最期
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次回更新は、11/28予定です。
21
庭園に面した西棟一階の廊下までパムとバールを連れて行くと、僕は床に倒れ込んだ。
理性が、ここにいては駄目だと警告した。「あれ」はまだ生きている。すぐ隣の棟にいる。吼え猛る炎に焼かれても、必ずまた追ってくる。
逃げなければ。できるだけ遠くへ。
けれどもう動けなかった。闇が、あまりにも濃く僕たちにのしかかっていた。強い風と、燃えさかる炎の音だけが叫んでいる。誰の声もしない。誰の声も。
沈黙を苦悶の呻きが破った。
「……イサ……」
バール。
はっとした。そういえば、バールは《恵み》の小瓶を持っている。
金属の羽根が突き刺さり、炎と熱風に焼けただれた背中を庇って、バールは半ば俯せに床に伏していた。闇色の眸は、まだ光を帯びて僕を見ていた。
傍に屈み込むと、バールは左手を持ち上げた。僕が預かったままのナイフを指す。
「……やれ……」
低い声が囁いた。
意味が分からなかった。
「バール。レキは?」
色々なものが突っ込まれているベルトを僕が勝手に探ろうとすると、バールは僕の手を振り払った。
「……割れた」
ふつりと糸を切るように言った。
ベルトに残ったガラス片と、金色の僅かな雫が、嘘ではないと告げていた。こみ上げた叫びを僕は懸命に飲み下した。羽根を投げつけられたときか。金属片が当たって、瓶が割れたのか。
じゃあ、どうすればいいっていうんだ。
バールは左手で、僕が腰に差していたナイフをつかみ、抜き取った。持っていることさえ億劫だというように刃が震えた。
「やれ……」
もう一度言った。武器の柄を、僕の躰に押しつけた。
僕は混乱した。首を横に振った。意味が分からなかったし、分かりたくなかった。
劣等生の僕に、バールはこんなときまで「馬鹿か……」と言った。
「……俺を、殺せ……」
はっきりと言葉にして、退路を断った。
――あの化物に、俺を殺させるな。
バールが言っているのは、そういうことだった。
「あれ」のつけた傷で死ぬ前に、おまえが俺を殺せ。
このまま俺が「あれ」のせいで死ねば、「あれ」は俺の腕を手に入れるかもしれねえ。そうじゃなくても、まだ俺の息があるうちに「あれ」が追いついて来たら、確実に殺られる。「あれ」は俺を喰う。
そうなったら、おまえに勝ち目なんかねえ。
絶対に喰わせるなとバールは言った。右腕は切り刻め。頭も砕け。一欠片も渡すんじゃねえ。下水にでも流せ。一言ごとに弱まる声で指示をした。
声は掠れても、言葉は明瞭だった。最後にはうっすらと笑いさえした。
「急げ……。あいつは、来る……。あんな化物の……餌に……なるのは……」
死んでもごめんだ――と言った。
たちの悪い冗談の裏に、恐ろしいほどの矜持が見えた。
僕は首を振り続けた。何も考えられなかった。逃げることも、《城》が終わることも、生き延びることも思い浮かばなかった。バールがカナにしたことや、レアルを殺そうとしたことさえ、束の間、忘れた。
殺したくなかった。
人を殺すのは初めてじゃない。何人だって殺してきた。殺したくなくたって、殺させられた。やがて慣れた。
だけど今、僕は、バールを殺したくなかった。いなくなってほしくなかった。自分の手でそうするなんて、考えたくもなかった。
イサ、とバールは僕の名前を呼んだ。まるで出来の悪い弟を呼ぶようだった。ナイフの柄を僕の手に押しつける。その上から左手を重ねて、残った僅かな力を込めた。
やれ。
もう声はなかった。沈黙が言葉と同じだけ多くのことを伝えた。
逆らえなかった。
死にかかり、黙っていてさえバールは王だった。その温かい掌が滑り落ちる前に、僕はやるべきことをやらなければならなかった。
泣きたくなかった。バールのように平然としていたかった。もしも立場が逆だったら、バールはきっとためらいもなく僕を刺しただろう。翼を切り落として、黒い羽根を残らず毟り、《城》中にばらまいただろう。「あれ」が追ってきても逃げ続け、生き延びただろう。
僕もそうしたかった。バールが僕に望んだようにしたかった。
だけど涙が零れた。堪えられずに僕は泣いた。子供みたいに泣いて、ナイフの柄を握り直した。
バールはまだ微かに笑っていた。もう大丈夫だと思ったかのように、掌が僕の手から離れた。
そうして、深い夜闇に沈むように、最期を受け容れた。




