9.自己の保持
(研究員・深田信司)
里佳子ちゃん…… いや、くまさんが行き先を指し示し先導するように歩き出すと、その後を一番初めに追ったのは僕だった。
なんとなく、この役割は紺野さんの方が相応しいと感じていたから、自然に動き出してしまった自分の足に戸惑いを感じるのと同時に、その場の状況そのものに違和感のような何かを覚えた。
里佳子ちゃんは、自分の中にあるもう一つの人格“くまさん”を誇りにしている。
くまさんのしっかりとした足取りを目で追いながら、僕は自分の中にある罪悪感をはっきりと自覚していた。ただ、罪悪感を覚えつつも、何故か僕は安心をしてもいた。間抜けな迷宮を脱する手がかりを見つけたような、そんな気がしていたからかもしれない。
この旅路の途中。迷いを振り切るように、紺野さんに対する負い目も手伝って、僕は今回の調査に懸命に協力をした。取り敢えず、それで今の自分の悩みを忘れる事ができたからだ。でも、里佳子ちゃんの態度、彼女のくまさんに対する感情を目の当たりにして、僕の悩みはまた浮かび上がって来てしまっていた。
――僕は間違っていたのだろうか?
――答えはどこにある?
その問い掛けも何だか間抜けに思える。僕は、恐らく、自分が間違っていて欲しいと願っている。でも、その為のはっきりとした形は何も見えてはいなかった。
くまさんを別にすれば、僕は一番先を歩いているから、他の人間の表情を見る事ができない。振り返る勇気もない。紺野さん達は先を歩き出してしまった僕をどんな表情で見ているだろう? いや、今は僕の事なんて意識に昇っていないかもしれない。今は、この事件の展望を見つめる思いの方が強いだろう。
先。
くまさんが目指している場所らしきものが、ようやく分かってきた。
杭が立てられ、青の網で大きく海を囲ってある。その囲みの中、桟橋のような場所には小さな建物が設けられていた。くまさんが目指しているのはその場所だ。この町は養殖が盛んだというから、何かしらの養殖場だろうか。しかし、それにしては張られている網は、妙に頼りなさそうに見えた。
どんな生き物を養殖しているかは分からないが、これでは直ぐに逃げ出してしまいそうだ。
やがてその場所まで辿り着くと、くまさんは躊躇することなく、桟橋を渡り始め、小さな建物を目指した。僕は少し慌てたけど歩みを止める訳にはいかない。そのまま、くまさんの後を追った。
建物の中には人がいる。
少し暗がりになってどんな人物だかは分からないが、作業服のようなものを着ている事は分かる。恐らく、この養殖場らしき場所の作業員だろう。
くまさんが立ち止まるのと同じタイミングで、その作業員は建物の中から出てきた。作業服の泥臭い印象とは違って、その作業員は若く、そして清涼感を覚えるようなタイプの顔立ちをしていた。
作業員はくまさんを見ると、やや驚いたような表情を浮かべ止まった。恐らく、何故こんな所にくまのぬいぐるみを持った少女がいるのかと考えているのだろう。それから、僕らの方を見る。少しだけ理解したような顔になった。多分、僕らを保護者だと判断したのだと思う。そして、その視線を受けて、僕は何も言う事ができなかった。
大体、状況が分からない。
何を、どうすればいいのだろう? この場に、一体、何があるというんだ?
紺野さんを見てみると、何故か妙な機械を取り出しそれを海に向けていた。当てにはできないらしい。
「ここは何の為の場所なのですか?」
突然に横から声がした。山中さんだ。明るく印象良く響く声だった。こういう場面に慣れているのか、少しも物怖じしていない。人の好さそうな作業員は、その言葉を受けると「養殖場です。他にも色々とあるのですが、この場所ではウニの養殖をしています。失礼ですが、あなた方は……?」
「あ、これは申し遅れました。私達はこの町を取材に来ているのです。出版関係の人間です。
少し取材して、この町の自然と共存しているところに惹かれたもので、お話を聞けないかと思いまして。大所帯ですが、学者の方などもいるものですから……」
それを聞いて、よく咄嗟に機転が効くものだと僕は感心した。全てが嘘という訳でもなかったけれど、簡単に言葉が出てくるのは凄い能力だと思う。紺野さんが山中さんを頼る理由が、少し分かった気がした。
「取材ですか……」
若い作業員は、明らかにくまさんを見ながらそう言った。確かに、取材に子連れは不自然だろう。それを誤魔化すようにして、再び山中さんは口を開いた。
「私、養殖の事についてあまり詳しくはないのですが、ウニの養殖って珍しいのじゃないですか?」
「はい。まぁ、珍しいのでしょうねぇ。と言っても、完全養殖ではないのですが。
ここはちょっとした生態系の仕組みを利用してウニを養殖しているのですよ。ウニに食べられるある種の海草は、ウニの繁殖を抑える為の物質を分泌するのですが、その海草を除去する事で、ウニを大量発生させるのです。もちろん、それだけじゃウニの餌が足りなくて小さなものばかりになるので、そこはちょっと工夫しているのですが」
「この町は生態系の輪に、人間社会を組み込ませる事を理想にしていると聞きました。そういった点からの工夫は、この養殖場でもなされているのでしょうか?」
突然の取材にも拘わらず、作業員はしっかりと質問に答えていた。もちろん、それは山中さんが半ば強引に質問をし続けているからだろう。もっとも、山中さんがいかにも興味ありそうな態度で質問をしている所為か、作業員の方も決して嫌そうな顔はしていないのだけど。
「農業における総合的害虫防除という考え方を知っていますか?
