。数値は良い値を示していますから、少しがんばってくれれば大丈夫なはずです」
今、海のナノネットから、海原さんは信号を全方向に向けて送ろうとしているのだ。全方向検索という検索方法。
ネットワークが緊密に、全体がわずか数ステップで繋がっているような構造をしているからといって、膨大な要素からなるそれの内の一つを見つけ出す労力は半端なものでは決してない。
例え結び付いていたとしても、その結び付いているリンクが何処にあるのか、その情報は分からないからだ。そのリンクを特定する為には一つずつ試していくしかない。
だから、人の手でそれをやろうとすれば、かなりの手間がかかってしまう。では、何故検索が可能なのかというと、そこにコンピュータのような機械が介在するからだ。
自分のメールアドレスに記載されている人物全てにメールを送る。これを全ての人間が行えば、数ステップで目的の人間にまで辿り着く事ができる。もちろん、コンピュータ・ウィルス蔓延の原因は、この現象によるものだ。そして、この効果は、検索にも応用できる。今回はもちろん、検索に応用するのだけど。
海原さんに発信してもらおうとしているデータは、“日下正史”。その名前とその姿だった。本人ならば、それに反応するはず。返ってくるはずのその反応を受け取り、ネットワークを辿る事で、日下さんの場所を特定しようとしているのだ。
やがて海原さんが慣れ始めると、機器類が激しく活動を始めた。
画面に映っているネットワークに、太い光の線が刻まれていくのが分かる。
「やはり少し辛いですかね」
唸る機器類と、画面を見ながら紺野さんがそう独り言を言った。膨大な量のネットワークを相手にするのだから、それも当然だろう。
数十分の時間が経過する。
画面に張り巡らされたネットワークの、光の線が急速に枯れ始めた。そして、数十本だけが残る。
「取り敢えずは、終わりました。思ったよりは少ないですね」
紺野さんがまた独り言を言う。
恐らく、データを送って返ってきたネットワークのルートだけが、画面に表示されているのだろう。
「この中の何割かは、恐らく、ゴミです。何の関係もないルートを拾って来てしまっている可能性がある。それを考慮し、どのルートから検索を開始するのが良いか、まずはそれを決めましょう」
それを聞くと、鈴谷さんが言った。
「環田町方面は後回しにしませんか?」
「何故です?」
「もし、日下さんが環田町方面に向かっているのだとすると、町に引かれている可能性がかなり高いと思います。その場合、県知事に対する殺意に囚われている可能性は低くなります。なら、発見が遅くなっても安全なのじゃないでしょうか?」
「なるほど。よりリスクが高いと考えられる方向を優先させるべきだという事ですか。それでいきましょう。
すると…… 県庁方面ですか」
紺野さんは画面に現れているルートの一つを指し示した。そして、くまさんを見る。
「くまさん。決まりましたよ」
「ワカッタ」
くまさんは静かにそう言う。その言葉を聞いた瞬間、僕の視界はいきなり暗くなった。目は開いたままなのに。その異変に軽くパニックになったけど、紺野さんから前もってこんな現象が起こるはずだと聞かされていた事を思い出すと、直ぐに落ち着いた。実はくまさんのナノネットと既に僕はシンクロしてあったのだ。
「どうですか?深田さん」
見えない視界の世界に、紺野さんの言葉がそう届いた。
「何も見えません」
「そうですか。この方向のワンステップ目のナノネットは、どうやら動物に憑いているのじゃないみたいですね。
ネットワークを辿っていけば、その内、何か見える事もあるはずです。その時は、それが何なのかを言ってください。徐々に聴覚も失われていくはずですが、あなたの発する言葉はこちらには届きますから」
紺野さんがそう言い終ると、何かが流れたような感触があった。言葉では上手く表現できないけど、感覚が流されているような。それで、僕はくまさんが2ステップ目の移動を行ったのだと考えた。
聴覚が、なんだか濁ったような気がする。そして、目の前の黒が溶け、代わりに擦りガラスを通して見たような景色が広がった。
何かは分からないけど、今度のナノネットはどうやら視覚を持ったものらしい。
「何か見えます」
僕は言う。反応を期待したけど、耳に届く声は既に判別が不可能な雑音でしかなかった。少しだけ、心細さを感じた。だけど、その瞬間だった。
『何かノ動物ダナ。目ハあまり良クないラシイ』
クリアな声が耳に届いたのだ。当然、驚いたけど、直ぐにそれが“くまさん”のものである事を察した。そう。くまさんははじめから僕と共にいたのだ。そして、恐らくは里佳子ちゃんも。
『次ヘ飛ぶゾ』
くまさんはそう言った。それで、3ステップ目に移動する。また視界はなくなる。聴覚がまた少しだけクリアになった。どうやら、また動物ではない何かのナノネットに入ったらしい。
だけど、そのナノネットの中で、僕は妙な感覚を味わった。憎悪。絶望。閉塞感。それは僕にとって懐かしい感覚だった。
それは、僕が子供の頃によく味わっていた感覚ととてもよく似ていたのだ。父親の暴力に怯えていた子供時代の。
そのナノネットのものなのか?
