89 根本遥の独白⑱ 収穫と教訓
あたしは電話を切った後、ぶるりと震えた。暗闇の中から、オタフクのお面がヌッと飛び出して来そうな気がした。
気を取り直して殺虫スプレーを右手に握り、扉を開け急いで自転車に跨った。ギアを最小に設定して素早くペダルを回す。勢いがついたところでギアを最大にして暗闇の道路を突っ切った。車輪にまとわり付いた雨水が飛沫を上げる。
あたしは脳裏に浮かぶ桐島努の面影を掻き消しながら夢中でペダルを漕いだ。
桐島努は勝負に負けた。自分で危険な役を買って出て、事前に襲われる事を知っていたのに、鈴木静の攻撃を躱せなかった。
あたしは重々しい気持ちをプラス思考に変えていく。鈴木静を陥れる計画に、あたしが関与している事を知っていたのは桐島努ただ一人。彼がいなくなったことで、あたしの匿名性はさらに高まった。従順な持ち駒を一つ失ったのは残念だけど、今回の作戦で十分な収穫があった。
まず、オタフクの仮面を被った人物は平気で人を殺すこと。さらに証拠の隠滅も冷静で抜かりがなかったと海野洋は言っていた。
オタフクの仮面を被った人物が鈴木静本人であるとすれば、左足は問題なく動くし、桐島努が小柄で動揺していたとはいえ、身動きできないように押さえつける力と技術があるということ。やはり鈴木静は侮れない。
そして、海野洋は桐島努の殺害現場を目の当たりにして狼狽えていた。そこにあたしは付け入る隙を見つけ、優しい言葉を掛けて懐柔した。いつまでこの効果が続くかわからないけれど……。
あたしはマンションの自転車置き場に戻ると、鍵も掛けずに自転車を投げ出し、脇目も振らず階段を駆け上がった。びしょ濡れのまま部屋のドアを開け、中へ入ると同時に施錠した。三和土に上半身をあずけ、荒い呼吸を徐々に落ち着かせた。
ここに籠城している限り、鈴木静はあたしに手が出せない。やむを得ず外出する時は、何があっても慌てず、いつでも反撃できるようにしておく。桐島努の死の教訓を、あたしは無駄にしないと心に刻んだ。
九月に入って、行方不明になっていた桐島努の遺体が、遠く離れた川の下流で引き揚げられた。翌日から降り続いた大雨の影響で、水嵩が上がり、川の流れも速くなったのが原因かも知れない。遺体の損傷が激しければ、また鈴木静のお望み通り、事故として処理されそうだ。
今のところ切り札は、海野洋が撮影した【オタフクの動画】のみ。現物を見ていないけど、鈴木静の犯行と裏付けるにはやや決定力に欠ける。それを脅しに使えば、鈴木静は監視の目を警戒して、次の作戦に支障をきたすかも知れない。
あたしは今後の予定と撮影した動画の取り扱いを海野洋に確認させるため、万全の態勢を整えて、久しぶりに夜の町に出掛けた。
電話ボックスの扉を閉め、周囲を警戒しながら足でドアを押さえつけた。万一電話中にオタフクが襲ってきても、しばらく侵入は防げる。それでも強引に入って来たら、目に殺虫スプレーを浴びせて、硬いスプレー缶の底で顔面を攻撃する。敵の視覚さえ奪えば、必ず逃げ切れる自信はある。
あたしは意識を半分周囲に向けながら、腕時計の時刻を確認した。午後九時半。海野洋と取り決めをして、平日のこの時間帯に、用事がある時は連絡すると伝えていた。
あたしが電話を掛けると、海野洋は待ち望んでいたかのように、間髪を入れず電話に出た。
『やあやあ、君か。久しぶりだね。今日は何の話かな?』
「……やけに嬉しそうじゃないですか。何か良い事でもあったんですか?」
興奮した様子で話す海野洋を不思議に思って尋ねてみると、あたしの思いもよらない事を話し始めた。
『実は先週の土曜日、偶然小鳩駅で白川さんを見かけたんだ。向かいのホームにいて、黒いワンピースを着てた。すごく綺麗になってたから、思わず動画に撮っちゃったよ!』




