表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

昨日の地図で歩く場所

作者: キタノタカヲ

 その日、仕事から帰った真一が郵便受けの中で見つけたのは、久しく帰らない生まれ故郷の役所から届いた一通の封書だった。


「…税務課?なんだこれ」


 真一はその役所、それも税務課などという部署から郵便物が届くというシチュエーションを想像もしたことがなく、唐突に届いたこの封書にただ戸惑った。


 駅から10分歩いて、郵便物を確認するために立ち止まったせいで、ただでさえ7月の湿気と熱を帯びた夜の空気が、なおさら不快感を増して体に纏わりついてくる。


 その空気を振り払うように、他のチラシなどと一緒にまとめて取り出したその封書を眺めながら、真一は部屋のあるマンションの三階に向かって階段を登っていく。


 東京の都心から西側に電車で1時間程度の郊外、中央線と西武多摩湖線を乗り継いだ小平市にある自宅賃貸マンションは、2LDK駐車場込みで家賃15万円ほどと、真一のようなアラフォーの中間管理職家庭が住む物件として、決して悪いものではない。

 ただ三階建ての低層マンションのためエレベーターがないのだけが玉に瑕だ。

 しかし築浅で借上げ社宅として契約し、家賃の負担も半分程度のため、これ以上贅沢を言うつもりも無い。


「そういや昔、原付の税金払うの遅れた事あったな?何か終わってない手続きでもあったのかな…。いや、まさかね」


 そんな事を小声で呟きながらポケットから鍵を取り出し、真一は部屋のドアを開けて玄関に入った。


 封書の中身について、特段、思い当たるような重大な問題はないはずだし、今すぐにどうこうする必要があるようなものでもないだろうと真一は判断し、いったん封書のことは意識から放り出し、まずは帰宅という幸福感あふれるイベントを心ゆくまで味わうこととして、リビングへ入っていく。


「おかえりなさい」


 すぐに笑顔で真一を迎えてくれたのは、四歳年下の妻、紗織である。

 普段肩まで下ろしたままの髪を、頭の後ろで束ねているのは、夕飯の準備をしてくれていたからだろう。

 何か用事がない限り、一歩も家から出たくないという超インドア派のせいもあり、あまり陽に当たらないためか肌がずいぶん白い。

 そんな人間なので、人付き合いも広くはなく、友達と出掛けたりしなくて良いのかと真一が心配になるくらいだが、人と会うのが面倒と公言して憚らない。


 同じ会社に勤めていたそんな彼女が、真一にメールで連絡してきてくれたのは、彼女が転職のために会社を離れてからの事だった。


「アメリカの冷蔵庫にも、製氷皿はついてるんですか?」


 真一に届いたメールは、別の会社に転職した元同僚という関係から見ても何の脈絡もなく、正直に言って突拍子もない内容だった。

 しかし不思議に嫌な気分はせず、真一はアメリカに留学していた頃の経験から、素直に知っていることを書いて返信したのだった。


 だが驚いたことに、真一の返信に対して、その後ぱったりと彼女からの連絡は途絶えてしまった。

 つまり彼女は真一の返信内容に満足して、それっきり彼女の中でその話題は終わってしまったらしかった。


 確かに以前から彼女に関しては、メールに返信してこないという話を、真一も彼女の同期たちから聞いたことがあったのだが、噂どおりの変わり者っぷりに、ただただ面食らったのだった。


「ただいま」


 そんな他人とのコミュニケーションがお世辞にも上手と言えない彼女と、よくぞ結婚にたどり着くまで人間関係が構築できたものだと、他人事のような感想を持ちながら、真一は帰宅の挨拶をする。


「はぁ〜、通勤はたいへんだねえ」


 ようやく腰をソファに落ち着け、エアコンの快適な風を浴びながら、真一は今更ながらにサラリーマンの宿業を嘆く。


「おつかれさま。電車座れなかったの?」

「ぜんぜん無理。この時間帯は期待も出来ないね」

「そうかあ。乗り換えもあるし、しんどいねえ」


 実際のところ、真一は体力には自信があるほうで、割とどれだけ長い距離でも、歩くのがつらいということは無いのだが、通勤電車のしんどさというのは体力とは関係ないように思う。

 やはりそれは、肩や荷物がぶつからないようになど、他人との距離感を常に意識することからの気疲れが一番大きいだろう。

 もしかすると、そんな事は気にもならないという人の方が多いかも知れないが、要するに真一も紗織のことをとやかく言えない、人付き合いの下手な人間なのかも知れなかった。


「こればっかりは仕方ない。車があって猫もいると都心の物件は厳しいもん」


 そう言いながら、真一は足元に擦り寄ってきた茶色い塊を抱き上げた。

 まだ子どものいない真一たち夫婦の愛情を、その一身に浴びまくっている飼い猫のビリー。

 アビシニアンという種類の短毛種で、とても人懐っこい性格をしており、夫婦揃って文字通り猫可愛がりしている。


 しかしながら飼い主の愛は届かぬ事も多く、今も抱っこされるタイミングでは無いらしく、「放せ放せ」とでも言うように身をよじらせて真一の手から逃れようとする。

 真一は思ったよりも全力で拒否られた事に、ほんのり傷つきながらビリーを床に下ろした。


「ビリーは抱っこじゃなくて、オヤツだよねー」


 悲しみに暮れる真一を見て笑いながら、紗織が猫用のドライささみを取り出してビリーに近づく。


 この猫こんなに速く動けたか、と真一が思わずにいられないほど素早く、紗織の元へと駆け寄るビリー。

 真一とのスキンシップとドライささみとの優先順位争いは、完全に後者の勝利となったようだった。


「ほらほら、落ち込んでないで、ご飯たべようよ」

「…ひとの悲しみを喜びやがって」


 慰める言葉とは裏腹に楽しくてたまらない、と言う顔をしている紗織にジト目を向けつつ、真一はダイニングテーブルの席に着いたのだった。


「そういえば休みどうする?」


 食事を終え、コーヒーを飲みながら真一が訊ねる。


「休み?」

「うん。夏休み」

「そうだそうだ、そろそろ予定詰めないとね」


 毎年の休暇は二人で予定を揃え、だいたい混雑を避けて秋口に旅行を楽しんでいたのだが、たまには世間並みに夏休みを取ってもよかろうと、先日から話していたのであった。


 どうせなら夏に楽しめる場所を訪れたいと考え、もともと山や高原が好きだったのもあり、軽井沢や上高地などを検討したものの、人気観光地は早々に好みの宿は予約で埋まっており、いきなりプランの変更を迫られてしまったのだった。


「高原の避暑地がだめなら、海辺かなあ」

「夏の海辺の観光地は、我々のような人混み嫌いには厳しいですよ、紗織さん」


 真一は夏の海のイメージを思い浮かべるだけで少し疲れながら、やや拒否感を示す。


 確かに海辺の観光地などでは、宿泊施設が豊富なことから、プラン自体は問題なく出来るのだろうが、キャパが大きいということは、それだけ沢山の人が集まると言うことであり、なるべく人混みを避けたい身としては、なかなか厳しい条件となるのである。


「あ、それなら行きたいところあるかも」

「聞きましょう、紗織さん」

「真一さんの地元」


 真一の地元は関西の太平洋側、和歌山県の白浜町というところだが、真一は結婚して以来どころか、これまで一度も紗織を連れて行ったことは無かった。

 東京からのアクセスが良くないということもあるが、一番の理由は既に実家と呼べるものが存在しないということだ。


 真一は幼い頃に両親が離婚し、いったんは父親の実家へ、その後しばらくして母親側に引き取られ、母親の再婚相手を父と呼んで育った。

 その養父は破天荒という形容詞が控えめに思えるほどにめちゃくちゃな人間で、先日36歳になった真一がその人生を振り返っても類型を見出せないほどだ。


 酒が何よりも好きで毎晩酔っていたのはもちろん、常識はずれの大きな地声で何でもかんでも思ったことを所構わず発言し、恥ずかしい思いをさせられる事は数限り無くあった。

 さらには自ら営む建設会社の仕事には並々ならぬ熱を注ぎ込み、しかし周囲にもそれを強要し、幼い真一も将来働かせるからと、小学生の頃から休みになれば現場作業に駆り出され、子供らしい思い出などひとつも無い少年時代を、真一は過ごしたのだった。


 不幸中の幸いにして養家は裕福であったものの、そんな事にメリットを感じられるような場面が無いくらいに振り回され続け、成長すると共にその養父のやりように耐えられない反感を持つようになった真一は、養父の経営する建設会社を継がない事を決め、大げんかの末に相続放棄を条件に大学の学費だけは出して貰う約束をして、卒業と共に家を去った。


 養子縁組も解消し、名実ともに家を出た真一は、その後紗織と結婚するに至って紗織側の姓となり、ようやく自分という人間が完成したような気持ちがしたのだった。


 一方の紗織の実家は岡山県北部の美作にあり、古くは南北朝時代、太平記にわずかながらも名を見るような武家の一族で、先祖はというと菅原道真だと言うから、最初はよくある僭称家系かと真一も疑ってしまったほどだ。

 ところが血筋云々は本当で、男子の無かったところに婿で入ると決まった際には、紗織の父親に「ありがとう」と泣いて喜ばれてしまった。


 そのような家系ながら、紗織本人は全くと言って良いほど家の来歴にも興味がなく、血筋を誇ったところも無いどころか、山の斜面に所狭しと並ぶ先祖の墓(一家として一基ではなく、一代ごとに墓がある)の管理が面倒だから、いっそのことブルドーザーでならして統合したら良いと発言して、彼女の父を激怒させるなど無頓着な様子であった。


 そんな紗織は、幼い頃に見る機会の少なかった海、それも真一が地元を離れるまで親しんだ海を、これまで見る機会がなかったこと、それを見る機会がまさに今訪れようとしていることに気付き、その企画は紗織の中では決定事項となったのだった。


「ね、そうしようよ。私、行ってみたい!」

「うーん?まあ、紗織が行きたいって言うならいいけど、でも何も無いよ?」

「何も無いってことないでしょ。有名な観光地なんだし。ビーチとか、温泉とか、パンダとか?そう!パンダ!」


 紗織はさほど真一の地元に関する知識を有していなかったが、それでも全国的に名の知れた白い砂浜や温泉、国内有数のパンダ繁殖例を持つサファリパークなど、旅行先としては充分な魅力があるだろうと、ますます乗り気になった。


「おー、パンダね。そういやまた生まれたって前にニュースで言ってたな。上野だと大騒ぎになるけど、白浜だといつも生まれてて普通なんだよね」

「あはは、なるほどね」


 真一も、10年ほど帰っていない地元を旅行で訪れるのは、それほど悪く無いかなという気になってきたところで、ふとある事を思い出した。


「そうだ、地元といえば、何か地元の役所から郵便物が来てたんだった」

「郵便物?」

「うん。ええっと、税務課とかなんとか」


 真一は沙織に答えながら、玄関のシューズボックス上に置いたままにしていた郵便物を手に取って戻り、リビングの灯りのもとで改めてその通知を見た。


 田辺市役所というロゴが、薄茶色の窓開き封筒に緑色で印字されているが、よく考えてみれば真一が地元を離れるまで住んでいたのは隣の白浜町である。

 確かに生まれ故郷ではあるが、何か通知を送ってくる主体としては違うのでは無いだろうか?


