攻防
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明日11/26も更新します。
20
次の動きはなかなか来なかった。
僕は書架のいちばん下の段から本を出し、床の隅に積んでいた。敵が来たときへの備えだ。できるだけ追いつかれずに逃げ回るつもりでいるけど、もし奇襲をかけられたら、足止めを食わせて逃げなければならない。
バールは細く窓を開け、庭園の物音と匂いに感覚を集中しているようだった。羆の特性で、鼻と耳はきくのだという。
風向きが悪いのか、バールの眉間には深い皺が刻まれていた。僕の耳には、夜風に木の葉がざわめく音くらいしか聞こえない。敵は物音を立てるのをやめ、狩りをする獣のように這い回っているのだろうか。
一か所にじっとしていれば、いずれ必ずテラの耳かエタの鼻に捕まる。移動した方がいい。バールもそう思ったのか、躰を引いて振り向いた。
――窓ガラスの上辺に、ひたりと赤黒い掌が触れた。
いつのまにか雲が切れて、月の光が闇を薄めていた。黒い帳の奥から、敵が手を伸ばすのを僕は見た。
僕の視線と「バール!」という叫びで、バールは窓の向こうに顔を向けた。緊張が面に上る。
バールが書棚の前まで跳び下がるのと同時に、騒音が闇を掻き乱した。
壁を這い下りた「それ」が窓の縁をつかみ、枠からもぎ取った。赤黒い塊が蛇のように這い込む。床に落ちる。身を起こす。
僕の知らない女が立ち上がった。
両腕に鱗。首から胸にかけて、ざらつく象の皮膚。洗練された衣装のように錆色の花と蔓を身にまとい、片方だけの白鳥の翼を肩掛けにする。
貌も躰も髪のひとすじまでも血の色をした、凍えるような貌の女だった。
白くぬめる眸が、餓えたように僕たちを見つめた。
それは僕に《施設》の寮監を思い出させた。夜になると部屋へ来て、僕の口を塞ぎ、床に這いつくばらせた男だ。生温い体温と汗と欲望の臭い。獣のように言葉が通じなかった。引き裂かれ、奪い取られた。
翼が戦慄いた。翻り、書棚を掠めて羽ばたいた。殺してやる――躰の内側で叫ぶものと、夕闇色の瞳の記憶が交錯した。
嘲うように「それ」は両腕を広げた。滑るように足を踏み出し、最後の獲物に襲いかかった。
赤黒い右腕の先から蔦が伸び、唸りを上げて宙を斬る。
先端が書棚を抉り、ガラスを割り、中の書物も引き裂いて、ちぎれた紙を撒き散らした。勢いが減殺された鞭をバールが躱す。僕は、奥の書架の陰に駆け込んだ。銃撃を避けるための教えが躰を動かした。
狭すぎると敵も気づいた。蔓が消え、爪が伸びる。鋭く湾曲する木トカゲの爪。狐のように素早く書架の裏へ回り込み、僕に狙いを定めて飛びかかってきた。
下がろうとして、僕は動けなくなった。
こちらへ逃げたのは間違いだった。心臓が冷えた。背後の床に、パムを寝かせたままだ。僕が下がれば、パムも攻撃に晒される。
避ける間もなく、爪が胸に突き刺さった。
血と痛みが噴き上がった。
肉ごと抉り取られる寸前に、後ろから伸びた手が僕の襟首をつかんで引きずり倒した。僕を床に放り投げたバールが、敵の懐に飛び込む。左手に白刃が閃いた。ナイフはまだ僕が預かったままだ。鞘が放り捨てられる音で、武器の正体が分かった。クロトの短剣。抜け目なく奪い取ってきていたらしい。
動け。バールの声のない指示を僕は聞いた。
起き上がり、痛みを堪え、書架の間を走った。パムを拾い上げ、近い方の扉に向かう。背後で固い音が響く。敵の爪がバールを襲っている。
低い呻き。血の臭い。雄牛のダウや牝馬のリリカの膂力を備えた「それ」に、バールすら力で勝てない。
早くしなければ。
扉を開けて、パムの躰を向こう側へ押し出す。振り向くと、短剣の刃が「それ」の爪に折られ、弾け飛んだところだった。バールが一歩下がる。僕は扉の脇の壁に手を伸ばした。
「バール!」
声をかけ、照明のスイッチを跳ね上げる。
眩しい光が降り注ぎ、「それ」が両眼を細めた。
