0.自己組織化現象
(怪談収集家・山中理恵)
ホムンクルス、
という言葉を聞いた事があるでしょうか? 恐らく、聞いた事があるという人のほとんどは、物語の中などでよく登場する、人間の精液などから作り出される架空の人工生命体を思い出すのじゃないかと思います。
ですが実は、ホムンクルスには、他にも様々な意味があるのです。そして、今私がここで取り上げようとしているホムンクルスはその違った意味の方なのです。
生物の誕生に関して、かつて前成説と呼ばれる学説がありました。生命の子供は、精子或いは卵子の中に、完全な姿で既に存在しており、それが大きくなる事で子供として誕生してくる。簡単に説明するのなら、前成説とはそんな学説です。そして、先の架空の人工生命体の「ホムンクルス」からとり、この学説が正しいのなら存在するはずの、小さな人間の雛形をホムンクルスとそう呼ぶようになったのです。
ですが、この前成説、少し考えるとおかしな点がある事にすぐ気が付くはずです。生まれる前から、子供は完全な姿で既に生命の体内に存在している。なら、その子供の中にも更に小さな子供が存在していて、同じく完全な姿でなければならない。もちろん、その子供の中にも小さな子供が…… つまり、もし生命が無限に誕生できるのならば、無限に小さな子供が、無限に小さく存在し続けなければならないのです。無限に、入れ子構造で生命の中に、生命が存在し続ける…
有り得ない話だと考えざるを得ません。
もちろん、有力な証拠が提示されるようになると、時間はかかりましたが、学者達の間で、前成説は否定されるようになっていきました。そして、生命は遺伝子を元に生成されるという、後成説が支持されるようになっていったのです。
ですが、この前成説… ホムンクルス幻想(とでも呼びましょうか)は、形を変えて生き残っていると主張している人もいるのです。
どういう事かといいますと…
遺伝子を生命の設計図だと考えている人はかなり多くいると思います。そして、遺伝子には生命の身体組成を決定する力があると想定している。ですが、これ、実は間違った考え方らしいのです。少なくとも、遺伝子は私達がイメージするような、設計図のようなものではないのだとか。
そして、この設計図としての遺伝子という考え方は、人間の雛形が存在するという考えと大差ないとも取れるのです。ホムンクルスが遺伝子に変わっただけで、生命がそこで自己生成されているという発想がない。考え方が進歩しているとは言い難いかもしれません。だから、そういう意味では、ホムンクルス幻想は生き残っていると言えるのかもしれないのです。
では、設計図ではないとすれば、遺伝子とは一体なんなのでしょうか?
様々な人が色々な言葉で、それを表現しようと苦労しています。例えば、一種の化学的コンピューターだとか。ただ、私はまだ納得できるような上手い表現に出会った事はありません。恐らく、遺伝子とは今までの人間社会の概念にはないものなのでしょう。だから、とても表現がし難いのです。
説明するまでもない事かもしれませんが、生命の身体は、機械みたいに部品と部品を組み合わせて作り上げられはしません。その生成過程は機械のそれとは大きく異なっています。生命では、機械には見られない、“自己組織化現象”というものが起こっているのです。因みに、だからかもしれませんが、紺野さんという私の知り合いの研究者の方は、遺伝子を“自己組織化現象を起こす為の装置”と表現していました。
紺野さんという方は、ナノマシンによって形成されるネットワークを研究しているのですが、どうも、それにも自己組織化現象が関わっているらしいのです。その表現は、恐らくその研究からの着想なのじゃないかと私は考えています。
自己組織化現象。
ちょっと耳慣れない言葉かもしれません。
自己組織化現象とは、(私も完全に理解している訳ではないのですが)無秩序の中から秩序が形成される現象を言うのだそうです。そして、遺伝子はそれを起こす為に重要な役割を果たしている何か。設計図ではない。だから、遺伝子を元に形成される身体は、私達がイメージするようなものとは違った組成を見せるのだそうです。
