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鋼の翼はゆりかごに孵る  作者: 桐生瑛
第六章 逃走
46/51

攻防

 読んでいただき、ありがとうございます。

 明日11/26も更新します。

  20


 次の動きはなかなか来なかった。

 僕は書架のいちばん下の段から本を出し、床の隅に積んでいた。敵が来たときへの備えだ。できるだけ追いつかれずに逃げ回るつもりでいるけど、もし奇襲をかけられたら、足止めを食わせて逃げなければならない。

 バールは細く窓を開け、庭園の物音と匂いに感覚を集中しているようだった。羆の特性で、鼻と耳はきくのだという。

 風向きが悪いのか、バールの眉間には深い皺が刻まれていた。僕の耳には、夜風に木の葉がざわめく音くらいしか聞こえない。敵は物音を立てるのをやめ、狩りをする獣のように這い回っているのだろうか。

 一か所にじっとしていれば、いずれ必ずテラの耳かエタの鼻に捕まる。移動した方がいい。バールもそう思ったのか、躰を引いて振り向いた。


 ――窓ガラスの上辺に、ひたりと赤黒い掌が触れた。


 いつのまにか雲が切れて、月の光が闇を薄めていた。黒い帳の奥から、敵が手を伸ばすのを僕は見た。

 僕の視線と「バール!」という叫びで、バールは窓の向こうに顔を向けた。緊張が面に上る。

 バールが書棚の前まで跳び下がるのと同時に、騒音が闇を掻き乱した。

 壁を這い下りた「それ」が窓の縁をつかみ、枠からもぎ取った。赤黒い塊が蛇のように這い込む。床に落ちる。身を起こす。

 僕の知らない女が立ち上がった。

 両腕に鱗。首から胸にかけて、ざらつく象の皮膚。洗練された衣装のように錆色の花と蔓を身にまとい、片方だけの白鳥の翼を肩掛けにする。

 貌も躰も髪のひとすじまでも血の色をした、凍えるような貌の女だった。

 白くぬめる眸が、餓えたように僕たちを見つめた。

 それは僕に《施設(バストゥル)》の寮監を思い出させた。夜になると部屋へ来て、僕の口を塞ぎ、床に這いつくばらせた男だ。生温い体温と汗と欲望の臭い。獣のように言葉が通じなかった。引き裂かれ、奪い取られた。

 翼が戦慄いた。翻り、書棚を掠めて羽ばたいた。殺してやる――躰の内側で叫ぶものと、夕闇色の瞳の記憶が交錯した。

 嘲うように「それ」は両腕を広げた。滑るように足を踏み出し、最後の獲物に襲いかかった。


 赤黒い右腕の先から蔦が伸び、唸りを上げて宙を斬る。

 先端が書棚を抉り、ガラスを割り、中の書物も引き裂いて、ちぎれた紙を撒き散らした。勢いが減殺された鞭をバールが躱す。僕は、奥の書架の陰に駆け込んだ。銃撃を避けるための教えが躰を動かした。

 狭すぎると敵も気づいた。蔓が消え、爪が伸びる。鋭く湾曲する木トカゲの爪。狐のように素早く書架の裏へ回り込み、僕に狙いを定めて飛びかかってきた。

 下がろうとして、僕は動けなくなった。

 こちらへ逃げたのは間違いだった。心臓が冷えた。背後の床に、パムを寝かせたままだ。僕が下がれば、パムも攻撃に晒される。

 避ける間もなく、爪が胸に突き刺さった。

 血と痛みが噴き上がった。

 肉ごと抉り取られる寸前に、後ろから伸びた手が僕の襟首をつかんで引きずり倒した。僕を床に放り投げたバールが、敵の懐に飛び込む。左手に白刃が閃いた。ナイフはまだ僕が預かったままだ。鞘が放り捨てられる音で、武器の正体が分かった。クロトの短剣。抜け目なく奪い取ってきていたらしい。