「うーん?」


 真一はそれを見て、ますますよく分からなくなったが、開けてみればわかる事だと封を破り、中の書面を取り出した。

 三つ折りにされた2枚の紙を広げ、まず目に入ってきたのは「納税義務の承継」という文字だった。


 –––どういうことだ?俺が何を承継したって?


 真一は少し混乱しながら、書面に目を通していく。

 文書には固定資産、相続人といった単語がある。


 –––養父が死んだ?だから何かの相続が発生している?いや、相続放棄したはすだ。俺があの人から何かを引き継ぐと言うことは無いはずだ。法定相続権の方が優先されるんだったか?でもそもそも法的に相続権も無いよな?


 なかなか文面が頭にはいってこず、真一は混乱を深めていくが、「湯川佐一」という名前を見付けて、ようやく理解が進み出した。


 それは真一の実父の名前であった。



 「湯川佐一」は真一の実父の名前であるが、真一にはその名前の読み方すらも分からない。


 「さいち」だろうか?「すけかず」なのか?

 いずれにしても古めかしいというか、あまり見かけることのない名前であろう。


 当時5歳だった真一に、実父に関する記憶はほとんどないと言って良いほど希薄で、母親からも僅かな挿話程度のことしか実父に関しては聞くことがなかったため、今こうして唐突にその名が記された文書を見るのは、現実感を伴わないというのが正直な気持ちだった。


「つまり…死んだってことか?」

「えっ⁉︎ なに、どうしたの?」

「ああ…!ごめん。あのー、本当の方の父親が、どうやら死んだみたいで…。 相続するなら税金払えっていう話だったわ」


 驚く紗織に対してあらましを話すが、自分でもひどい説明だと真一は思う。


 文書には、相続人が居ないので役所の方で調べて文書を送ったということや、相続放棄をする場合はどうするといった事が、お悔やみとともに書かれていた。

 しかし真一には、肉親が死んだという悲しみが全く沸き起こることもなく、今この時点では正直に言って若干めんどくさいという気持ちすらあった。


 それもそのはずで、物心ついて以降の真一の人生において、実父はほぼ関わりが無いと言って良く、結婚の際に戸籍の写しでその名前を見たきりの、言わば文字でしか存在しない架空の存在か、あるいは何処かに居る名も知らぬ他人も同然であった。


 それでも無意識に、肉親の死という事実は真一の心に何らかの衝撃はもたらしたらしく、ショックと言うほどではないものの、さざなみは立ったような気がした。


 そのせいか一瞬黙ってしまった真一だったが、すぐに気を取り直し、そこで同じように黙ってしまっている紗織に気付き、ふと目を向ける。


 紗織は両眼に涙を浮かべて真一を見ていた。


「え?どうした? なんで泣いてる?」

「だって…!真一さんのお父さんじゃない!お父さんが死んじゃったなんて…!」

「いやいや、そうなんだけど…知らない人だし…」

「そうかも知れないけど…」


 客観的に、自分の言っていることは随分と冷たいような気がして、また自分よりもショックを受けている紗織の様子に、真一は少なからず驚いてしまった。


「まあ…確かに普通はそうなんだろうなあ」


 真一は、改めて自分の歪みを認識した思いだった。


 昔から、何か他人とは意思疎通の上でずれているところがあるような気がして、友人もほとんど作る事がなかったのだが、今になって漸く、人格形成において実父の存在が影響しているのではないかと、半ば確信を持ってそう思ったのだった。


 実際のところは、そもそも自分が他人とどう違っているのか、本当に歪んでいるのかも分かりはしないのだが、何となく答えを見つけたような気がしてしまい、実父という存在をかつてないほど強く意識したのであった。


 ふと見ると、何やらいつもとは違う雰囲気を察したのか、ビリーが足元にきて真一と紗織を見上げている。

 その姿には、猫と人という種の垣根を超えた、家族としての愛情のようなものを、真一は感じる。


 ――家族の愛情か…。


 今までも思わないことはなかったが、普通の親が居て、普通の家庭に育っていたならば、自分はどういう人間になっていたのだろう?

 もちろん、ここで言う「普通」なるものは、幻想に過ぎないのだと分かってもいる。

 現実には、そんな「普通」の家庭においても様々な問題があり、どんな人間になるかという事は、家庭環境だけが左右しているわけではない。


 それでも真一は、「普通」への憧憬を胸に抱かずには居られないのである。


 真一は自分を見上げるビリーにゆっくりと手を伸ばして抱き上げ、今度はビリーもおとなしく腕の中に収まる。

 そんな姿を見て、紗織も少し気持ちを落ち着かせたようだった。


「お父さんのことって、全然覚えてないの?」

「うーん、そうだなあ」


 紗織に尋ねられて、真一は改めて考えてみる。

 

「顔は分からないし、何していた人かも知らないけど、まったく覚えてないということもないね。 いくつか覚えてるシーンはあるよ」

「そっか…」 


 紗織は気遣うように真一の腕に触れながら、真一が続きを話すのを待つ。


「…まあ、あんまり良い思い出は無いけどね」


 真一はそんな断りを入れてから話し始める。


「やっぱり一番覚えているのは、『お父さんとお母さん、別々に住むことになった』って言われた時かな。別に悲しいことだとはその時は感じなかったんだけど、『泣いた方が良いのかな?』って思って泣いたりしたなあ」

「………」


 最初からあまりと言えばあまりな話で、紗織は咄嗟に言葉を発することもできない。


「手を怪我して入院した時、夜付き添いで寝てくれたことはあったな」

「この親指の?包丁で切ったんだっけ…」

「そうそう、まな板を二枚におろそうとしたんだよな」


 くっきりと白い、地図上の線路のような縫跡が残る左手の親指を紗織が撫でる。


「何でそんなことしたのか覚えてないけど、台所で右手に包丁持って、左手でまな板押さえて、横からぐーっと力入れて切ろうとして、弾みでバーンって思いっきり左手の親指に切り込んだんだよ」

「……」


 真一は少し笑いながら話すが、再び声も出ない沙織。

 壮絶なシーンを想像してしまう。


「でも血は全然出なかったよ。勢い付けて切ったから、血管が収縮したらしい。全身麻酔で12針だけどね」

「まだちっちゃい頃だし、大手術だよね…」

「うん、骨の途中で止まってて、切断しなくて本当によかった。 よくちゃんと動くようになったよ」

「まったくだよ…」


 それは本当に良かったと、紗織は遠い過去の施術医に感謝しながら胸を撫で下ろす。


「それで一日か二日入院しててね。夜、大部屋のベッドで、父親が一緒に寝てくれてたのは覚えてるな」

「そっかぁ」

「でも良い思い出とは言えないんだよな」

「えっ?なんで?」

「かなり後になって母親に聞いたんだけど、この怪我でかかった費用の事で、だいぶ父親と揉めたって。 『なんでそんなもん、おれが払わないといけないんだ』って」

「……」


 自分の子供が怪我をして、その治療費用負担のことで、両親が喧嘩するなんてことが本当にあるのかと、紗織には俄に信じることが出来ない。

 それ以上に出てくる話の救いの無さに、幼い真一をどうにかして暖かい場所に連れて行けないものかと思ってしまう。


「離婚してから、父親の実家の方でしばらく暮らしていたんだけど、最後に母親が引き取りに来て、その時は『真一、また遊びに来いよ!』って言ってたな。 母親の事は唾吐きながら罵ってたけど…」

「……」

「しかし何も憶えてないと思ってたけど、案外いろいろ憶えているんだなあ」


 子供にとって唯一無二と言って良い存在の父と母が、子供の目の前でお互いに争う姿というのほ、どう考えても子供に見せて良いものとは思えない。

 紗織は幼い真一が可哀想で、どう言葉を出せば良いのか分からなかった。


 ――この人はこんな目にあって、非行に走るでもなく、自分みたいな面倒な女にも優しく出来るような人間に、どうやってなれたのだろう?


 猫をあやすように抱いている真一、その腕の中で目を閉じて眠るようにしているビリーという情景は微笑ましいが、語られている思い出話は、とても幼い子供の身の上に起きた事であってはならないと思わざるを得ないものだった。



「そう言えば一つだけ父親に聞きたかった事があって」

「……うん、どんな?」

「父親の実家に居た間に、貯金箱つくってさ、小銭もらったりしたやつ貯めてて」


 どうかこの話が救いのあるのものでありますように、そんなことを思いながら、紗織は黙って真一の話を聞く。


「ある時『あっ、このお金でお菓子買えるじゃん!』って気付いたんだよね。さっそくお金取り出して、近所のお店に行って買って来たんだよ。それで家で駄菓子パーティーしてて」

「いいねいいね」

「そしたら後で父親にぶん殴られてさあ」

「えっ?…なんで?」

「いや、それが分からないんだよ。小さい子供が自分でお金持って行って買い物した事を怒ってたのか、無駄遣いだって言いたかったのか…。とにかく殴られて、父親は周りの大人に嗜められていたけど。あの時どう言う思いで殴ったのか、それは聞いてみたかったな」


 そもそも自分の子供であろうとも、子供を殴るという事に理解を示すのは難しいが、親としての想いがあっての事なのか、それとも単に感情が先走った結果なのか、それを知りたかったと真一は言っているのだった。


 紗織は真一の言いたい事は理解したのだが、やはり幼い真一がどうにも不憫で、また真一がそれほど深刻に捉えている様子が無いことが、何となく真一の心の翳りを見たようで、それらの出来事をきちんと真一が消化出来ているのか、心配になったのだった。