例えば、毛の色や身体の模様などといった単純な形質でさえも、環境によって微妙に、時には大きく違ってしまうのだとか。ほんの少しの刺激で、鳥の口ばしに歯を生やす事だってできるのだそうです。もしも、遺伝子が単なる設計図ならば、こんな事は起こらないはずでしょう。
ただ、この自己組織化現象と呼ばれるものは、人間にとって理解がとても難しく、人間の脳は、自己組織化現象を理解し易いようにはできていないとまで言われています。だからこそ、前述したホムンクルス幻想はなかなか消えないのかもしれません。
ただ、中には簡単に理解できるものもあるにはあるみたいなのですが……
ある時、私が自己組織化について質問をすると、比較的単純に理解でき、かつ重要な現象だという、“正のフィードバック”によって起こる自己組織化現象を、紺野さんは私に教えてくれました。
私が自己組織化現象に興味を持ったのは、それが私の好きな怪談だとかにも関係しているという話を聞いたからです。なんでも、人間社会に怪談が発生して、それが定着する経緯には、自己組織化現象が起こっているらしいのです。
ただ、紺野さんの初めの説明はとても難しくて、私には理解できませんでした。それで困っていると、紺野さんは笑いながら、
「そうですねぇ… では、何か紐のようなものを思い浮べてはもらえませんか?」
なんて言ってきたのです。
「……紐ですか?」
「はい。そして、その紐で山中さんと私が結ばれていると想像してみてください。その紐を、人間関係のリンクだと考えましょうか。そして、ですね、私がこのリンクを利用して他人との繋がりを増やそうとしている、としてみてください」
「はぁ……」
その時、その説明が何を意図したものなのか、私にはさっぱり分かっていませんでした。
「すると私は、山中さんの知り合いと繋がりを持とうとするでしょう。そして、繋がりを持てば、その繋がりを利用して、更に繋がりを増やす事ができるのです。つまり、人間関係のリンクは多ければ多いほど、新しい人間と巡り合う機会を多くします。人間関係が増えた、という結果が、更に人間関係を増やすのですね… こういったように結果が原因を更に強くし続ける現象を“正のフィードバック”と言うのですが、例で出した通り人間関係の多さには正のフィードバックが関わっていると言われています」
この時点でようやく、少しだけですが、私は紺野さんの説明が、自己組織化現象に関係している事を理解しました。
「だから、一部の人が、他の人に比べて圧倒的に人間関係が多いなんて事も起こります。人間関係のリンクで人付き合いを増やし始めると、正のフィードバックによって、人間関係が等比級数的に増える事になるからですね。
ここで紐のイメージで、人間関係を思い浮かべてみると、集中して私に紐が連結している事になります…… 実は、これは組織化が起こっていると表現できるのですよ」
「つまり、それが自己組織化現象なんですか?」
「まぁ、その内の最も単純な一例ですね。ただし、様々な事象で観られるもので、とても重要な概念でもあります。
例えば、あなたの好きな怪談でだって、人間社会に定着する過程で、恐らくこの正のフィードバックは起こっていますよ。有名な噂話ほど、囁かれる可能性も高くなって、より定着し易くなる。もちろん、こんな要因だけでは説明できないでしょうが。その他にもこの“正のフィードバック”は、都市の形成や、交通網の発達、生命の身体の化学的構成など、様々な事象で観察できます」
「へぇ…… 面白いですねぇ」
後で聞いた話なのですが、紺野さんは実際に“正のフィードバック”を利用して人間関係を増やしているのだそうです。私から見れば異常な程、顔が広い理由がこれでようやく分かりました。
――紺野さんはこの時、“正のフィードバック”による自己組織化現象が、様々な事象で観られる重要なものだと教えてくれた訳ですが、私は後で、その事を実感する事になります。ある事件と関わる事によって。