 動け。バールの声のない指示を僕は聞いた。


 起き上がり、痛みを堪え、書架の間を走った。パムを拾い上げ、近い方の扉に向かう。背後で固い音が響く。敵の爪がバールを襲っている。

 低い呻き。血の臭い。雄牛のダウや牝馬のリリカの膂力を備えた「それ」に、バールすら力で勝てない。

 早くしなければ。

 扉を開けて、パムの躰を向こう側へ押し出す。振り向くと、短剣の刃が「それ」の爪に折られ、弾け飛んだところだった。バールが一歩下がる。僕は扉の脇の壁に手を伸ばした。


「バール!」


 声をかけ、照明のスイッチを跳ね上げる。

 眩しい光が降り注ぎ、「それ」が両眼を細めた。

 その隙にバールは身を翻した。僕のいる方とは逆の、窓側の低い棚と、奥の書架との間に逃げ込む。

 敵がバールを追う。赤黒い片翼が波打ち、羽ばたいた。錆びた鉄片に似た羽根が舞い散り、棚や、天井や、バールの背や肩に突き立った。

 血飛沫。バールの苦痛の呻き。

「それ」は僕に背を向けていたけれど、僕は躰にその欲望を感じた。

 血を流すバールを追い詰め、喰らいつき、咬み裂き啜りたい。手に入れたい。欲しい。

「それ」は、今までに殺した《悪霊(ファヴリル)》憑きたちに満足していなかった。僕とバール。《施設(バストゥル)》の優良種。《城》で最も強靱な獣、美味な餌、優れた子供。


 愛情とすら錯覚しそうになるほど、「それ」は僕たちを求めている。


 僕は姿勢を低くした。空気抵抗を避け、翼をきつくたたむ。床を蹴る。

 背後から駆け寄る僕の足音に、「それ」がほんの一瞬、バールを追うのをやめて振り返った。


「――素人が!」


 バールが吼えた。書棚に片手をついて体勢を立て直し、傷を庇いもせず、敵の腹に蹴りを叩き込んだ。

 赤黒い花が散る。傷は負わせられなくても、衝撃が「それ」をよろめかせ、後ずさらせた。伸ばした右腕から弾けるように蔓が伸び、床を削り、バールの肩を貫く。僕は走る。バールが唸り、低い書棚の端に爪をかける。

 間に合った。

 僕も同じ棚の反対側の端に手を伸ばし、つかんだ。合図をする必要もなかった。ほとんど体当たりのように、二人して全身の力をぶつける。

 本棚。《城》で最も重量のあるもののひとつ。

 足止め、だ。

 僕とバールとが突き倒した棚の上端が、「それ」の胸に激突した。

 倒れた書棚は、「それ」を巻き込みながら奥の書架の最下段に叩きつけられた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()棚だ。

 ぐらりと揺れ、どちらに傾こうか迷うような刹那の後、書架はゆっくりと「それ」に向かって倒れていった。

「それ」には声帯はないのだろうか。叫び声を上げる表情で、けれど一言も発しなかった。

 まるで城壁が崩れるように、巨大な書架は倒れた。

 ガラス戸が割れ、不協和音が鳴り響く。背の低い棚と大型の書架とが、二重に「それ」を押し潰した。

 バールの方へ伸ばした右手の指先だけを残して、「それ」は棚の下に消えた。





 荒い息をついて、「逃げるぞ」とバールが呻いた。

 僕は頷いた。まだ終わりじゃない。書棚は重いけれど、僕やバールだって二人がかりでなら動かせる程度だ。小細工を弄して二重に倒して乗せても、車一台分あるかどうか。

 敵は這い出してくるだろう。負傷した僕たちが朝まで逃げ回れるか、むしろこれからが問題だ。

 そう思ったとき、書棚の端をちらちらと明るいものが舐めているのに気がついた。

 火が。

 即席の燭台から床に散らばった書物へ、炎が燃え移っている。消しに行こうとした僕の腕を、鋼のような左手がつかんで止めた。


「バール?」


低く唸って、バールは僕がパムを避難させた方の扉を指した。


「ちびを連れてこい。急げ!」


 反射的に僕は駆け出した。扉の陰の躰を抱え上げ、駆け戻る。胸に受けた傷のせいか、パムの小柄な躰がいつになく重く感じられた。

 煙が立つ。火は書棚にも燃え移り、炎の爆ぜる音がした。バールは闇色の眸に光を映して立っている。短剣を捨てて空になった手で、厨房から持ってきた瓶を探っていた。

 何をする気だ。

 ベルトから外したガラス瓶をバールが振りかぶる。「それ」を下敷きにした書棚に投げつける。ガラスが砕け、瓶の中の液体が飛び散った。独特の臭気が鼻をついた。


 ――燃料。

 車両や発電機を動かすのに使う、可燃性の液体だ。


 どこからそんなものを。

 答えはすぐに思い浮かんだ。《城》に来た初めの頃に、地下で見つけた()()()。駆動させるための燃料があったのだ。僕が確かめる前に、バールが手に入れていただけで。


「バール!」


 僕は怒鳴った。燃料の可燃性はかなりのものだ。引火すれば、爆発的に燃え広がる。書棚の下の「それ」は――レアルは――逃げられない。いくら丈夫な躰だといっても、炎に灼き尽くされれば終わりだ。