「お父さんのこと、どう思ってる?」


 紗織は他に良い言い回しを思い付けず、ストレートな表現で真一に尋ねた。

 真一は一瞬、宙に視線を漂わせ、自分の気持ちを改めて吟味している様子であったが、


「正直なところ、何とも思ってないかな…。 愛憎の感情を持つには交渉が無さ過ぎと言うか、どうも思いようが無いと言うか」


 他に言い表しようが無い、という感じでそう吐露した。

 真一の答えは、さもあろうというものだったが、紗織には何となく見えるものがあった気がした。


 きっと真一は、本当はずっと父親が欲しかったのだろう。

 実父とは幼くして離れ、養父も寄り添ってくれるような存在では無かったようだし、真一は父親の愛情というものを知る事が出来なかったのではないか。


 その機会は既に失われ、永遠にそれを知る事は無くなってしまったのだが、このまま時が過ぎるに任せてしまってはいけない気がする。


「ねえ真一さん、お父さんのお墓参りに行かない?」


 紗織は、そうする事で真一の過去に何らかの区切りがつき、真一の心に刺さった見えない棘のような物が取れるのではないか、少なくとも無意味なことでは無いと思い、そう提案した。


「そうだなあ、確かにそれぐらいはしても良いかも知れないな。…でも墓がどこにあるのか、分からないよなあ」

「うーん…そうかぁ」

「でもまあ、取り敢えず分かったら行くとして、とにかく明日から相続関係の手続きを、まずは何とかするよ」


 真一の言葉に、沙織はリビングの壁に掛けられた時計に目をやると、既に日付が変わる手前となっていた。


「本当だ、いつの間にこんな時間。お風呂用意するね」

「ああ、いいよ。俺やってくる」


 紗織を手ぶりでリビングに押し留めた真一は、バスルームに向かいつつ、


「溜まるまでにもう一杯コーヒー飲もうかな」


 とリビングの紗織に声を掛けた。


「はーい、淹れておくね!」


 明るい声でそう応える紗織に真一は感謝を伝え、手早く風呂の用意をする。

 真一は若干強張った空気をかき混ぜるように、そんなやりとりをする事で、いつも通りの自分達を取り戻そうとしたのだった。


「………」


 浴槽にお湯が溜まり始める音を聞きながら、真一は急に身の上に訪れた今日の出来事を、やはりどこかで他人事のように感じながら、温水器の時計で金曜日が終わったことを知った。


 翌朝、先に目を覚ました真一は簡単に身支度を整えると、二人の朝食を準備をするためにキッチンに入った。

 休みの日に食事を準備するのは真一の役割だ。

 特にそう取り決めをしたわけではないが、料理をするのは好きなので勝手にそうさせてもらっている。


 ベビーリーフとレタス、ミニトマトで簡単にサラダを作り、フライパンでベーコンを数枚炒めたら、ひっくり返してその上に卵を四つ割り、ベーコンエッグにする。

 火を通す際に少し水を差して蓋をし、蒸し焼きにすると綺麗に仕上がる。

 バターたっぷりのデニッシュをトースターでサクッと焼き上げてバスケットに盛り、ベーコンエッグも二つに分けて皿に移す。

 市販の野菜と果物のジュースをグラスに入れ、コーヒーも淹れて出来上がりだ。


「ゴハンできたよー」

「はーい」


 真一の声に、ビリーを抱いた紗織がやってくる。

 バターの香りを嗅ぎ付け、ビリーも少しソワソワしている。


「ほら、お前はこっちだ」


 紗織からビリーを受け取り、エサの皿のところに降ろす。

 残念ながらビリーのエサは市販の(とはいえ高級な部類)キャットフードだ。

 ビリーはエサの匂いを嗅いで「え?」というように真一を見上げ、いかにもガッカリしたという表情で、エサを食べずに歩み去っていった。


「あいつめ、最近わがままになってきたな」


 少し甘やかし過ぎただろうか?と考えながら、ビリーが歩み去った方に目をやると、ソファでふて寝とばかりに転がって毛繕いを始めたビリーの可愛さに、今日のオヤツ係は自分が勤めるという決意を真一は固めたのだった。


「取り敢えず、今日は役所が休みだろうから、ネットで手続きとかそういうのを調べよう」


 真一は朝食を食べながら、今日の行動方針を述べる。

 相続に関しては、やはり実父とは言え、これだけ長期にわたる没交渉のうえ顔も覚えていないという状況から、財産の状況如何を問わず、真一の選択肢は相続放棄の一択だ。

 そのために必要な手続きと書類を調べることと、短期間だが子供の自分が住んでいた父親の実家、恐らくそこが父親の終の住処であり、今回の通知に書かれた相続の対象となる資産であろう場所を調べてみたいと考えていた。


「昔居たお家って、今もあるのかな?」

「…なるほど、あの頃でも結構古かった気がするから、建て替えたり、場所が違っているかも知れないな」


 紗織の言葉に、真一の記憶の中にある古い家屋がフラッシュバックする。


 その建物は山の中腹にあり、平屋の母家と離れがあり、風呂も母家とは別棟で拵えられていた。

 母家は玄関を中央に据え、入ると土間になっており、左手が居住区、右手が台所や倉庫という構造の古い建物だった。

 夏目漱石の「こころ」で主人公が四国の実家に帰ったシーンでは、真一は脳裏で、いつもこの建物をビジュアルとして拝借していたのだが、いかにも田舎の古い家という風情で、幼い頃にわずかな期間を暮らした場所にしては、ずいぶんとハッキリした記憶がある場所となっていた。


「ネットの地図で見られるかもな」


 真一は航空写真や車載の360度カメラで道路から撮影された写真が見られる地図サイトのことを思い出し、さっそくPCの電源を入れて見てみることとした。

 市役所から届いた書面に建物の住所らしきものが記載されているが、こちらは恐らく住居表示ではなく地番であろうから、住所検索ではヒットしないかも知れない。

 何より家の場所は概ね記憶の中にあるので、サイトにアクセスした真一はダイレクトに地図を移動させ、拡大して家の場所へと画面を動かしていった。


 地図の中に建物の形状も表示されているが、そこには真一の記憶通りの配置で建物があった。


「ここだな」

「どれ?」


 真一の声に、紗織が画面を覗き込む。

 僅かでも幼い真一の記憶が残る場所ならば、それを見てみたいと言うのが、紗織の偽りの無い気持ちであった。


「ほら、ここだよ」


 真一は画面を指差して場所を示す。


「これが母家で、こっちは離れ。場所も建物の配置も記憶と一致するから、これで間違いないな」


 ——そう言えば玄関前から少し斜面を下ったところに小さな池があったはずだが、地図には池の表示がないな。

 もう池は無くなったのかも知れない。


「この辺に小さな溜池みたいなのがあって、そこで初めてイモリを見たんだよな」


 真一はそんな事を紗織に教えながら、そう言えば航空写真なら様子が分かるかも知れないと思いつき、カーソルを動かして表示モードを航空写真に変える。


 すると航空写真が映し出したのは、それまで建物が表示されていた場所を覆い尽くす森の姿だった。


「航空写真だと家も池も見えないんだな」


 真一の記憶では、玄関先からは空が見えていた。

 確か洗濯物を干したりもしていたので、少なくとも南側は木に覆われた場所ではなかったはずだ。

 真一の想像では、山の斜面にポッカリとスペースが開けていて、そこから家や池が覗いているはずであった。


「道路側からなら見えるかも」

「おお、そうだな」


 紗織に諭された真一はカーソルを動かして表示モードを切り替え、近くの道路からの画像に切り替えた。

 家の真下に走る道路は、すぐ脇に小さな川が流れており、その川に架かる小さな橋の上に画面は切り替わった。

 真一は画面をぐるっと動かして、家のある方に向ける。


「…見えないな?」


 その画角からは、緑に覆われた普通の山の斜面としか見えない木々しか見えなかった。

 真一は少しずつ場所を変えながら、家のあった場所を見上げていくが、どの角度から見ても、映し出されるのは何の変哲もないただの山だった。

 記憶の中にある、道路側から家のある場所に登っていく細い坂道がある場所に戻ってみる。

 しかしその場所は、どう見ても人が分け入っていけるとは思えない薮になっていた。


「ひょっとして、もうこの家は廃屋になって、原野に戻っちゃってるのかもな」


 もしかすると親族の誰かがまだ家に居たりするのでは無いかと、真一は心のどこかで思っていたところがあったが、どうやら可能性は低そうだという結論に至った。


「ご近所でお話し聞ければ、何か分かるかもね」

「なるほど、そうだね」


 真一は画面を動かして、見ていた山の斜面から坂道を挟んで反対側の道路脇に建つ平家の住居へと視線を移す。


「こんな所にも家が建ったんだな。何も無い場所だったと思うけど。…そういえばこの坂を登った先に寺があって、墓参りに一回連れて行かれたことがあった気がする」


 その真一の一言に、紗織がふと気付く。


「それなら、もしかしてお父さんのお墓もそこじゃない?」

「あ〜なるほど、多分そうだよね。

場所までは覚えていないけど、探せば分かるかも知れない」

「お寺に話を聞くと、思ったより色々教えてくれると思う」

「へえ? 寺に詳しいですな、紗織さん?」

「まあ美作のお爺ちゃんとかお婆ちゃんが、お寺のこと色々やってたりして、話に聞く事多かったから…」


 真一の質問に、紗織は若干苦笑い気味の表情で答える。

 どうやら祖父母の振る舞いは、紗織の家族の中でもあまり歓迎される類のものでは無かったらしい。


「取り敢えず、何があったかは今度聞くよ」


 真一は本来の予定だった相続放棄に関する手続きを調べることにして、ネットを利用して関係する情報を確認し、必要事項をメモに残していく作業を進めた。


 同じような事を調べる人はそれなりに居るようで、調べ物は真一が思った以上に順調に進み、昼前には概ね調べ終えることが出来た。


 戸籍抄本の取り寄せに必要な郵送の手続きも、スキャナを兼ねたプリンターで用紙や添付資料を用意し、その日のうちに近所のポストに投函してしまう。


 戸籍の書類が届かないと、次の手続きは出来ないので、休暇を利用した故郷への旅、それも実父の墓を探して墓参りをするという奇妙な目的の旅程を紗織と相談することにした。


「和歌山へは車で行こう」

「大丈夫?距離ってどれくらいあるの?」

「たぶん、片道で600kmくらいだな」

「代わってあげられないからなあ」


 紗織は成人した日本人の9割近くが持つという運転免許を持っていない自らを嘆いた。

 しかも我が家の愛車は今時珍しいマニュアル車であり、おそらく免許を取っていたとしてもオートマ限定だったに違いない自分はどのみち運転出来なかっただろう。


 その愛車、アッズーロと呼ばれる水色の車体のフィアット500は、真一が埼玉県の並行輸入業者から購入したもので、イタリア語のチンクエチェント(500)からチンクという愛称で知られ、同名の往年の名車をリバイバルした現代版量産モデルだが、左ハンドル、5速マニュアルトランスミッション、ディーゼルエンジンという日本ではニッチ過ぎるユニークな仕様。

