斎宮さんの言うことには、
これは、私の友人のSさんに聞いた話です。
帰らなければ、と感じたことはあるだろうか。おそらくこの世の大多数の人がイエスと答える。特に外出しているときに夕刻を迎え、日が落ちてくるとそう感じるものである。それは普通だ。
では、家に居ながらにして「帰らなきゃ」と感じたことがある人はいるだろうか。答えはきっと、先ほどより人数は減るものの、イエスと答える人はいる。それが実家を出て別の場所で暮らしている人や、引越しを経験した人が元住んでいた場所を懐かしく感じてそう思うこともあるからだ。それも普通だ。
では、それ以外の場合。帰る場所が一つしかないのに、どこともなく無性に「帰りたい」と思ってしまった経験がある人は? これにイエスと答えた人は気を付けなければならない。それは呼ばれているそうだ。
私がこの話を聞くことになるきっかけになった人物で、私の親友でもあるAさんが、これに該当する経験をしていた。彼女はしきりに「家にいるのに、ふとしたときに帰りたいなーって思っちゃうんだ」と言っていた。てっきりそれは、私も感じたことのある郷愁と同じ類の感情だと思っていた。
私と彼女は大学で知り合ってから社会人になった今でも関係の続く親友で、九州から上京してきた私と違ってAさんは生まれも育ちも東京都だった。生まれが違っても気の合う友人だったAさんとは、週末の会社帰りに居酒屋で落ち合って飲んで帰るのが習慣だった。
その日も私はいつも通り仕事を終えて、残業もなくちょっと早めに上がれたので先に飲んでるね、とAさんに連絡を入れていた。すると少し経ってから「今日はもう疲れちゃって、ごめん帰るわ」と返事が来た。その時は大変な仕事でも振られたのだろうと思って「了解、また来週ご飯いこうね」と返して食事に戻った。
しばらくして、ふとLINEを見ると未だ既読がついていなかった。疲れて眠ったのだろうと考えてその日は家に帰ったが、その日メッセージに既読がつくことも彼女から返信が来ることもなかった。
その後、一週間経っても連絡がつかず、いよいよおかしいと思った私が彼女の実家に連絡を入れると、Aさんのお姉さんが対応してくれた。彼女も相当混乱している様子で、Aさんが踏切から電車に飛び込んで亡くなってしまったのだと教えてくれた。遺書などもなく、家族内のLINEグループに「かえるね」と連絡を入れてしばらく後の飛び込みだったという。
私はかろうじて話は聞いていたものの、本当の話だとは到底信じられず呆然とした。なぜ、どうして、が消えず、あとからあとから後悔ばかりが押し寄せてきた。思い詰めていることに気づけなかったのか、相談相手にもなれなかったのか。もしもっと話を聞いてあげられていたら。
後悔ばかりが募っていた私は、同じ大学の同期の友人たちに連絡をしてAさんから何か話を聞いている人がいないか聞いて回った。その中にSさんがいた。彼はどこだったかの神社の神主の息子とかでちょっと浮世離れしている雰囲気を持った人だった。彼もほかの友人たちと同様に特にAさんから何も聞いていないということだったが、気になることがあるといってそのあとから連絡を取り合うようになった。
Sさんのいうことには、彼女の口癖だった「帰りたい」という言葉が引っかかったという。彼女の出身的にも帰る場所は一つだというのに、しきりに帰りたいという。それは呼ばれているのだと教えてくれた。
何に、どうして、何がきっかけでというのははっきりしないが、何かの拍子に自分の中の「命」と「魂」の繋がりが断たれた人は、帰り道を失って唐突に自殺を図り帰らぬ人になる場合もあるのだという。その繋がりの断たれた状態の人間は現実にある帰る場所とは関係なく「帰りたい」と感じるのだそうだ。
もし、これを読んでいる人の中に注意しなければならない「帰りたい」を感じてしまう人がいれば、十分気を付けてほしい。もしかしたら帰り道を失っているかもしれない。
「……などとネット上に登場人物として書かれていますけど、斎宮さん今どんな気持ちです?」
「別に」
私のからかい半分の質問をすげなく切り捨てた彼は、しかしネット掲示板の映し出されたパソコンの画面から視線をそらさない。
「ネットの匿名掲示板に登場する程度なら別に、なんだが。イニシャルとはいえ私の名前を、見る人が見れば分かる情報とともにこんな内容で衆目に晒しているのが頂けない」
「あー…、いつも言ってる"穢れ"とかですか?」
「そう」