 バールは、レアルをここで殺すつもりだ。

 躰が震えた。

 最初からそうだったのだ。火種を出してきたときから。油に紛れて隠してあった燃料の瓶を回収したときから。山ほど紙がある図書室の中で光源として火を選んだのも、敵が来るまでこの可燃物の詰まった部屋を動かなかったのも、ここで敵を焼き殺すつもりだったからだ。

 書棚の方へ走ろうとした僕をバールは捕まえ、もうひとつの扉の方へ引きずった。西棟のすぐ傍に下りる階段への扉。出て駆け下りれば、逃げられる。


「馬鹿。ちびごと焼け死ぬ気か!」

「放せ! レアルが――!」


 僕はわめいた。本棚の下に、ほっそりとした躰がある気がした。

 なくしてしまう。失ってしまう。今、ここで、永遠に。

 壊れそうだった。僕も正気ではいられなかった。

 どんな姿になっても、あれはレアルだ。生きてさえいれば、元に戻ることだってできる。方法はある。今、僕に実行できないだけで。

 ――だけど、死んでしまったら。

 バールの腕に逆らって、僕は暴れた。叫び続けた。レアル。失いたくない。僕は、パムを見捨てられないのと同じくらい、君に生きていてほしい。

 君を殺すくらいなら、今ここで死んだ方がましだ。


「この馬鹿! あれは敵だ。さっさと出ろ!」


 怪我人とは思えない力でバールは僕を扉の方へ押しやった。


「いやだ! 僕は――」


 バールの闇色にひかる眸が僕を見下ろした。

 漆黒の長身。炎の影。血と汗のにおいがした。揺るぎなかった。

 庭園で対峙したあのときと変わらず、彼は大人で、僕は無力な子供だった。

 きっと僕がもう一度、殺したいと思うほどバールを憎んでも、バールは決断を翻さない。

 人間の形を保った左手が扉を開け放つ。パムを抱えた僕を階段へ押し出す。


 そして次の瞬間、僕の目の前に立つその胸を、背後から伸びた樹木の根が喰い破った。





 バールは獣の右手で、自分の胸を貫いた樹の槍に爪を立てつかみ止めた。反射的にそうしたようだった。でなければ、僕もパムごと躰を刺し貫かれていただろう。

 バールの爪に引き裂かれた樹の根からは、真っ赤な血が噴き出した。

 それとも、それはバールの血だろうか。その胸を赤く染めていくのは。

 突き刺されたまま躰をよじって、バールは振り向いた。

 僕の位置からも見えた。倒れた書棚の下から伸びる、赤い腕が。肘の先から節くれ立ち、ねじれ、より合わさり、鋭く丈夫な槍と化してバールの胸を貫通した、「それ」の手が。


 這い出てくる。


 ざわざわと震えながら、幾本もの赤黒い蔦が。

 先端に爪を生やし、鱗の隙間から獣毛を伸ばした、猿の腕が。棘の代わりにびっしりと蜂の針を突き出した蔓に、無数に咲き誇る溶け崩れた薔薇の花が。歪んだ雄牛の角の根元で、巨大な蜻蛉の複眼に炎の輝きを映した、狐の首が。

 書架の下の暗闇から、嘔吐されるように溢れ出す。

 赤黒い女の貌の、ぬめりを帯びて白く光る目が、暗がりから僕たちを舐めた。

 切り裂いたように紅い口が動き、開口部の形だけで、単語らしきものを綴った。


 ――死なない。


 私は、二度と、死なない。――そう言ったように見えた。

 轟音とともに炎が噴き上がった。

 燃料に引火したのだ。熱風と炎を、バールは背で受けた。扉の枠に手を突き、僕とパムを庇った。大柄な躰が傾き、胸を貫いた槍が抜ける。恐ろしいほどの量の血が溢れ出した。

 倒れ込むバールの躰を僕は必死に支えた。左腕にパムを抱え、右手で黒い服の襟をつかんで部屋から引きずり出した。

 背後で焼け落ちる樹の根がのたうった。苦しみもがきながら、なおもバールに襲いかかろうとする生きた槍を、僕は翼で払いのけた。


 そうだ。生きている。

「これ」は、死なない。殺さないんじゃない。僕たちには――殺せない。


 哄笑するように炎が吼えた。渦巻く煙と朱色の熱を避け、僕はパムとバールを引きずって地上への階段を駆け下りた。転がり落ちたと言ってもいい。バールの血が躰中を汚した。滑りそうになる手で、僕は重い躰を引っ張り続けた。

 別棟の外に出ると、炎は破壊された窓からも吹き出し、闇を焦がして赤々と燃え上がっていた。




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