殺虫剤で害虫を殺し過ぎてしまうと、その害虫を餌にしている天敵が減少する。すると、天敵が減った事で害虫の生存が有利になってしまう。また、殺虫剤に対しての抵抗性を害虫が持ってしまったりもする。結果的に、以前よりも、害虫が大量発生するといった事態が起こってしまうケースもある。
害虫を捕食する天敵を保護する為には、ある程度の害虫の存在を認めなければならない。少しの被害は覚悟して、生態系のバランスを考えて、その中に農業の営みを組み入れていこう……
ま、そんな感じの発想なんですが、この町の養殖場は、全てそんな発想を取り入れていますよ。もちろん、陸の生態系も考慮してあります。
直接は害になると思えるような生物も、ある程度は受け止め、バランスを考え保護しつつ、ある一定の生産量を確保しているのですね」
見ると、山中さんは本当にメモを取り始めている。確かに、なかなか面白い話ではあるかもしれない。ただ、流石にこれ以上は間が保てそうにもなかった。どう話を繋げればいいのかも分からない。この場所を訪れた本当の目的が何なのか、僕には分かっていなかったし、多分、山中さんにも分かっていないはずだからだ。
僕はちょっと紺野さんの方に目をやってみた。すると、紺野さんはくまさんから、何かを聞いていた。そして、それから、
「生態系に組み込む。という事は、当然、循環についても考慮しているのですか?」
そう、山中さんの背後から、その作業員に向けて質問をしたのだ。
「循環、といいますと?」
作業員は少しだけ怪訝そうな顔で、そう聞き返した。
「物質の循環です。水産資源を奪取してばかりでは、やがて枯渇してしまうでしょう。いくら海が広大だと言っても、限りがあります。
少し前に盛んに行われた捕鯨議論。鯨ばかりを特別視するのは、確かに変な話で、自分達の文化特性を他国に押し付けているようにも考えられます。また、もし鯨の餌となる魚が枯渇しているのであれば、捕鯨によって数を調整しなければ、やがて鯨が餓死してしまうといった事態が起こる事も考えられなくはない。海の生態系は陸の生態系とは少し性質が異なりますから、先に餓死するのは他の生物かもしれませんが、それでもその危険性は存在します。
だから、捕鯨をするべきではない、という西洋諸国の主張には無理があるようにも一見は思えます。ただ、鯨を人間が捕らえ、消費してしまえば結果的に海の生態系の栄養素の循環を断絶させる事になります。鯨の糞や死体などは海の生態系の物質循環の一つを担っているのは確かなのですから。生態系を壊す事に繋がってしまいますね。そう捉えるとするのなら、彼らの主張も正しいと思える。
ただし、これは鯨という種類の生物だけの問題ではありません。水産資源全般に言える事なのです。そもそも、人間が捕鯨を開始する前から、海の生態系は存在をしていた。捕鯨を止めると、生態系のバランスが崩れてしまうというのなら、それは人間社会全体の海の生態系との付き合い方に問題があると捉えるべきでしょう。それは西洋の国々の問題でもあります。鯨を本当に助けたいのなら、自分たちの行動も改めなければならないでしょう。表面上でだけで鯨保護を叫んでも、本質的な解決にはなりません。
そして、そういった観点からも、生態系の循環を考慮した養殖場には価値がある。生態系を破壊する事なく、人間社会は水産資源を得られますから。少なくとも私はそう考えます。だから、気になるのですね。ここの養殖場が循環を考慮しているのかどうか」
思いのほかの長広舌で、それだけの事を一気に紺野さんは語った。ほとんど寝ていない所為か、少し興奮気味なのかもしれない。山中さんや、鈴谷さんも少し驚いているようだった。そしてもちろん、養殖場の作業員も驚いていた。