少し考えたけど、それは正確には違っていたのかもしれない。ナノネットから拾って来た何かによって、僕自身がその感覚を思い出し、感じてしまっている、とした方が良さそうだった。そして、もしかしたら、その中にはくまさん… いや、里佳子ちゃんのものも含まれてあるのかもしれなかった…
無言のまま、また感覚が流れた。くまさんが次のステップに移動したのだ。今度は明確に映像を視覚する事ができた。誰か人間の中なのだろうか?
急いで看板を探す。地域の名前が書かれてあり、僕はそれを読み上げた。それほどよくは覚えていなかったけど、確か県庁の近くにある場所のはずだ。どうやら近付いているようだった。
『コノ方向で、イイのカ?』
くまさんの声が頭の中に響いた。
「いいみたいだね」
僕はそう返す。
その段階で、僕はくまさんの能力に合わせて作られた、紺野さんのマシンの性能にやや感嘆していた。
くまさんの世界に僕が入れているという事実。他のナノネットの中に印を付け、それをくまさんが正確になぞれているという点。凄い技術だと紺野さんを認めるしかない。研究者の端くれとしては、やはりそういった事に注目をしてしまう。そして、これだけくまさんに合わせた技術を発展させられた背景には、信頼関係がやはりあるのだろうとも僕は思った。
そしてそれを思った時、またくまさんの声が響いた。
『里佳子がアイツを信用してイルカラナ。オレも、アイツを信用シテいるのサ』
それを聞いて僕は少し焦った。どうやらこの世界では、僕の考えている事がくまさんに分かってしまうらしい。
『タダ、紺野はオレを完全には、信用してネェけどな。マァ、ソレはソレで、正しい態度サ』
え?
僕にはその言葉が少し意外だった。くまさんを信用していないという印象は紺野さんからは少しも受けなかったから。
また、くまさんが言う。
『アイツは、自分ノ内面を見せネェ。
ケド、コレだけアイツがオレに合わセタ技術ヲ開発できたのは、アイツがオレを信用してイナカッタからでもアルんだゼ』
その言葉の意味を、僕は直ぐに理解できた。つまり、信用していなかったからこそ、くまさんの性質を紺野さんはより詳しく調べたという事だろう。その結果として得られた技術がこれである訳だ。
それに対し僕が何かを答える前に、くまさんはまた次のステップに移動した。その意味を汲んだ僕は、敢えて言及はしなった。
(けど)
次。
視界はモノクロで、鮮明ではなかったが、その場所が県庁の直ぐ近くという事は簡単に分かった。場所の凡そを言う。恐らく、これは犬か猫かの視点だろう。それを辿れているというのは、日下という男性が、この辺りを彷徨っていた痕跡が残っているからなのかもしれない。
僕はその事実に勇気付けられ、この辺りのネットワークを巡ってみるべきだと、くまさんにそう言った。
この近くにいる可能性が高い。
だが、しかし、それから中々いい結果は得られなかったのだった。県庁の周辺らしき場所をいくら探しても、肝心の本人には辿り着かなかった。
おかしい。何かが間違っているのか?
辿り着かない以上、日下さんが県庁の周辺にいないと考えるしかなかった。でも、ならば何処を探せばいいのだろう?
やはり見つけられる手段はないのだろうか?