 1トンに満たない車重に20kgを超える太いトルクを持つエンジンが相まって、そこそこのスポーツカー並みの走行能力があるのにディーゼルエンジンのため燃費が良く、ガソリン車の倍は距離を走ることが出来る。


「大丈夫。うちのフィアットは運転も楽だし、横で寝てたら良い。 それに飛行機で向こうへ行ってレンタカーなんて借りたら旅費が嵩み過ぎる」

「そうなんだろうけど…。心配だよ」

「まあまあ、あくまでも旅行なんだから一気に現地まで行くとは限らないよ」

「…なるほど、それはそうだね」


 真一は始めは現地まで一気に移動するつもりだったが、紗織の心配する様子に考えを変えて、少しでも旅を楽しめるようにプランを練る事にした。


 PCの画面で、しばらく地図をあっちこっちと見ながら考えていた真一は、15分ほど経って検討したプランを紗織に説明する。


「初日は朝早く出て、東名を走ります」

「はい」

「そして豊川インターで降りて渥美半島の先っぽを目指し、そこからフェリーにのって伊勢へ渡ります」

「伊勢!初めてだなあ」

「午後のそんなに遅くない時間に着くから、伊勢神宮の内宮を参拝して、門前町のおかげ横丁を観て食事などしてから伊勢市内のホテルに泊まります」

「賛成、賛成」


 初日のプランは問題なく決定し、ホテルも伊勢市駅の近くで空きがあったので予約してしまう。


「翌日は朝から外宮を参拝して、伊勢自動車道経由で南に向かい、昼ぐらいには本州最南端の串本町には着く。寄り道しながら夕方には白浜に到着。宿は白浜に取って、どこか知ってる店でご飯食べます」

「地元だもんね、美味しいとこ期待してる」


 せっかくなので宿は白良浜近くの高台にある高級ホテルの、温泉の付いたオーシャンビューの部屋を予約した。

 値段は張るが、どうせなら休暇をしっかり楽しめるものにしたい。


「その次の日に、朝からお寺に行こう」

「そうだね。わかった」

「さて、それ以降の日程も決めないとな」


 紗織にとって初めての白浜になるので、十分楽しめる時間を取るため、ホテルは連泊で取り、帰路は北に回って奈良に一泊、さらに安曇野にも泊まり、都合五泊六日で帰京する日程となった。


「よし、じゃあお寺に電話してみよう」


 旅程をまとめた真一は、実父の墓があると思われる「萬福寺」という寺に、紗織が言うように電話してみることにした。


 電話番号は調べるとすぐに分かった。

 しかし、いざ実際に電話を架けるとなると、自分はいったいどういう立場で電話をしようとしているのか?仮に先方が実父の事を知っていたとして、自分からの電話に対してどう応じるのだろうか?という疑問が頭の中にちらつき始めた。


 考えても仕方のない事なのだと真一も分かってはいるものの、余計な事が脳裏に浮かんでは消える。

 実父の墓の場所を他人に尋ねるという、あまり聞いたこともないようなシチュエーションに、多少狼狽えてしまっているのかも知れない。


 よし落ち着け、あくまでも頻繁には連絡をとることのない知り合いといった体で話を切り出せば良いのだ、と真一は自分に言い聞かせる。

 どう話を切り出すべきなのか少し頭の中で考えるうちに多少回復した真一は、思い切ってスマホに番号を打ち込んだ。


 「……」


 妙にコールが遅く感じられたが、何のことはない発信ボタンを押していなかった。

 どうやらまだ緊張はしているようだ。

 気を取り直し、真一は改めて発信ボタンを押してコールを待つ。


「はい、萬福寺でございます」


 程なくして電話が繋がり、相手の名乗りが聞こえた。

 さすがにこの段にもなればいつもの落ち着きを取り戻した真一は、ひとつ息を吐いて切り出した。


「お忙しいところ恐れ入ります」


 真一は自分の名を名乗り、数ヶ月前に亡くなったという湯川佐一に昔世話になった者だが、今は遠くにおり亡くなった事を知らず葬式にも行けなかった。

 確か代々墓は萬福寺さんと聞いた覚えがあり墓参りぐらいはしたいのだが、場所をお教え願うことは出来るだろうか?と尋ねた。


 プライバシーへの配慮が求められる世の中であり、ひょっとしたらそれは難しいのではないかと真一は思っていたのだが、


「湯川さんですか。はい、ご近所でしたし、お葬式もこちらでさせていただきました。お墓の場所ももちろん分かりますので、お参りの際に本堂の方へ声掛けて頂ければ、ご案内いたします」


 と案に反して、希望が叶うという返答があった。

 真一は色々と考えていただけに拍子抜けといった気持ちもしたが、紗織の言うとおりに墓の場所を教えてもらうことが出来たので、寺というものはそういうものなのだ、と認識を改めた。


「では、その際にはお伺いいたします。おそらく来月中にはお邪魔するかと思います」


 電話を切った真一は、体に纏わりついていた何とも言えない緊張を吹き飛ばすように大きく長い息を吐いてから、紗織の方を向いて笑顔を見せた。


「やっぱりお寺で教えてもらえるんだね」

「ああ、紗織が言った通りだったよ」


 案ずるより産むが易しというのはこういうことだなと、真一は電話ひとつで緊張していた自分を多少の自嘲を込めて振り返った。


 しかしこれで休暇の予定は全て決まった。

 あとは残りの書類手続きを済ませる事と、出発までに道程の情報を収集し、滞りなく旅が運ぶように準備するだけだ。


 真一はもう一度地図サイトで、かつて自分が暮らした場所を映し出してみた。


 あの家は今どうなっているのだろう?

 打ち捨てられて藪の中に朽ちているのか。

 そこに行って自分の記憶と照らし合わせる事で、何か思い出せることがあるかも知れないが、思い出してもそれが何になるのか。


 取り留めのない考えが浮かんでは消え、モヤモヤしているくらいなら、藪漕ぎでも何でもして行って確かめるべきかなどと思っていると、


「お父さんのお家がどこなのか、今度行った時にお寺で聞けば、お葬式もしたなら分かるかもね」


 真一の考えを見透かしたように、紗織が真一に声を掛けた。


「本当だな、なんだか全然頭が回ってない」

「急だもん。でも道が無いなら山登ったりしないでよ?」

「いや、ちょっと思ったけど、そこまではしないよ」

「本当かなあ」


 本格的な藪漕ぎというレベルでなければ行ってみようかと考えていた事は誤魔化して、真一は話題を変えることにした。


「まあその件はほぼ目処がついた。来月は旅行を楽しもう」

「そうだね、色々楽しみだよー」

「伊勢神宮も行ってみたかった所だけど、その前に伊勢湾フェリーが実は楽しみで」

「私も!船で移動ってした事ないし」


 そんな調子で、立ち寄る土地の名物や、やってみたいことなどを話し合い、真一のあまり輝いているとは言えない過去の日々を、二人は今は暫くの間でも遠くに押しやる事にしたのだった。


 数日後には真一と実父の戸籍の書類も役所から届き、相続放棄に関する手続きも一通り滞る事なく済ませることが出来た。


 自分と実父との繋がりは、それで法的にも完全に無くなった訳だが、5歳を最後に何の関わりも無かった実父との間に、30年以上隔ててこんな事が立ち起こるなどとは、真一は夢にも思っていなかった。


 これまで父親に会いたかったかと言われれば、特にそう言う気持ちが真一にあった訳ではない。

 父親側のことは何も分からないので、父親が自分の事をどう思っていたのかも分からない。

 もし父親の生存中に真一が訪ねたとして、果たしてポジティブな事が起きたのかどうか、真一には甚だ疑問であった。


 父親は真一の居ない人生を過ごしており、真一が居ない前提で全ての生活が構築されていたはずである。

 もしもそんな所に真一が現れたとしたら、異物としか言いようが無いのではないか。

 まして母親と諍いの末に別れ、その後生涯を通じて一切の交渉が無かった相手だ。

 そんな真一と父親が何らかの方法で対面を果たしたとして、親子としての感情や交流を持つといったことが出来たのだろうか?


 しかしそんな事は実際には起きず、実父は世を去り、真一は親子としての法的な整理に片をつけ、永遠に邂逅は果たされなかった。


「天気が良ければいいね」


 紗織は物思う真一を元気付けるような言葉を掛ける代わりに、ただそれだけを言った。



 出発の日のまだ暗い早朝、真一はフィアット500のラゲッジに旅行期間中の二人の着替えが入った大きめのスポーツバッグ二つ、デシダル一眼レフのカメラ用ディパック一つ、その他小物などを入れた中型のボストンバッグ一つを積み込んだ。


 リバイバルされたフィアット500は見た目は可愛い小型ハッチバックだが、外見とは裏腹に意外なほどの積載能力がある。

 燃料タンクは昨夜満タンにしたとは言え35リットルしかないが、1リットルあたり20kmほどは走る事ができるので、関西まで給油無しでも問題なく辿り着けるはずだ。


 一度部屋に戻って戸締まりと忘れ物のチェックをした真一は、昨日から動物病院のペットホテルに預けているのに、ビリーの飲み水を交換しそうになったことに苦笑しながら、後片付けをして玄関を施錠した。


 まだ若干眠気まなこの紗織を助手席に詰め込み、運転席に座った真一は、エンジンを始動した上で財布からETCカードを取り出してセットし、ガラスルーフのカバーを開けて天井越しに空を見上げると、


「よし、では出発!」


 と一声発して、ギアを一速に入れた。

 1.3リットルのディーゼルエンジンが特徴的な音を立てて車が動き出す。


 時計は5時すこし前。

 まだ街は眠りから覚めたとは言い難く、車もさほど走っていない。


 昼間は流れの悪い府中街道を真一のフィアット500はスルスルと南に向かうと、新府中街道、甲州街道、日野バイパスと順調に進み、30分かからない程度で国立府中の高速インターチェンジに到着した。


 東側から太陽が顔を出す気配を感じられる朝と夜の混じった空の下、水色のフィアット500がぐるりとインターチェンジのループを駆け上がり、高速道路へと合流する。


 幸いな事に小型だがパワフルなエンジンで小気味良く加速するフィアット500だが、ギアが5速までと多段化されていないため、一定の速度を超えると回転数が必要以上に上がり、燃費が悪化してしまう。


 真一はなるべくトルクパワーで巡航させるように走らせ、必要以上に回転数が上がらないよう心掛けながら、八王子インターを越え、高尾ジャンクションから圏央道を海老名方面に向かって行く。


 東名高速と合流する頃にはすっかり空は明るくなり、車も徐々に増えてくる。

 とは言え平日の朝であり、東京方面からの下り車線はまだまだ空いており、箱根方面への分岐を越えても流れはスムーズである。


 助手席の紗織の様子を伺うと、先ほどから一言も発しないところから察してはいたが、眠っているようだった。


 —これなら足柄SAは通り過ぎて、清水あたりで最初の休憩にするのが良いかな?