「やや、驚きました。学者の方ですか? 生態系の深い知識を持っておられるようですね。
その通りです。生態系の物質循環にはとても意味があります。だから、それを考慮してこの養殖場も運営されていますよ。バイオマスを考え、適度な循環を維持できるように工夫されています。何しろ、僕は今からその為の作業をするところなのですから」
そう言うと、作業員は桟橋の隅に置いてあるバケツを指し示した。
「量を微妙に調節できるように、少しずつ投入しているので、バケツで撒いているのですよ。あの中には栄養素の他に、微生物なども混ぜられています。もちろん、有機物がきちんと分解されて、他の生物に利用できるようにです。デトリタス…… 有機物とそれらを含む微生物群体の事ですが、それを人工的に作ってやっていると考えるといいかもしれません」
紺野さんはそれを聞くと大きく頷いた。いつの間にか、山中さんを追い越して前へ出て話を聞いている。どうも、本当に説明に関心を示しているようにも思える。ただ単に話が聞きたいだけなのかもしれない、とそれで僕は少しそう思ってしまった。けど、
「デトリタスは、水中の生態系では特に重要な役割を果たしていると言われていますから、それも納得がいきます。なるほど、それで、その中にナノマシンも混ぜられているという訳ですね」
それは極自然な流れで発せられた何気ない質問であるようにも思えた。僕は、作業員の表情が変化しなければ、その質問の本当の意図に気が付かなかったかもしれない。作業員は少し表情を引き攣らせると、それから、それに対してこう答えた。
「ええ、何をするべきか判断する為には、海がどんな状態であるかを知る必要があります。そのデータを集める為に、ここではナノマシンを用いています。だから、この中にもナノマシンが入っていますね」
答えた後で、作業員は笑った。それがいかにも作った笑顔だったので、何かがあると直ぐに分かった。
紺野さんは続けて言葉を発する。
「失われるのは物質だけではない。ナノマシンも失われていきますから、当然、しなければいけない作業なのでしょうね。ナノマシンの補給は。
興味深いのは、ネットワークの自己同一性がそれでどの程度保たれるかです」
それを言った後、紺野さんは作業員がどう応じるのかを待っていたようだけど、作業員は何も言わなかった。作業員は探るように、紺野さんを凝視している。彼は彼で紺野さんの次の言葉を待っているのかもしれなかった。それで、紺野さんは続きを語り始めた。
「複雑な生態系ネットワークほど、安定していると言われていますね。しかし、ここで言うネットワークとは必ずしも全く同一のものを指し示してはいない。ネットワークは常に変化している。様々な要素が影響を与え合って変動し続けている。
仮に生態系に自己同一性とでも呼ぶべきものがあったとするのなら、生態系の自己同一性はどの様にして保たれていると考えるべきなのでしょうか。私は、これをちょっと面白い問題だと思っているのですよ。あなたはどう思いますか?」
……恐らく、紺野さんはナノマシン・ネットワークを連想できるように、意図的に生態系ネットワークの話題を出して、作業員に語りかけている。
ナノマシン・ネットワーク。
そこには、人格とでも呼ぶべきものを保持する事ができる。そのネットワークの自己同一性は、どうなっているのか。
そして。
僕にとってその話題は、もう少し別の意味を持ってもいた。当然、考えてしまう。人格の自己同一性。森里佳子。彼女のそれはどう保たれているのだろう?
