88 根本遥の独白⑰ オタフク
「わたしに分かるように、落ち着いて話してください。一体何を目撃したんですか?」
あたしは受話器を耳に当て、溜め込んだ息をゆっくりと吐き出した。
『どこから話すべきか……僕は前日の夜に、君に指示された事をそのまま鈴木静に告げたんだ。翌日の晩、午後八時以降に河川敷に向かい、そこにいる桐島努を川に突き落とすように』
「それで?」
『当日、僕は鈴木静に尾行が気づかれるリスクを避けて、日が暮れるのを待ってから現地に先乗りした。茂みに隠れて、報復の様子をちゃんと撮影するために』
「なるほど……」
『桐島努は川辺に小さなテントを張って、折り畳み椅子に座っていた。ランタンの明かりで現場は適度に明るくて、動画はちゃんと撮れていたよ。だけど……』
「だけど?」
あたしが問い返すと、海野洋は呼吸を整えながら当時の状況を語った。
午後九時を少し過ぎた頃、黒ずくめの人物が現れ、ゆっくりと桐島努の背後に近づいて行った。気配に気づいた桐島努は振り向いて立ち上がり、両者が向かい合う。
ランタンの明かりが二人の顔を照らした。桐島努は片足を水につけて後退った。
『黒ずくめのフードを被った相手は――縁日でよく見かけるオタフクのお面をつけていた。間違いなく鈴木静だと思うけど……』
あたしはその光景を思い浮かべ、絶句した。海野洋は構わず話をつづけた。
桐島努は動揺した様子でさらに後ろに下がり、両足を川に沈めた。そして川底の石に躓いたのか、背中からひっくり返って尻餅をついた。
『水深が浅かったから、僕はどこか安心していたんだ。だけど――次の瞬間、背筋が凍りついた……』
「一体、何があったんですか?」
『オタフクが! オタフクが飛び掛かって、桐島の顔を両手で川の中へ沈めた。桐島は必死に抵抗しようとしたけど、両腕はオタフクの両膝で抑えつけられていた。必死に藻掻いていた両足も、しだいに弱くなって……』
「……桐島努は動かなくなった?」
あたしが囁くと、海野洋はしばらく黙り込んだ後、くたびれたような声で言った。
『僕はこの動画を持って、警察に行くべきだろうか?』
「フフフ……忘れてしまったんですか? 鈴木静に、桐島努を川に突き落とせと命令したのはあなたですよ。あなたが自首するかどうかは自由ですから、お好きにどうぞ。
でも、あなたが撮影した動画は、鈴木静にとって少しは脅威になるはず。また、その動画は、あなたの身を守るための切り札になるかも知れません。
報復はまだ始まったばかり。そして今のところあなたの正体は、鈴木静にバレていません。
鈴木静にできるだけ重い罪を被せて、決定的な証拠を手に入れる。そうすれば、どんな言い逃れをしようが、彼女の刑務所行きは免れません。あなたは素知らぬ顔で元の生活に戻る事ができます」
あたしが慰めるように言うと、海野洋は弱々しい声で答えた。
『……正直言って僕は鈴木静が怖い。脅して飼い馴らせるような自信が無いんだ』
「今回の事で、わたしも鈴木静の恐ろしさを痛感しました。このまま手を引きたいところですが、あなたの力になりたいとも思ったんです。あなたのストーカー動画はすべて消去します。もう脅したりしませんから安心してくださいね」
あたしは目一杯優しい声で言った。
『ありがとう! 僕はもう、どうしたらいいか分からないんだ。また君にアドバイスしてもらえると助かる。よろしく頼むよ!』
海野洋は縋るような声であたしに言った。