 真一は箱根を越えるワインディングに備えて改めて運転に集中するよう意識を向けながら、行動予定を調整する。


 今日は伊勢までとは言え、それなりに長い距離を移動するし、豊川インターからは下道になる予定だ。

 フィアット500は高速走行も快適だが、それでも小型車であるためトレッドが狭く、強化サスペンションを装着していない真一の車では、車体がカーブなどで傾く「ロール」が抑えきれない。

 そのため乗っている人間はどうしても姿勢が動かされ、その反動で体は少しずつ疲労してしまう。


 運転している真一自身は、自分の操作に合わせて体を準備したり、ハンドルを握っていることもあり、まだしも身体的な疲労は少ないと思っているのだが、パッセンジャーたる紗織はどうしたって受け身になるため、基本的には紗織の体力に合わせた運行計画を心がけるようにしている。


 危なげなく箱根を越え、御殿場に向かって下り坂を降りて行く。

 これまでも秦野のあたりで富士山は見えていたが、御殿場に来て見える富士山は、それまで山中から見えたとしても一部分ということが多い反動と、実際に物理的に近づいていることから、随分と大きく見える。


 真一は山登りが好きという事もあるが、富士山を見ると多少テンションが高まるタイプの人間である。

 その高さ、大きさ、質量がそのまま存在感となって心に覆いかぶさってくるような、なんとも言えない感動がある。

 

 チラチラと山に目をやりながらの運転で、やはり多少ライン取りの滑らかさが損なわれたのだろう。

 車体の挙動が変わったようで、その刺激で紗織が目を覚ました。


「あれ、もう富士山こんなに近い」

「うん、今日は天気良いからよく見えてるね。まだ寝てなよ」

「ううん、もう大丈夫。真一さんが運転してるのに、横で寝てばっかりじゃ悪いし」

「そんなの気にしないのに」


 真一は大体の現在地と、次の休憩予定地を説明して紗織と行動予定を摺り合わせる。

 新東名を進み、清水PAで休憩をした後、いなさジャンクションから東名に戻り、豊川インターチェンジで高速を降りるプランとなった。


 豊川インターチェンジで高速から降りたフィアット500は、独特のディーゼルエンジン音を響かせて、水色の車体を一般道へと合流させた。


 土地勘のない真一は、ナビに従って国道151号線を真っ直ぐ進むことにする。

 交通量の多い幹線道路だが、それほど流れは悪くなく順調に進んでいく。

 このまま国道247号線に繋がり、突き当たりで国道23号線へと進むつもりである。


 流れは悪く無いのだが、時折真一を困惑させるのは、全くウィンカーを出さずに車線変更してくる車が妙に多いことだった。


 土地勘が無いので、前方車両との車間距離を若干広く取っているのだが、そこに容赦なく地元の車は捻じ込んで来る。

 愛知県の交通事情には明るく無いが、そう言えば車の運転が荒いという噂は聞いたことがあるような気はする。


 とは言え、車間距離が広めのところに車線変更してくるというのは、狭いところに来るよりは普通のことだと思うので、普段の自分の運転とは違うところで環境も違うので、噂に聞くような事を余所者の自分には感じやすいのだろう。

 

 夏の陽光が降り注ぐ中で、夏の空と同じ色のフィアット500を西へと走らせながら、真一はそんな事を考えている。


 周辺に工場などが目立つようになる中、国道23号線に突き当たり車を左折させる。

 豊川橋を渡り国道259号線に入ると、そこはもう渥美半島という事になる。

 周辺は徐々に郊外ののんびりした雰囲気を増して行き、畑や緑の多い景色へと変わって来た。


「このあたりはメロンが名産なの?」

「なんか看板あったね。フェリーのターミナルに何かあれば食べてみようか」


 そんな事を真一と紗織は話しながら、穏やかな田舎道をドライブしていると、道は海沿いを走り、潮の香りが漂って来た。

 そして程なく、伊良湖湾入口という交差点が見えて来て、信号を右折すると正面にフェリーのターミナルが見えて来たのだった。


 フェリー乗り場の駐車場入口で、車を停める場所の指示をもらい、受付で搭乗手続きを済ませる。

 平日ということもあり、利用者はそれほど多くは無いようで、出航の45分前というのに真一たちが二番手であった。


 フェリーターミナルは道の駅にもなっているようで、イートインコーナーもそれなりに充実している。

 真一と紗織が、先程看板で見かけた渥美半島のメロンが何か商品に無いか探してみると、案の定メロンソフトクリームが見つかった。

 フルーツ産地の名物として、ありきたりといえばありきたりだが、初見の観光客にとっては外せない定番である。


 二人はソフトクリームを食べながら、これから乗り込む船を眺めたり、土産物屋を覗いたりして搭乗時間を待ち、予定時刻に車に戻って、係員の指示で船に乗り入れた。


 一時間程度の船旅ながら、フェリーに乗るのが初めてだった二人は、さっそく上層階にある展望デッキである特別室のチケットを買い、一通り船内を見てから上部甲板に出てみる。


 船はまさに港を離れるところで、船体のサイズからの想像に反し意外に思えるほどの機敏さで、白い航跡を残しつつ渥美半島から遠ざかろうとしていた。


「こういう海の楽しみ方も良いね!」

「本当だなあ、しかも一時間遊んでいれば車ごと移動出来ちゃうんだから、急がないならフェリーとかは上手く使うべきだね」


 真一と紗織は、海風を浴びながら船尾へと流れていく景色を眺める。

 あまり潮風に吹かれると塩で髪がゴワゴワになりそうだが、思った以上にフェリーでの船旅は楽しめるものだった。


 左舷に見える神島に関する三島作品の話などをしながらデッキに戻り、売店で購入した軽食で昼を済ませ、海を眺めながらのんびりと過ごしていると、対岸の鳥羽が近づいて来た。


 船内アナウンスに従って車に戻って待機していると、接岸から間もなくハッチが開き、船員の合図と共に真一はフィアット500を三重県に上陸させた。


「おっ、ほらここ鳥羽水族館だ」

「わぁ、今度また来てみたいね」


 上陸してすぐ右手に真一もその名をよく知る水族館があり、寄り道したい誘惑に駆られる。

 時間はあると言えばあるが、有名で大きな水族館なので一時間や二時間では充分楽しむことは出来ないと考え、惜しむ気持ちはあったが立ち寄ることなく先を急ぐこととした。


 鳥羽から伊勢市へと国道42号線、途中で鳥羽松坂線に左折し山道へと入る。

 展望も何も無い谷あいの道路を抜けると集落が現れ、すぐに川が見えた。


「これが五十鈴川だな。すぐ上流に伊勢神宮があるよ」


 橋を渡ってすぐ交差点があり、左に行けば伊勢神宮の外宮という案内が見える。


「駐車場に停めて、参拝に行こう。その後は門前町の散策だ」

「そういえば神社も門前町って言うのかな?」

「うーん、考えたこともなかったけど…。他に名称が思いつかない」


 話している間に、スマホで調べた紗織が、


「神社の場合は鳥居前町って言うんだって」

「なるほどね、知らなかったな。でもあんまり聞かない気もする」

「わたしも初めて知った」


 こうして、知って何と言うでも無いことを紗織が調べることは、製氷皿の件で免疫が付いている真一だったが、かと言って紗織は物知りとか雑学に長けていると言うことも無いのが不思議なところだ。

 恐らく、瞬間的に知りたい欲求が高まるのだろうが、本当には興味が無いのだろうな、と真一はこっそり分析して面白がる。


 そうこうしていると、道路の突き当たりに駐車場の案内があり、真一はフィアット500を適当な空いている場所へと停車させた。


 駐車場から歩いてすぐに、伊勢神宮外宮の鳥居があり、そちらに向かって左手に鳥居前町である「おかげ横丁」などが広がっている。


 真一と紗織は鳥居の前で一礼し、五十鈴川にかかる木造の「宇治橋」を渡る。

 渡り終えて右に折れ、しばらく歩くと御手洗場があり、二人は手と口を清めた。

 すぐ傍には河原に降りられる場所があり、おそらく潔斎をする場所なのだろう。

 二人は巨木の立ち並ぶ森を縫うように進む参道を歩き、本殿に参拝した。


「さすがに立派だねえ」


 参道を戻りながら、紗織が思わずといった風にそう述べた。

 真一はそれに素直に同意する。

 真一も紗織も、何となく神社という場所が好きである。

 静謐な雰囲気、大事にされてきた木や大きな石、あるいは瀧や山といったご神体の存在。

 だいたいが古くからそこにあり、脈々と人々が繋げてきた地域の信仰の象徴である。

 二人とも人嫌いというか、他人との関わりに積極的で無いくせに、長い時間をかけて紡がれてきた人々の営みというものには好意を持っているのだった。


 その後二人は「おかげ横丁」で土産物を見たり、有名な餡子餅のお店を覗いたりして楽しみ、早めの夕食として伊勢うどんの店に入り、奮発して松坂牛の肉うどんを頼んだものの、よく見ると「松坂牛肉うどんは麺は讃岐うどんです」という但し書きがあり、揃って茫然とするなど充分初日の旅の夜を楽しんだのだった。



