44 不登校
根本遥は背もたれの角度を少し起こして、僅かに姿勢を正した。
「あたしが学校に行かなかった理由は幾つかある。一つはイラストの仕事が軌道に乗り始めて、作業と休息の時間を確保したかった事。中学校は、出席しなくても卒業出来る事は知っていたからね。
もう一つは自分の身を守るため。あたしは小学校を卒業した後、立て続けに危険な目に遭ったのよ」
根本遥は腕を組んで二の腕をさすった。
「どんな目にあったの?」
白川が尋ねると、根本遥は背もたれを倒して天井を見上げた。
「初めは友だちと並んで自転車を走らせていた時。坂道でスピードが乗ってきて、あたしは小刻みにブレーキをかけて速度を落とし始めた。前に交差点が近づいてきたその時、突然大きな音を立てて前輪がロックしたの。後で聞いた話だと、フロントフォークに棒が挟まったような傷があって、スポークが曲がっていたらしいわ。
ハンドルを放したあたしは、空中に吹っ飛んで地面に叩きつけられた。肘と太腿で受け身を取る体勢だったから軽傷で済んだけど、交差点に車が走っていたら轢かれていたかも知れない。まだ肘にその時の傷痕が残ってるわ」
根本遥は再び背もたれの角度を起こし、左手の袖をたくし上げて肘の傷痕を見せた。白い肌に、薄っすらとした茶色い痣が残っていた。
白川はリュックサックから缶コーヒーを取り出して、プルトップを開けた。
「あたしも喉が渇いたわ。さっきのダイニングに冷蔵庫があるから、果汁100%のジュースを取って来て。味はグレープよ」
根本遥は椅子に座ったまま、俺に言った。
「え?」
「特別に同席を許可してあげたんだからね。白川さんはお弁当をくれた。一はあたしにまだ何もしていないわ」
白川は気の毒そうな顔を俺に向け、目で合図を送った。
急いで冷蔵庫から取って来たグレープジュースを渡すと、根本遥は上機嫌で一口飲んだ後、再び口を開いた。
「肘と太腿の傷の痛みが治まってきた頃、あたしに人生最大の危機が訪れた。それが不登校になった直接の理由よ」
白川はゴクリと缶コーヒーを口に含んだ後、ゆっくりと呼吸を整えた。俺は強張った表情を浮かべる根本遥を、息を呑んで見つめた。
「土砂降りの雨の中、あたしは二つ先の駅にある大型の家電屋に向かおうとしていた。プリンターのインクが切れて、絵の仕上がりを確認するのに、どうしても必要だったの。
出掛けた時間帯が悪かったのか、ホームは普段より混雑してた。あたしは焦る気持ちを抑えて、列の先頭で列車を待っていたの」
ふぅっと、白川が息を吐くのがわかった。俺も鼓動の高鳴りを抑えて耳を傾ける。根本遥は険しい表情を浮かべながら話を続けた。
「列車の眩しいヘッドライトが近づいて来た時、突然後ろから背中を押された。不意を突かれたあたしはバランスを失って、線路の上に転落した。一瞬、終わったと思った。だけど人って極限状態になると時間の感覚が変わるのよ。迫って来る列車が遅く感じた。
あたしは一か八か線路の真ん中で仰向けになって目を瞑った。髪の毛や服が車両に引っかかっていたら、引きずられて酷い事になっていたかもね」
「誰に押されたのか分からなかったの?」
「ホームは混んでいたから誰が押したのか、わざとなのかどうかも分からなかった。あたしが無事だった事もあって、事後調査もあっさりとしたものだったみたい。
それ以来あたしは両親を説得し、この部屋に閉じ籠って一人暮らしを始めたのよ」
根本遥はグレープジュースを喉に流し込んで、溜め込んだ息をゆっくりと吐き出した。




