喰う者
読んでいただき、ありがとうございます。今回からイサ視点に戻ります。
明日11/14も更新します。
今回も残酷な描写が少しあります。苦手な方はご注意ください。
17
レアルは瞳を見開いたまま、もう何も見ていなかった。白い両腕も力なく垂れ、赤黒い二本の腕に機能を譲り渡してしまったかのようだった。
赤い右腕が踊る。レアルがするのと同じように、手の先から蔦が伸びた。錆びた鉄の色をした鞭。
蔓の先端が翻り、食堂の隅で呆然としていたチシャの頭に食い込んだ。
首から腹まで真っ二つに断ち割り、その腕に抱かれたミレの首も斬り落とした。ディナにも蔓は襲いかかった。腕を斬り、胴を裂き、勢いのままに壁に叩きつけて、押し潰した。
噴き出す血の向こうで、ディナは最後までバールを見ていた。
ずるりと蔦を引き戻しながら、赤黒い女の貌が歪んだ。不審げな表情にも見えた。ぬるりとした白い眼球で、倒れ伏したディナたちの躰を凝視する。
おもむろにまた蔦を伸ばし、壁際に転がったディナの亡骸に巻きつけて引きずり寄せた。
女の貌が口を開いた。並んだ白い歯が、ばきばきと音を立てて変形した。犬の鼻面と牙。エタの定義。
獣の口を大きく開くと、女の貌はディナの腕にかぶりついた。蛇の鱗を噛み砕き、傷跡の残る肌を裂く。喰いちぎり、咀嚼し、呑み込む。
喰う。
僕は、動けなかった。目をそらすことさえできなかった。
ディナが喰われる。喰いちぎられるたびに、光を失った眼が揺れていた。血が、肉片が飛び散った。
殺された後のその亡骸まで、引き裂かれ、唾液にまみれ、奪い取られていく。
短い息の音が聞こえた。バールだ。傍らに転がっている椅子に左手を伸ばし、つかんでいた。人間の左手。
イサ。僕の方を向いて、バールは唇の動きだけで言った。
手伝え。
何を、と言われる必要はなかった。
けれど、そうしていいのかどうか、分からない。レアルは「これ」に躰を喰い破られて死んだかのように見える。でも、本当にそうなのか。あの躰は、どこまでがレアルで、どこからが「これ」なのか。
「これ」を殺せば、そのときこそ本当に、レアルも死んでしまうんじゃないのか。
バールは僕を待たなかった。咆哮し、襲いかかった。
赤黒いものはディナの躰を振り捨て、蔓を一閃させた。バールが椅子で防ぐ。受け止めるのではなく、並走するように振り回して軌道を弾きそらした。砕けた木片が飛び散り、蔓の先端が天井に突き刺さった。
敵が天井から凶器を引き抜く前に、バールは走る。右手の爪を女の貌に叩きつける。蔦が悲鳴のように激しくうねり、襲った。
もう迷ってはいられなかった。蔦の標的を分散させなければ、バールがやられる。
僕も手近にあったガラス片をつかみ、飛び出した。右側面から回り込む。赤黒い左腕に、ガラス片を突き立てる。
――弾き返された。
「それ」の赤黒い表面を、溶け崩れた花が一気に覆い尽くした。奇妙に柔らかな形に反して、その花はレアルの銀の鎧と同じように僕たちの攻撃を撥ねのけた。
バールは一歩退き、再び飛びかかる。左手でナイフを抜き放ち、花の隙間に突き立てようとする。横殴りに蔦が襲いかかった。僕はバールの襟首をつかみ、翼で空を打って跳び下がり、敵から引き剥がした。蔦が空を切る。身を低くした僕たちの頭の上を掠め、切り裂いた。
「バール!」
僕は小声で言った。
「無理だ。一旦、退こう」
あの防御がある限り、僕たちの武器じゃ歯が立たない。蔦の射程も長い。爪や刃物は届かない。
バールが聞くかどうか、自信はなかった。カナが死んだ日の自分が胸に蘇った。僕は、そう、死んでもいいと思ったのだ。思い知らせてやるためなら、命と引き替えにしたって構わないと。
食いしばった歯が軋む音が、聞こえた気がした。
だけど、バールは、頷いた。