 伊勢市駅の近く取った宿を早めにチェックアウトした二人は、すぐ近くにある伊勢神宮の内宮に向かう。

 内宮は外宮よりもコンパクトであり、平日の朝ということもあって人も少なく、手早く参拝することが出来た。


「内宮も外宮も参拝出来たし、良かったね」

「これで伊勢参りに行ったって言える」


 真一と紗織はまだ涼しい朝の空気の中、参拝の余韻を楽しみながらフィアット500に乗り込むと、ディーゼルエンジンの音を響かせながら、真一の故郷へ向かって再び走り出した。


 伊勢自動車道に入り、勢和多気ジャンクションから紀勢自動車道を南に向かう。

 山間の展望が効かない道路を100kmほどひたすら走ると、熊野大泊インターチェンジで一般道に降りた。

 

「海だ!」


 国道42号線を走り始めてすぐ、紗織が声を上げた。

 七里御浜から見える熊野灘は、いかにも太平洋という感じで、力強く波が押し寄せては白く砕けている。

 水平線が強い日差しで白く輝き、そこを大きなタンカーが何隻も押し渡っているのが見えた。


「海なら昨日フェリーからいっぱい見たじゃん」

「そうなんだけど、何か違うんだよね。何だろ、目線の高さとか?」


 なんとなく紗織の言わんとする事は理解した真一だったが、真一にとっても熊野灘の打ち寄せる波は、昨日見た伊勢湾のものとは何か違っていた。

 それはやはり、故郷が近づいているということだろう。

 どれだけ愛着が無くとも、幼少の頃から長くを過ごした土地というものは、他の場所とはひと味違うものだ。

 やがてフィアット500は熊野川にかかる橋を渡り新宮市へ、ついに新一の生まれ故郷である和歌山県に入ったのだった。


 とは言え、新宮市から真一の生まれた田辺市までは、道のりにしてまだ100km近くある。

 途中、観光スポットも多いため、せっかく遥々東京からやって来たのだから、出来る限りは寄り道してやろうと真一は考えていた。

 すぐ近くに世界遺産の一部である熊野三山の速玉大社もあったが、やはりインパクトは同じ熊野三山の那智大社に譲る。

 思いつく全てに寄り道していては、さすがに時間も足りなくなってしまう。

 その点那智大社には、単体の滝では落差日本一の那智の大滝があり、これは一見の価値がある。

 まだ午前の早い時間帯であり、十分観に行けるだろうと判断した真一は、紗織に那智の大滝を見せるべく、山手に向かうべくハンドルを切った。


 あまり山の方を見ないように紗織に告げ、フィアット500で那智大社への坂を登っていく。

 山肌には相当な樹齢に達していそうな針葉樹の大木などがそびえ、いかにも霊験あらたかな神域という雰囲気が漂っているように見える。

 滝になるべく近い駐車場に車を停め、真一は紗織には滝が見えないようにしながら、手を引くようにして飛瀧神社の階段を二人下りて行った。


 しかし見えないようにしていても、まだ奉拝所までかなり距離があるにもかかわらず、滝の轟音と飛沫は否が応にも紗織に滝の存在を知らしめて来る。


「何か…私の知ってる滝の音じゃ無いんだけど…」


 紗織の言葉に、さもあろうと満足げに真一は頷く。

 真一も初めて見た時はその雄壮な姿に感動したものだし、それ以降に日本国内で見る滝は、どうしても那智の大滝と比べてしまい、若干感動が薄まるという弊害すらある滝だ。


 真一は紗織をベストポジションに立たせ、満を持してご開帳を行う。

 視界の開けた紗織は、音のする方に視線を向けると目を見開く。


「えっ、すご…」


 滝を目にして語彙がバグったのか、気の利いた形容詞が出てこない紗織の様子に満足した真一は、


「これが単一の滝としては落差日本一の那智の大滝です。子供の頃初めて見た時は感動したなあ」


 と、昔を思い出しながら紗織と並んで滝を見上げた。

 小学生の頃だったので、すでに養父の元にいたのだが、連れて来てくれたのは母親の妹夫婦だった。


 その頃は特に疑問も持たなかったが、小学生までの間は長期の休みになると、いつも母親の田舎である日置川町(現白浜町日置川地区)にある祖母の家に預けられていた。

 日置川の河口近くにあった祖母の家は、小さな子供にとっては遊び場になる海や川が身近で、真一も幼少の思い出の場所として少しも悪い気持ちはない。

 戦争体験者でもある祖母は、よく昔の話をしてくれたし、江戸時代の旅館だったという祖母の家は、骨董品が屋根裏部屋(旅館時代の宿泊部屋)に多く残され、子供の目からはまるで異世界だった。


 その祖母も真一が留学中に亡くなり、今は祖母の家ももう無くなってしまった。

 祖母の家に預けられている間は、毎日が非日常で楽しい思い出となっている。


 しかし今思えばその期間、親たちは何をしていたのだろう?

 祖母はよく面倒を見てくれて、昔の話など沢山聞いたこともあり、肉親としての情を深く感じた存在だったが、その祖母からも、何の話も聞いたことは無かったので、今となっては全くの謎だ。


 その疑問に答えられるのは今は母親しか居ないが、今では連絡先もわからないし今更会うつもりもないので、恐らく永遠に分からないままになるだろう。

 そして分からなくても全く問題ない。


 思い出から幼い頃の自分の境遇に妙な疑問が生じてしまいそうだったが、勝手に結論を付けて真一は考えることを打ち切った。

 そう、そんな事はどうでも良い。

 今は故郷の旅を紗織と楽しむことだ。


「これぞ滝!っていう滝の姿してるだろ?」

「ふあぁ〜、…変な声でちゃった。本当だねえ!」


 紗織がこの大きな滝を見て満足している様子に、真一のほうも嬉しい気持ちとなり、連れてきて正解だったなと内心大きく頷いたのだった。


 那智の滝を楽しんだ二人は再びフィアット500に乗り込み、その水色の車体を海沿いに南へと走らせる。

 途中、まるで沖にある島へ続く橋脚のように奇岩が立ち並ぶ橋杭岩が一望できる道の駅で休憩をはさみ、本州最南端である潮岬にも立ち寄り、視界いっぱいの太平洋を楽しむ。

 地球が丸いということが視覚的に実感できることに感激する紗織と一緒に海を見ながら、真一も今更ながらに故郷が他人から見て美しい場所であることに気付かされたような気がした。


 潮岬を経て、フィアット500の走る方角は南から北へと転じる。

 すさみ南インターチェンジで紀勢自動車道の無料区間に乗り、あまり車の走っていない高速道路を田辺方面へ向かっていく。

 左手に、時おり顔を覗かせる海を見ながら近づいてくる生まれ故郷がどんな場所なのか、思いつくまま真一は紗織に話していく。

 紗織の方も初めての土地であり、かつ真一が高校生までを過ごしたその故郷が、思った以上に海や山の美しい景勝地が多くあり、自分の暮らした美作とは全く違って変化に富んだ場所に思え、何故今まで来なかったのかと笑いながら真一に愚痴を言うほど気に入ったようだった。


 そしてついに二人の乗ったフィアット500は、真一が高校を卒業するまでを過ごした地元である白浜町に到着したのだった。


 今夜宿泊するホテルが見えてきた。

 白良浜の間近で、小高い丘の上に位置することもあり、部屋からは白い砂浜がよく見える事だろうと、フィアット500を駐車場へ入れながら真一は考えた。


 荷物を持って、二人でチェックインのためにフロントへ向かおうとすると、係の人が素早くドアの外側までやって来て荷物をカートに載せてくれる。


 真一が礼を述べ、名前とチェックインしたい旨を伝えると、ホテルの係員はちゃんと真一の予約を把握してくれていて、全てお任せをといった表情でフロントへと二人を導き、手続きを済ませてくれた。


 11階の部屋に案内された二人は、入ってすぐ目に飛び込んできた外の景色に思わず声を上げた。

 部屋は12畳程度で調度品も落ち着いた雰囲気だが、窓側がガラス張りの浴室になっており、浴室の窓の向こう側はそのまま水平線まで一面海が広がっていた。

 浴室まで行ってみると、眼下には真っ白な砂浜が広がっており、ロケーションの良さに改めて感激する。


 客室係の説明を失礼ながら半ば上の空で聞き、何かあればフロントまでと言い残して部屋を去る客室係を笑顔で見送った二人は、さっそく長距離移動で強張った体をほぐすべく、ひと風呂浴びたのだった。


「あー」

「うー」


 もはやどちらがどちらを出したのか分からないが、温泉に浸かると出てしまう謎の呻き声をそれぞれに上げ、二人は水平線で溶け合う海と空を眺めながら、しばらく時間を忘れて湯の中でゆらゆらと体を脱力させ、あやうくのぼせてしまいそうになった。


 部屋の温泉は、残念ながら掛け流しではなく加温循環だが、それでも十分に疲れた体を癒してくれた。

 湯から上がってさっぱりした二人は、お茶を飲みながらこの後の予定を確認する。

 夕食をホテルのレストランでとれば、ホテルのランク的にもきっと美味しいのは間違いないと思うが、せっかく遠くまで来たのだから地元のお店に行きたい。

 二人は車を出して、田辺の市街地まで行き、真一の知っている店で食事をする事にした。


 フィアット500で二十分ほど走り、塔の内という地区に店を構える、地元ではよく知られる日本料理店にやって来た二人は、海の幸を食べ尽くす意気込みでメニュー隅々まで眺めてあれこれ注文し、鰹やガシラ(カサゴ)、それにウツボなどの地魚の驚くほどの美味さに、やはり繰り出して正解だったと大満足で膨れたお腹を抱えて宿に帰ったのだった。


「あ〜おいしかった!」


 部屋に戻ってからも、紗織は料理を思い出してはそう繰り返し、にやける顔を止められない。


「あんな美味しいものいっぱいあるのに、なんで今まで連れてきてくれなかったの!」

「地元の人間には珍しく無いからねえ」

「もったいなすぎるよ〜」

「まあ確かに久しぶりに食べたら、めちゃくちゃ美味しかったな」


 実際、長く東京で暮らしていて、色々な飲食店で食事はしてきたが、今夜の料理はそのどれよりも美味しかったのは事実だ。


 これが故郷の味という事だろうか。

 真一自身は望郷の気持ちなど感じた事もなかったつもりだが、どこか無意識下で生まれ故郷というものは、やはり特別なものがあるのだろう。

 とは言え、紗織は真一以上に喜んでいたので、これはどういう補正と言えば良いのか?