ふぅ、と息をついてやっと画面から目を離し、スマホニュースを読み始めたこの男、もとい斎宮さんは穢れをとても嫌っている。多分潔癖症で、物理的な汚れなんかもすごく嫌っている。
「こういうネット上に書かれることが問題なんじゃないよ。書かれている内容に悪意ある言葉が混じって穢れているから嫌なんだ」
そして、私には理解し難いが概念的な穢れを一番忌避している。
彼が言うには、言葉には多かれ少なかれ力があるため、汚い言葉を使うと己まで汚くなると言う。だからこの男、一人称は私だし、トイレのこともいちいち御手洗と言う。
「ネット上で書かれてるだけで穢れるんです?」
「私の名前を出して、悪意を含んだ汚い言葉を肯定したように書かれると私が間接的に穢れるんだ」
分かるような分からないような、曖昧な表情で言葉を噛み砕いているフリをしてこの後に続く「穢れトーク」を受け流す。分からない話より今気になっている点を聞き出すためである。
「でも、この内容のどこに悪意があるんですか? 読んだ感じでは親友を失って同じ轍を踏まないように注意を促してる感じに見えますけど……」
「まあ、そのように見えるよう書いてるからな。私が話した内容については嘘を書いていないし」
しかし、と言葉を切って斎宮さんはニヤッと目つき悪く笑う。悪意や穢れを嫌うくせに、悪い顔をして笑う男である。
「まず最初に、この話は時系列がめちゃくちゃだ。この女性の話にある通り、私と連絡をとってこの件の話をしたが、それはAさん……愛川さんが亡くなったあとでは無いし、私から引っかかると申し出て話したことでもない」
「え? じゃあどういう……?」
「私が知る限りの流れはこうだ。この女性に魂と命の繋がりが断たれた時の話を聞かれたので答える。その際その断ち方を聞かれたが私は答えなかった。その後、彼女はどこかで方法を見つけ出し、愛川さんの命と魂の繋がりを断つ。そうして話した通りの結果になった愛川さんは亡くなり、彼女は今ネット上で遠回しな完全犯罪の宣言をしている、のだろうね」
何が面白いのか、斎宮さんは薄笑いを残したまま語り続ける。聞いている私には笑いどころは分からなかった。
「私が彼女に話した内容に偽りはない。だから書き込まれた"帰りたい"と思ってしまう人の話にも偽りはない。しかし書かれていないことがある。そして私も彼女に話していないことがある」
にっと歯をむき出す笑い方でこんなにも陰湿さを感じるのは、私が斎宮さんをそういう風に見ているせいなのか。
「一体何が書かれていなくて、何を話していないんですか?」
「ではまず書かれていないことだ」
そう言って斎宮さんは芝居がかった口調で話始める彼曰く。命と魂の繋がりを断っただけでは、人は死にはしないという。確かに掲示板に書かれているようにひょんな事で繋がりを絶たれて死んでいては、人類としてここまで繁栄して来られなかっただろう。では断ったあとどうするのか。
「繋がりを断ったあと、魂を特定の場所に縛り付けるのさ。そうすれば命と魂の引き合う力に呼ばれてその場所へ行ってしまう。今回縛られた場所は線路だったようだね。人間のものかどうかに関わらず、命や魂には安易に触れるべきじゃない」
「……偶然、なんてことは」
「まあ、こんな話を書き込んでる時点で無いだろう。彼女は明確に悪意を持っている。私に聞いてきた話を抜いても、本当に親友で頻繁に飲みに行く仲なら実家に連絡をする前に連絡が来るはずだろ? 本当に死んだのか確認しに電話してるんだよ彼女は」
見えてなかった悪いの正体が明らかになるにつれ、ぞわぞわとした吐き気に似た感情が這い上がってくる。
「あと同期に連絡したのも、私や愛川さんから自分に不都合な情報を漏らされてないかの確認だろ。私には愛川さんが亡くなった後に連絡は来てないし、確認してはいないがきっと彼女にブロックされてるぞ」
斎宮さんはにやにやと推理を披露する。だからどこにそんな笑える部分があるのか。一貫して悪意ある女性の名前を呼ぼうとしない斎宮さんだって、以前「汚い名前……悪意ある人間の名前は口にしたくない」と言っていたから、この行いにいい感情を持っているはずないのに。
「じゃあ斎宮さんが彼女に伝えていなかったことって?」
「ああ、それならこれ」
ずいっと手に持っていたスマートフォンを顔に向けられる。見ていたらしいニュースサイトをざっと読んでみると、どうやら今日の昼頃起きた人身事故についてのようだ。
「人の命や魂を利用して殺した者はな、魂の帰り道が重なってしまうのかな。不思議なことに殺した者と同じ死に方をするんだ」