その隙にバールは身を翻した。僕のいる方とは逆の、窓側の低い棚と、奥の書架との間に逃げ込む。
敵がバールを追う。赤黒い片翼が波打ち、羽ばたいた。錆びた鉄片に似た羽根が舞い散り、棚や、天井や、バールの背や肩に突き立った。
血飛沫。バールの苦痛の呻き。
「それ」は僕に背を向けていたけれど、僕は躰にその欲望を感じた。
血を流すバールを追い詰め、喰らいつき、咬み裂き啜りたい。手に入れたい。欲しい。
「それ」は、今までに殺した《悪霊》憑きたちに満足していなかった。僕とバール。《施設》の優良種。《城》で最も強靱な獣、美味な餌、優れた子供。
愛情とすら錯覚しそうになるほど、「それ」は僕たちを求めている。
僕は姿勢を低くした。空気抵抗を避け、翼をきつくたたむ。床を蹴る。
背後から駆け寄る僕の足音に、「それ」がほんの一瞬、バールを追うのをやめて振り返った。
「――素人が!」
バールが吼えた。書棚に片手をついて体勢を立て直し、傷を庇いもせず、敵の腹に蹴りを叩き込んだ。
赤黒い花が散る。傷は負わせられなくても、衝撃が「それ」をよろめかせ、後ずさらせた。伸ばした右腕から弾けるように蔓が伸び、床を削り、バールの肩を貫く。僕は走る。バールが唸り、低い書棚の端に爪をかける。
間に合った。
僕も同じ棚の反対側の端に手を伸ばし、つかんだ。合図をする必要もなかった。ほとんど体当たりのように、二人して全身の力をぶつける。
本棚。《城》で最も重量のあるもののひとつ。
足止め、だ。
僕とバールとが突き倒した棚の上端が、「それ」の胸に激突した。
倒れた書棚は、「それ」を巻き込みながら奥の書架の最下段に叩きつけられた。
僕が下の段から本を抜き、上の方を重くしておいた棚だ。
ぐらりと揺れ、どちらに傾こうか迷うような刹那の後、書架はゆっくりと「それ」に向かって倒れていった。
「それ」には声帯はないのだろうか。叫び声を上げる表情で、けれど一言も発しなかった。
まるで城壁が崩れるように、巨大な書架は倒れた。
ガラス戸が割れ、不協和音が鳴り響く。背の低い棚と大型の書架とが、二重に「それ」を押し潰した。
バールの方へ伸ばした右手の指先だけを残して、「それ」は棚の下に消えた。
荒い息をついて、「逃げるぞ」とバールが呻いた。
僕は頷いた。まだ終わりじゃない。書棚は重いけれど、僕やバールだって二人がかりでなら動かせる程度だ。小細工を弄して二重に倒して乗せても、車一台分あるかどうか。
敵は這い出してくるだろう。負傷した僕たちが朝まで逃げ回れるか、むしろこれからが問題だ。
そう思ったとき、書棚の端をちらちらと明るいものが舐めているのに気がついた。
火が。
即席の燭台から床に散らばった書物へ、炎が燃え移っている。消しに行こうとした僕の腕を、鋼のような左手がつかんで止めた。
「バール?」
低く唸って、バールは僕がパムを避難させた方の扉を指した。
「ちびを連れてこい。急げ!」
反射的に僕は駆け出した。扉の陰の躰を抱え上げ、駆け戻る。胸に受けた傷のせいか、パムの小柄な躰がいつになく重く感じられた。
煙が立つ。火は書棚にも燃え移り、炎の爆ぜる音がした。バールは闇色の眸に光を映して立っている。短剣を捨てて空になった手で、厨房から持ってきた瓶を探っていた。
何をする気だ。
ベルトから外したガラス瓶をバールが振りかぶる。「それ」を下敷きにした書棚に投げつける。ガラスが砕け、瓶の中の液体が飛び散った。独特の臭気が鼻をついた。
――燃料。
車両や発電機を動かすのに使う、可燃性の液体だ。
どこからそんなものを。
答えはすぐに思い浮かんだ。《城》に来た初めの頃に、地下で見つけた発電機。駆動させるための燃料があったのだ。僕が確かめる前に、バールが手に入れていただけで。
「バール!」
僕は怒鳴った。燃料の可燃性はかなりのものだ。引火すれば、爆発的に燃え広がる。書棚の下の「それ」は――レアルは――逃げられない。いくら丈夫な躰だといっても、炎に灼き尽くされれば終わりだ。
バールは、レアルをここで殺すつもりだ。