 真一は部屋のソファにゆったり腰掛けながら紗織が淹れてくれたお茶を飲み、そんな事を考えていた。


「さてと、明日の午前中は萬福寺に行かないとね」

「そうだね、真一さんのお父さんのお供えも持っていきたい」

「お供えかあ、ぜんぜん頭になかったな」

「お花だけでもね」


 二人はざっくりとした予定を確認すると、ようやく落ち着いてきた満腹感に幸せな余韻を感じつつ、本日二度目の温泉を満喫したのだった。


 外が見えるように、浴室の灯りは消してある。

 湯船から見える海は昼間の青く広い海とは違い、どこまでも続く液体化した闇だ。

 その黒い液体に、遠く漁火がチラチラと輝いている。

 黒さが際立ったのは月が雲間に隠れていたからのようで、月が雲間から現れると途端に柔らかい光に薄く覆われて、ゆらめく銀色に姿を変えた。

 

「ドビュッシーのほうの月あかりだな」

「うん?」

「月の光で見える風景が優しいからさ、ヴェートーベンの方とは違うなって」

「ああ、月光かあ。確かにね」


 明日、おそらく対面するであろう真一の実父が眠る墓石も、いま同じ月の光に照らされているのだろう。

 その墓石の前に立った時、どんな感情が胸を去来するのか。

 真一は紗織と湯に浸かって話しながら、意外なほどに静かな胸の内を、他人事のように眺めていた。


 翌朝、ホテルのブュッフェで美味しい朝食を堪能した二人は、雲ひとつなく晴れた今日の空と同じ色をしたフィアット500に乗り込み、この旅の目的地の一つを目指した。


 ホテルを出て、少し遠回りになるが坂道を左手に下ると、正面に白い砂浜とターコイズのような青い海が見えてきた。

 さんざんホテルの部屋から眺めた白良浜だが、間近で見るとまた一味違う。

 すぐに丁字路を右側に折れ岬の反対側に出ると、左手に穏やかな田辺湾を見ながら海沿いの道を東へ向かう。

 すると外を眺めていた紗織が、


「何あのお城みたいなの」


 と、初めてこの辺りに来た人間が必ず気になってしまう建物を見つけ、例外なく紗織も目を奪われる。


「ホテル川久。めちゃくちゃ建物豪華だよ」

「コンセプトがよく分からないけど、すごそうだね」

「昔は経営難で何度かオーナー会社変わってたけど、今はバイキング方式のディナーが人気で繁盛してるらしい」

「でも、お高いんでしょう?」

「それが今泊まってるホテルと変わらん」

「へええ意外。行ってみたいかも」


 二人でそんな他愛もない話をしながらフィアット500を走らせ、まださほど暑く無い時間帯なので窓を開けて風を浴びながら、白浜町から田辺市へと進んで行き、当地で最も親しまれている山である高尾山に近づいていく。


 この標高700メートル弱の山は、東京の高尾山とは違って「たかおやま」と読む。

 真一はどちらの山にも登ったことがあるが、田辺の高尾山の方が海に近い分、標高差を感じられるのが大きな違いだ。


 道端の道の駅のような産直販売所で供物の花を買い、右手に高尾山を見ながら奇岩のひしめく谷あいの道路を縫うように山手に入っていくと、真一が短い期間を過ごした実父の故郷に辿り着いた。


 川の流れる狭い谷の間に僅かな開けた土地のある、山間の集落と呼ぶに相応しい風景がそこにはあった。


 真一は東京の自室でPC越しに見た、嘗て暮らした家に繋がる道のあった場所を発見し、フィアット500を停めて車内から薮と言うより山に戻った坂道跡を眺めた。

 萬福寺に向かう舗装された坂道の脇に、微かな痕跡があるように見える。


「ここがそうなんだね」

「うん、間違いない。でもここから登れそうに無いね。よし、お寺に行ってみよう」


 真一は寺に続く坂道を見上げて再びフィアット500を動かし始める。

 坂の上り口の右手にはPCのモニター越しに見た通り、かつては無かった平屋建ての家屋があり、自分が居た記憶の中の場所とは違うことを改めて認識させる。


 寺の本堂の前に車を停めた二人は、社務所も兼ねているらしい住職の住居を訪い声を掛けてみた。

 するとしばらくして、奥から年配の女性が姿を現し、二人に愛想良く用件を尋ねた。


「先日電話で湯川さんの事をお尋ねした者です」

「ああ、あの時の方。ええとお墓の場所でしたね?」

「はい、お手数お掛け致しますが」

「どうぞ、ご案内致します」


 どうやら住職の妻らしい女性は、さっそく二人を本堂の裏手にある斜面を利用した墓地へと連れて行ってくれた。

 急な坂道を紗織の手を取りながら、真一は女性について行く。

 しばらく登ると一つの墓石の前で立ち止まり、


「こちらが湯川さんのお墓です」


 と手のひらで二人に指し示した。

 あっけなく目の前に現れた実の父親の眠る墓所であったが、真一の感情を揺り動かすものはやはり無かった。


「ありがとうごさいます」


 二人は揃って礼を述べ、何かあれば本堂に居るので声を掛けて欲しいと言って去る女性に再び頭を下げ、改めて墓と向き合った。


 実父の眠る墓石に刻まれた、湯川家代々の墓という文字を眺め、自分もこの墓に入る人間だったのかも知れない事に真一は気付いた。


 それはかつて感じたことのない、奇妙な感覚であった。

 その墓の下には自分という人間に繋がる血脈が眠っているが、今自分はその血脈とは繋がりのない人間として、その前に立っている。


 感傷というようなものではなく、ただ不思議なものを見るような気持ちで、顔も覚えていない父親の墓前に立つ人間を、少し離れた場所から眺めているような感覚であった。


「はいこれ」


 いつの間にか紗織が、バケツに水を入れてきてくれていた。


「ごめん、ありがとう」

「お花これでいいかな?」


 墓跡の両脇に備えられた花筒に、持参した花を入れてくれた紗織の手をとって立ち上がらせ、二人並んで墓前に立つ。


 真一は手を合わせるでもなく、ただ無言でそうしていた。

 それで充分だという気がした。

 あの5歳の日から遥かな月日を経て、死ぬまで自分と再び邂逅することなく、骨になって地下に眠った父親と自分とは、お互いに生きて再び会うことのない人生が前提だったとしか言えない。

 今更、別れの言葉や墓に手を合わせるといった行為は、白々しいにも程があると真一は思った。

 遥々東京から墓を訪れ、無言で花を供えることは、二人の最後の別離として相応しいのではないだろうか。


 紗織も、真一が考えている事は何となく分かっていたが、


「いいの?」


 と一言だけ真一に尋ねた。


「うん」


 真一も一言だけ答えると、あっさりと墓前を離れ、紗織の手を取って元来た道を戻って行った。


 本堂まで戻ってきた二人は、再び声を掛けて案内してくれた女性に出てきてもらい、案内の礼を述べる。

 礼には及ばないと言ってくれた女性に、真一はもう一つ心に残った疑問があったので、思い切って尋ねてみることにした。


「湯川さんは、そこの山の中腹に家があったはずですが、もう上り口も見つからなくて、何かご存知ですか?」

「山に…ですか?」


 おや?と真一は意外な反応に驚く。

 この寺の女性がいつからここに居るのかは分からないが、還暦手前ぐらいであろうから、それなりの年数ここに居ると思われる。

 にもかかわらず、これほど近所にあったはずのあの家を知らないという事は、自分がこの地を離れて間も無く、あの家は無くなったのであろうか?


「いやまあ随分昔の話なので…。そうですか、すると湯川さんは別のところにお住まいだったのですね」

「今の湯川さんのお住まいがどちらか、ご存知ですか?」


 真一が話の展開を考えて言葉を選んでいると、紗織がやや無遠慮とも思える率直さで寺の女性に質問をした。


「はい、お葬式もこちらで致しましたので。湯川さんのお宅はすぐそこです。ここの坂を上がってくる所にある、角のお宅です」


 教えられた家は、真一がPCのモニター越しに見て「こんな所に家が出来たのか」と言い、先ほど現物も目にして時が過ぎたことを実感した、その建物だった。

 何よりその建物こそが、真一が相続放棄をした実父の資産という事だった訳である。


「…そうですか、あれが今の…」

「今そちらには、どなたかお住まいで?」


 紗織がそう尋ねたが女性は首を振り、


「いえ、お一人でお住まいでしたので」

「そうでしたか…どなたか身寄りの方はいらっしゃらなかったのでしょうか…」


 紗織は真一が昔の家のことを尋ねた際に、余りにも記憶に頼った聞き方をしたため、ともすれば肉親であることが伝わってしまうことを危惧した。

 話が周り廻って今の親族から真一が嫌な思いをする事になりかねないと考え、自分が話をすることで、何も詳しいことを知らない単なる知人という立場を演じることにしたのである。