それを聞くと、作業員は弱く笑った。
「ははは… これは難しい質問をしますね。困りました。生態系の自己同一性ですか。正直、考えた事もありません」
「まぁ、そうでしょうね。無理もありません。これはとても難しい問題です。明確な答えなど恐らくはないでしょう」
――明確な答えなどない。
僕は、紺野さんのその言葉に反応をする。
「人間は弱い生き物ですから、直ぐに簡単な答えを求めたがります。しかし、世の中に簡単に答えを出す事のできる問題などほとんどありません。だから、曖昧にそれらを受け止めなくてはならない。しかし、それは理解が全く及ばない事とは、必ずしも同一ではありません。
つまり、考える手段はあるのです。
……では、試しに少し考えてみましょうか。
自己同一性というものが、我々が考えているのよりも、ずっと弾力のあるものである事は確かでしょう。しかし、あまりに変化がきつすぎれば、やはり耐え切れなくなって同一性を保てなくなると見なすべきだと思います。ただし、その境界線を判断する基準など、人間に定められるものではないのかもしれない。
しかし、それでも私は、考え易くする為の何かしらの便宜上の基準を設ける事は可能ではないかと考えます。
例えば、機能です。その生態系が人間に生産物を供給してくれているというのなら、それを基準とし、その役割を担ってくれている限りにおいて、生態系の自己同一性が保たれている、としてもいいかもしれない。私はそんな風に考えます」
作業員が黙り続けている間に、紺野さんは語りを広げていった。理論の拡張というかなんというか、まるで何かの学説を聞いているように思える。そしてその内容は、そのまま僕の悩みにも繋がっているように思えた。
もしも、これを人間の自己同一性に当て嵌めるとしたらどうだろう?
人間関係の中。
人間関係の中での、人の役割。幼い森里佳子にだってそれはあるんだ。そして、それは自分がどんな役割を担いたいか。それとも関係している。少なくとも、今の彼女はくまさんという人格を、自分の役割としている。そして、それは彼女の両親が望むものとは全く別の役割なんだ。
彼女にとって、何が仕合せなのだろう? 彼女の自己同一性って何だ? 彼女の人の中での位置って? 恐らく、これにも明確な答えなどないのだろう。でも、それでも……
(僕は)
作業員は紺野さんの説明の意図を理解できないでいる所為か、怪訝そうな表情を浮かべていた。そして、戸惑いながらこう返してきた。
「面白い話ですが、この養殖場に関する質問としては、少し難しすぎると思います。すいませんが、どう答えればいいのか僕には分かりません」
「そうですね。確かに、長々とこれ以上、この話をし続けてもこの場では意味がないでしょう。個人的には、好きな話題なのですがね。
では、私の本当の疑問を単刀直入に質問しましょう。
この、海の中にあるナノマシン・ネットワークの自己同一性は、一体どうやって保たれているのですか?」
紺野さんがそう言うと、作業員は目を丸くした。
「どういう意味です?」
「この海の中にあるナノマシン・ネットワークは、何かしらの役割を担っているのでしょう? その為には、自己同一性を保持しなくてはならないはずです。自然のままに任しておいて、保てるような性質のものではないはずですからね。その方法に私は関心があるのですよ。すいません。失礼は承知で質問をしています。ですが、私達は少々、緊急を要する問題を持っていまして。時間がないのです」
一瞬、間ができた。
その後で、作業員はやっと理解をしたような表情を浮かべた。そして、それから笑った。にこやかに。
「あははは。
なるほど。なるほど。そういった意味だったのですか。どうして、そんな話をするのか全く分かっていませんでしたよ。
とすると、さっき、海の中のナノネットを探っていたのはあなた方ですね? 気のせいじゃなかったのか、あれは」
その言葉を受けると、紺野さんは少しだけ満足そうな顔になった。
「失礼ですが、探らせてもらいました。あなたと海の中のナノネットが繋がっている事も、それで知っていたのです。ならば、あなたは何かしら海の中のナノネットと関係があるはずでしょう? 状況、立場から考え、私は、海の中のナノネットをあなたが管理しているのではないかと推測したのですが、どうでしょう?」
それを聞くと作業員は、真面目な顔になってこう答えて来た。
「その質問は正解だとも間違っているともいえますね。ただ、これ以上の質問に答えるには、あなた方の素性を知らなければ僕としても承諾できません。納得のいく理由も必要だと思いますし。
あと、実を言ってしまうのなら、僕にそれを説明して良いかどうかを判断する権限なんてないのですよ」
作業員は紺野さんから視線を外すと、僕らの背後を見たように思えた。
「素性はお話しましょう。私達は怪しいものではありませんよ。理由も納得がいくと思います。先にも言いましたが、私達には時間がないのです。誰に尋ねれば、この海の、いえ、この町全体のナノネットに関する質問に答えてもらえるのでしょうか?」
それを聞くと、今度は作業員は視線を完全に僕らの背後にシフトさせた。そして、
「心配しなくても、どうやら都合良く現れてくれたようですよ。“オリジナル”が」
と、そう言った。
僕らは当然、後ろを振り返る。すると、そこには一人の老人が立っていた。その老人は少しだけ怒った様子でこう言う。
「その呼び方はやめろと言っただろうが」