躰が震えた。
最初からそうだったのだ。火種を出してきたときから。油に紛れて隠してあった燃料の瓶を回収したときから。山ほど紙がある図書室の中で光源として火を選んだのも、敵が来るまでこの可燃物の詰まった部屋を動かなかったのも、ここで敵を焼き殺すつもりだったからだ。
書棚の方へ走ろうとした僕をバールは捕まえ、もうひとつの扉の方へ引きずった。西棟のすぐ傍に下りる階段への扉。出て駆け下りれば、逃げられる。
「馬鹿。ちびごと焼け死ぬ気か!」
「放せ! レアルが――!」
僕はわめいた。本棚の下に、ほっそりとした躰がある気がした。
なくしてしまう。失ってしまう。今、ここで、永遠に。
壊れそうだった。僕も正気ではいられなかった。
どんな姿になっても、あれはレアルだ。生きてさえいれば、元に戻ることだってできる。方法はある。今、僕に実行できないだけで。
――だけど、死んでしまったら。
バールの腕に逆らって、僕は暴れた。叫び続けた。レアル。失いたくない。僕は、パムを見捨てられないのと同じくらい、君に生きていてほしい。
君を殺すくらいなら、今ここで死んだ方がましだ。
「この馬鹿! あれは敵だ。さっさと出ろ!」
怪我人とは思えない力でバールは僕を扉の方へ押しやった。
「いやだ! 僕は――」
バールの闇色にひかる眸が僕を見下ろした。
漆黒の長身。炎の影。血と汗のにおいがした。揺るぎなかった。
庭園で対峙したあのときと変わらず、彼は大人で、僕は無力な子供だった。
きっと僕がもう一度、殺したいと思うほどバールを憎んでも、バールは決断を翻さない。
人間の形を保った左手が扉を開け放つ。パムを抱えた僕を階段へ押し出す。
そして次の瞬間、僕の目の前に立つその胸を、背後から伸びた樹木の根が喰い破った。
バールは獣の右手で、自分の胸を貫いた樹の槍に爪を立てつかみ止めた。反射的にそうしたようだった。でなければ、僕もパムごと躰を刺し貫かれていただろう。
バールの爪に引き裂かれた樹の根からは、真っ赤な血が噴き出した。
それとも、それはバールの血だろうか。その胸を赤く染めていくのは。
突き刺されたまま躰をよじって、バールは振り向いた。
僕の位置からも見えた。倒れた書棚の下から伸びる、赤い腕が。肘の先から節くれ立ち、ねじれ、より合わさり、鋭く丈夫な槍と化してバールの胸を貫通した、「それ」の手が。
這い出てくる。
ざわざわと震えながら、幾本もの赤黒い蔦が。
先端に爪を生やし、鱗の隙間から獣毛を伸ばした、猿の腕が。棘の代わりにびっしりと蜂の針を突き出した蔓に、無数に咲き誇る溶け崩れた薔薇の花が。歪んだ雄牛の角の根元で、巨大な蜻蛉の複眼に炎の輝きを映した、狐の首が。
書架の下の暗闇から、嘔吐されるように溢れ出す。
赤黒い女の貌の、ぬめりを帯びて白く光る目が、暗がりから僕たちを舐めた。
切り裂いたように紅い口が動き、開口部の形だけで、単語らしきものを綴った。
――死なない。
私は、二度と、死なない。――そう言ったように見えた。
轟音とともに炎が噴き上がった。
燃料に引火したのだ。熱風と炎を、バールは背で受けた。扉の枠に手を突き、僕とパムを庇った。大柄な躰が傾き、胸を貫いた槍が抜ける。恐ろしいほどの量の血が溢れ出した。
倒れ込むバールの躰を僕は必死に支えた。左腕にパムを抱え、右手で黒い服の襟をつかんで部屋から引きずり出した。
背後で焼け落ちる樹の根がのたうった。苦しみもがきながら、なおもバールに襲いかかろうとする生きた槍を、僕は翼で払いのけた。
そうだ。生きている。
「これ」は、死なない。殺さないんじゃない。僕たちには――殺せない。
哄笑するように炎が吼えた。渦巻く煙と朱色の熱を避け、僕はパムとバールを引きずって地上への階段を駆け下りた。転がり落ちたと言ってもいい。バールの血が躰中を汚した。滑りそうになる手で、僕は重い躰を引っ張り続けた。
別棟の外に出ると、炎は破壊された窓からも吹き出し、闇を焦がして赤々と燃え上がっていた。