「お姉さんがお一人いらっしゃって、時々ご様子を見に来られていました」

「お姉さんですか…」


 真一には実父の姉という人に会った記憶が全くなかったため少し驚いたが、この場では特にそれ以上は尋ねず、色々教えていただき感謝すると伝えて、本堂を後にした。


 二人はそのまま、歩いて寺から坂を下り、真一の実父が亡くなるまで暮らしていた場所と分かった家までやってきた。


 平屋建てのさほど大きくもない一軒家で、まだ人の暮らしの気配が濃厚にあった。

 倉庫を兼ねたガレージに白い軽トラックが停まっており、荷台に土木作業の用具が積まれたままだ。

 ガレージ内の荷棚には、様々な釣り用具が入っているのが見える。


 決して裕福な暮らしぶりとは見えないが、趣味を楽しみながらの生活が伺える。

 実父が不幸とは言えなさそうな生活をしていたらしいことは、奇妙な感情ながら真一を悪い気持ちにはさせなかった。


 真一は振り返り、少し周囲を見渡した。

 驚くほどに、幼い頃の記憶がありありと重なり、自分が歩いた場所などが思い出される。


「ここに昔は桑の木があってね、ここに居た頃に実をとって食べたんだよ。小さいぶどうって言ってさ。すごく甘くて美味しかった記憶があるなあ」

「桑の実って食べたことないなぁ」

「八王子とか山梨の方で、いっぱいあるみたいだから、今度行ってみようか」


 二人はそんな話をしながら川沿いの道を川上へと歩いて行く。

 歩いているその道は、真一が幼い頃に歩いた同じ道である。

 こうして歩いていると、二人の目の前を幼い真一が歩いて見えるような気がしてくる。


 しばらく歩くと十字路があり、角に商店が建っているのが見えた。

 酒店が日用品や菓子も販売している、コンビニの無い時代に田舎でよくあった店舗だ。


「ここだよ、貯金箱のお金でお菓子買ったところ」

「わあ、まだあったんだねえ」


 どうやらこの集落では、店舗はここきりのようだ。

 スーパーマーケットやコンビニは、車で10分以上離れた場所まで行かなければならず、ちょっとした買い物なら、近所の人たちには重宝されている事だろう。


「お父さんとも交流があったかもね。ちょっと聞いてみる」


 紗織は真一が返事するよりも早く、店に入って行き、奥に向かって声を掛けた。

 返事がして、店の女将さんと思われる年配の女性が出てくる。

 幸いにも、真一の父親とは面識があったとのことだった。


 遠方から訪ねてきた知人だが、急な事で詳しい事情も分からず、何かご存知かと聞いてみると、


「ほんまに急な事で、ご病気でね。癌やていうことでしたけど」

「癌ですか…」

「ええ、病気にならはって入院しはったんですけど、あっという間で」

「私たちも亡くなったと聞いてびっくりして、せめてお線香でもと思って萬福寺さんをお訪ねしたところなんです」

「そうでしたか、ええ人でしたけどねえ。釣りが好きで、たまに釣れた魚なんか持ってきてくれたりしましたんやけど」


 どうやら実父は、それなりに近所付き合いもして、死んだ後に良い人だったと言われる様な生き方はしていたらしい。

 それが真一には不思議な感覚だった。

 別れ際の母と諍う姿が最後の記憶だったためだろうか、ひょっとしたらろくでなしなのではないかと言う不安もあったのだ。


 自分のルーツとなる人間が思ったよりもまともな人間だった事に、多少の安心感を覚えながら、最後に記憶を確かめる様に、


「昔はあの山の所にお宅があったと思いますけど、もう無くなったみたいですね」


 と指差しながら聞くと女将さんは、


「そうそう、あの山の上にね。もうずいぶん昔、30年ぐらい前かな、壊して下へ移りはったんです。萬福寺の坂の入り口のとこに」


 と、やはり元の家は記憶の通りの場所にあったことを教えてくれたのだった。


 女将さんに時間をとらせてしまった事を詫び、店舗を後にした二人は、車のある場所に向かって歩き出した。


 狭い谷あいに広がる小さな農村風景は、過ぎた月日も感じさせないほどに真一の記憶と大差ないが、そこには真一と繋がる一切が失われていた。


 しかし真一にとって、それは感傷を伴うような事実ではなく、ただ過ぎ去った日々がそこにあったと言うだけのことだった。


 ただ、誰とも共有することのなかったその過去の日々を、一部ではあるが紗織と夫婦で共有することが出来たのは、真一にとっては幼い日々の自分への餞のように感じられた。


 いつの間にか太陽は頭上から少し西側に傾きつつあり、少し空腹も感じてきた。

 この後二人で昼食をどこで食べようかと考えていると吹き付けてきた、濃い稲の匂いのする風に目を閉じた時、紗織が真一の手を握って同じように目を細めながら明るい声で話しかけた。


「お腹空いてきたね、お昼どうしようか」

「このあたりは太刀魚も美味いんだ。太刀魚の天丼を出す店があるから、行こうか」

「食べる!」


 二人を待つフィアット500と同じ色の空に少し目を向けると、30年前にこの場所で桑の木を見上げた時も、空は今日と同じ色をしていたような気がした。


 真一はフィアット500に乗り込むと、すっかり熱くなった室内の空気を追い出すために、ドアを開けたままエンジンをかけ、急いでクーラーを最大にする。


 広くも無い室内なので、短時間でクーラーの風が行き渡り快適になった。

 そして、もう大丈夫と合図して助手席に紗織を招き入れ、車をゆっくりと走らせ始めた。


 フィアット500で父親が暮らした家の前を通る時、改めて車庫に停まる軽トラックや、雑然とした釣道具たち、白いレースのカーテンが見える縁側の掃き出し窓、閉じられた玄関のガラスの引き戸、手入れする者が居なくなった玄関先の植木鉢といったものに、真一は視線を走らせる。


 家の中には、父親の写真の一枚もあるのかも知れないし、自分に繋がる何かもあるのかも知れない。


 しかし、そのまま何も言わず、特に心の中で掛ける言葉もなく、真一は幼い日々を過ごしたこの谷あいの集落を去って行く。


 後には幼い真一の追憶だけが、夏の風に揺蕩うばかりだった。

 

 そうして夏の休暇の数日を真一の故郷で過ごした二人は、和歌山を後にして涼を求め北上。

 あちこち寄り道もしながら、山好きな二人で長野県を見て周り、最終日を過ごした白馬村を涼しさに後ろ髪引かれながら、中央道で東京へと戻ってきた。


 そして早々にペットホテルからビリーを引き取り、二人で撫で回して再会を喜ぶ。

 ビリーもアビシニアン特有の人懐っこさを発揮して、この時ばかりは二人に思う存分甘えてくれた。

 その日の夜には再び通常のヒエラルキーに転落の憂き目を見る真一だったが、旅から帰った人間の定番のセリフである、


「やっぱり我が家が一番だ」


 を発して、帰宅のリラックス感を心から満喫した。


「ずっと運転おつかれさま。コーヒー淹れるね」

「ありがとう、運転は良いんだけど、取り敢えず何もする気が起きない」


 紗織に労われ、明日まではゴロゴロして過ごすことを改めて心に決めた真一は、紗織の淹れてくれたコーヒーをゆっくりと飲みながら、各地で手に入れたお土産の菓子を食べる。


 真一としては、お土産物のお菓子で一番好きなのは、富山県の「おもかげ」と和歌山県の「柚子もなか」なのだが、手軽さと美味しさでいえば、何気に長野県の「雷鳥の里」が強いと思っている。


 長い旅先から無事自宅に帰ってきた日ほど安らぐものはない。

 どうせすぐに日常が戻ってきて、そんな気分も忘れてしまうのだが、今日ぐらいはそんな平和な事を考えて、だらけていても構わないだろう。


 真一は取り留めもなくそんな事を考えながら、久しぶりに長距離を運転した余韻や、旅先での風景を特に脈絡もなく様々に思い出す。

 いつも旅行に行った後は、その旅の反芻をするのが真一の常だった。


 故郷の土を踏むのも10年以上振りだったし、何より父親の家のあった場所へは30年振りに訪れたしで、これまでの旅とはその味わいは全く異なる。

 そもそもこの旅のきっかけもイレギュラーで、始まりから波瀾が大き過ぎたような気がする。


 真一は、当時暮らしていた建物が無くなっていたことに思いを巡らし、その場所へ道なき道を分け入って行こうとも考えていた事を、やはりら狼狽えていたのだろうか?と思い返す。


 パソコンの360度写真の地図サイトで最初に見た時は記憶違いも疑ったが、事情を調べてみれば自分の記憶は正しかったわけで、やはり山を少し登って跡地を見てみたい気持ちは少なからずあった。


「やっぱりさ、山登って見てみたかったかも。一応」

「もう、だめだよ。絶対危ないからね」

「何か、ありありと記憶に残っているから、跡がどうなってるのか、どうしてもね」


 そう話している時、真一はふと思い出した。

 地図サイトの写真は、撮影年ごとに残っていたのではなかったか?

 それに国土地理院の航空写真も、あの家から空が見えた頃に撮影されたものが、残っているかも知れない。

 

 真一はコーヒーを片手にPCの所まで行き、先に国土地理院の航空写真を調べる。

 真一の生まれた頃の写真はあるにはあるが、サイトに書かれている年代よりも少し古い気がする。

 家のあったあたりは段々畑のような造成跡が見え、地形的には記憶に近いが、家らしき建物が無い。

 近隣も建物が少なく、女将さんから話を聞いた酒屋兼雑貨店も無かったので、明らかに真一がいた時期より昔だ。


「こりゃダメだな」

「どうしたの?」


 真一は紗織に事情を説明しながら、地図サイトにアクセス先を変更する。

 そしてつい先日自分達がいた風景の中に、画面を切り替えた。

 思った場所より少し離れた場所が表示されたので、ちょうど良い場所まで移動させながら、撮影年を確認する。

 今表示されているのは2年前の写真で、さらにそこから3年前の写真があるようだ。

 恐らく、5年程度遡ったところで、家が取り壊されたのはかなり前という話だったため、見ることは出来ないだろう。


 真一は表示される写真の年代を変えてみるが、思った通り山の樹々が多少高さを変えた程度で、残念ながら何も確認出来なかった。


「うーん、まあそうか」


 紗織が持ってきてくれたコーヒーのお代わりを飲みながら、数年程度では変わり映えしない風景をぐるっと眺める。


 そこで真一の手が止まった。

 理由は紗織にもすぐに分かった。

 画面の中に、現在建っている真一の父の家が映っている。


 そこには自分達が訪れた際には車庫の中にあった白い軽トラックが、玄関先の道路脇に駐車されているのが見えた。


 その意味を、紗織はすぐに理解する事ができたが、声を出す事が出来なかった。


 真一は画面を少し、父親の家の方へと進めていく。

 少しずつ画角が変わり、家に近づいて行く画面の中で、車の陰になっていた玄関が見えてくる。


 玄関の引き戸は開いていた。

 陽光の角度から見て、時間は正午前後だと思われる。

 恐らく真一の父が、軽トラックで近場の仕事先から、昼食のために帰宅したか何かで、車庫に車を入れる前か、出して直ぐに玄関を開けて出入りしている所なのだろう。


 角度を変えても写ってはいないが、明らかにそこに真一の父が居るであろう事が分かる。

 今この瞬間こそ、過去30年において真一が実父の存在に最も接近した時であろう。


 真一本人は何も言わないが、紗織は涙を堪えられず、流れるそれを指で拭った。

 真一の斜め後ろに居る紗織に、真一の表情は見えない。

 きっと真一は泣いてはいないし、これについて感傷的なことなどは今後も言わないだろうと思う。


 だから、いつか自然に話が出来るまで、紗織は何も聞かないことにして、そっと真一の背中から手を回し、真一と手を繋いだ。


 誰にでも過去があり、過去を紐解けば物語になるであろう。

 その過去、物語との向き合い方も人それぞれであろう。

 

 それでも紗織は自分が真一の過去とも、物語とも、ずっと真一と寄り添って向き合って居られるよう願ってやまなかった。



                 了

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