そうも思ったけど、僕は自分が大切な何かを見落としているような気がしてならなかった。
このネットワークに入ってから、僕は重要な何かに一度だけ触れた気がする。県庁に近付くとか、そういったこと以外に。
“相手が理知的な行動を執るとは限らない”
その、紺野さんの言葉を思い出す。そうだ。僕は一度だけ、理知的とは程遠い感覚をこのナノネットに入ってから味わったはずだ。
「くまさん。最初の頃に、妙な感情を味わったのを覚えてる? その場所まで戻る事はできないだろうか?」
『デキルガ?』
くまさんは、僕の言葉を不思議がりながらもそれを試してみてくれた。ほんの2ステップでその場に戻る事ができた。流石、スモールワールド・ネットワークだ。そして、憎悪。絶望。閉塞感。そんなものが渦巻いているのを僕は感じる。先に訪れた時よりも薄らいではいたけど、それはまだ残っていた。
……紺野さんが見つけた、正のフィードバックの法則に則った情報流動。このナノネットに、それに従わないタイプの情報の流れがある事は確かだ。そうじゃなければ、海原さんが送ったデータが、返ってくる事もないはずだし、こうやって検索が可能になるはずもない。ならば、そうやって流れたデータが痕跡として存在している可能性だって充分にあるはずだろう。
この感覚は、その痕跡じゃないだろうか?そして、この場所が、日下正史までの道のりの一つである事を考えるのなら、これは日下正史の痕跡である可能性が高い。
「くまさん」
僕はまた言った。
「これと同じ感覚がある、リンク先は分かるかい?」
くまさんは無言のまま移動を開始した。嫌なのかもしれない、彼も。この感覚を。だから、その可能性を避けていた。――それは僕にも言える事かもしれないけど。
二度、くまさんが移動を繰り返すと、いきなり全ての感覚が静まった…… ように思えた。
寒い。
そして僕は寒いと感じたのだ。
“それ”はうずくまっていた。その場所が何処なのかは、腕で視界を塞いでしまっているから分からない。そして、その誰かの中には憎悪と絶望と閉塞感が同時にあった。
日下正史か?
僕はそう思う。しかし、確証は持てなかった。一体、どうやって見分ければ良いのだろう?
困惑している僕に向かって、くまさんが言った。
『日下正史ダ。辿リ着イたゾ』
日下正史。これが。
「見つけました」
それを聞くなり、僕は大きな声でそう言った。もちろん、紺野さん達に聞こえるようにだ。だけど、その後で予想外の事が起こったのだった。
「誰だ?」
日下正史が反応をしたのだ。
その瞬間、彼は顔を上げた。それで視界が開けた。木がたくさん見えた。僕はそのチャンスを逃すまいとまた叫ぶ。
「木がたくさんあります! 森… いえ、公園か何かだ。看板が見えます。○○公園?」
「誰だ!?」
そして、僕のその声に反応するかのように日下正史はまたそう言ったのだった。
怯え。
僕はその声の中から、そんなものを感じた。怯えている。ストレスによって、心の傷が刺激され、痛み始めているのだ。そうなのか、と僕はそれで悟る。この男は、自分の中にある狂気に恐怖しているのだ。多分、この数日の間、闘っていたのだと思う。自分の中から湧き出てくる憎悪と。先の見えない絶望や、自分の居場所がないという閉塞感とも結び付き、時にはそれは、自分にも向かっていたのかもしれない。
僕の声が、何に聞こえたのだろう? この男には。
死んでしまおうか。
そうすれば、楽になる。
希死念慮を否定したいという思い。でも、どうして否定しなければならないのかが分からない戸惑い。
辛かったのだろう……
そこまでを思って僕は気が付いた。それが日下正史の、彼だけの物語ではない事に。
『……苦しかったの?』
苦しかった。
そう答えた後で、その声がくまさんのものではなく、里佳子ちゃんのものである事を僕は分かった。そうだった。彼女も常に一緒にいたんだ。
本当は助けたかったんだよ。僕は。君の事を。
僕は里佳子ちゃんに向かってそう言った。言った後で否定する。
いや、違うか。本当に助けたかったのは自分自身だったのかもしれない。……子供の頃の自分自身。
そう答えた後で、僕は泣いていた。いや、泣いていたのは日下正史だった。でも、それは同時に僕自身でもあった。そして、それはまた里佳子ちゃんでもあったし、くまさんでもあった。
こんな場所に君はいたのか?
そう問い掛ける。幼い子供が、両親から恐怖される環境で育てられるという現実。自分の存在に自信が持てない世界。
『あなたもね』
僕の問いに彼女はそう答える。
『それに、あたしはあなたよりもマシ。だって、紺野さんがあたしを助けてくれたから。この子も含めての、あたし自身を』
紺野さん。
その言葉が発せられた時、別の場所で別の何かが反応した気がした。或いは、それは日下さんのものだったのかもしれない。
ああ、僕は間違えていた……
そして、それを聞いた瞬間、理屈ではなく感覚として、僕は自分の行為の過ち受け入れる事ができたのだ。もちろんそれは、感情的なものに過ぎない。でも、それこそが、その時の僕に本当に必要なものだった。
ナノネットの世界から解放され、自分の感覚を取り戻した時、時刻は夕刻だった。そして、実際の僕も涙を流していた。
「日下さんは見つかりましたよ」
目覚めた僕に向かって、紺野さんがそう言った。