僕の手を振り払って立ち上がる。敵は僕たちの出方を窺っているようだった。赤い蔓を触手のように動かしながら、ぬめる眼で凝視している。
大きく、深く息をついて、バールは再び身構えた。駆け出す。敵の左方向。僕はまた別の椅子をつかんで、バールの背に襲いかかる蔦を弾いた。防御のために一杯に広げた翼が、蔦の先端に切り裂かれ、痛みが走った。
その間に、バールは横倒しになった食卓の脚をつかんでいた。躰を沈め、力を込める。重厚な木材の、十人以上も座れる食卓が、持ち上がった。
咆哮。
バールは腹の底から吼え、食卓を振り回し、敵に叩きつけた。
さすがに重量を受け止めきれず、赤黒い躰は食卓ごと床に倒れ込んだ。その隙に、僕たちは全速力で回廊側の扉に走った。戸口を抜ける。扉をつかんで力一杯閉めると、向こう側から蔦の先端が板を貫いて飛び出し、僕の頭を掠めた。
僕も、バールも、もう喋らなかった。回廊を駆け出す。バールが先に行き、僕が後に続いた。翼がある分、背後からの追撃を防ぎやすいと頭の隅で思った。
少なくとも、気休め程度には。
内部を知り尽くした西棟に逃げ込み、庭園の見える廊下に出たところで、バールが足を止めた。
「追ってこねえな」
低い声は、予想したよりもずっと落ち着いていた。
僕も振り返って背後を確かめ、頷いた。
「来ないね。……もしかしたら……」
喰っているのかもしれない。ディナだけじゃなく、チシャや、ミレや、カッチェやガナリを。
吐き気を催す想像だった。
僕はバールの彫りの深い貌を見やった。何の感情も見えない。《施設》の優等生は、こんなときまで優等生なのだ。
今、長身の胸の奥にあるかもしれないものを僕は思った。カナが死んだ日の自分をまた思い出した。
ざまあみろとは言えなかった。バールがカナにしたことを思い返しても、それでも言えなかった。あの光景の後では。ディナの透明な微笑みと、最後までバールを見つめていたまなざしの後では。
廊下の壁に肩を預け、息をつく。疲れていて、頭が重かった。
レアルはどうなったのだろう。「あれ」は、何なのだろう。
「あれ」も《施設》の計画なのか。何のための?
レアルは――レアルは、生きているのか?
バールも壁にもたれかかり、考えに沈んでいた。独り言らしい声が漏れた。
「……とにかく、あいつが何なのかが問題だ。あの女と同じ、獲物の躰を写し取る機能……だが……あれは、何だ? 殺しただけじゃ足りねえのか? ……劣化……不具合……暴走……?」
身動きをしようとして、顔をしかめている。バールが負傷していることを僕は思い出した。脚の傷は、見たところ血が止まっている。大きな血管には損傷がないようだ。
でも、動きには支障が出るだろう。次に戦闘になったら、それが生死を分けるかもしれない。
パムがいれば。
そう思った瞬間、僕は青ざめた。
パム。食堂にはいなかった。いくらレアルや「あれ」に気を取られていても、いれば、気づかなかったはずはない。
じゃあ、どこにいる? まさか、ハミのように、もう別の場所で殺されているのか?
「バール」
僕は声をかけた。
「パムを知らない?」
「厨房だ」
上の空でバールは答えた。
「クロトのことが心配だって言うから、一緒にいさせて……」
声が途切れた。
不意に、バールの表情が変わった。まるで獲物に狙いを定めた獣のようだった。興奮。歓喜。戦意。
闇色の眸を光らせ、バールは僕に向き直った。
「おまえ、俺に手を貸す気はねえと言ったな」
今、その話をするのか。僕は顔をしかめた。
「言ったけど。あんたの邪魔をする気はないとも言っただろ」
「聞いた」
バールは頷き、そして、牙を剥くように笑った。
「だが、あの化物の正体を調べると言ったら――おまえ、俺に手を貸すか?」




