あなたがいればよかった
読んでいただき、ありがとうございます。
レアル視点は次回までです。
長くなりましたので2回に分け、明日11/11も更新します。
またひとり殺した。
今度は鼻から下が犬の形になっている女の子だ。顔を他人のものに書き変えるのは難しいのか、手で触ってみた限りでは、私の顔は牙のついた仮面を鼻から下に被ったような形にしかなっていない。それでも嗅覚は犬のものなのか、血の臭いが酷く感じられた。
この少女も、私が殺した──はずだ。自信がない。
いや、《ゆりかご》は確かに形を覚えている。私だ。それ以外には、あり得ない。
いつ殺したのだろう。
冷たく澄んだ早朝の光の中で、私は考える。目の前のこの引き裂かれた躰は、私がそうしたのか。いつ? 昨夜? それとも、今?
分からない。
協力者が私を呼ぶ。鍵をかけると急かされたので、戸口から庭へ滑り出た。
着替えて、すぐには試験場を出ず、花壇に向かった。
天気のいい日はパムが来ることが多い。日はまだ昇ったばかりだ。しばらく待てば、イサが彼女を連れてくるだろう。
そうしたら。
そうしたら、話をしよう。私のことを全部話して、イサの前で、右手を刃に変えよう。
彼は私以上に訓練を受けた優良種だ。戦うことに向いている躰。きっと、私などに負けはしないだろう。私を止めてくれるだろう。
頭が痛い。自分は死んでいるという感覚がますます強くなる。
どうかもう終わりにしてほしい。私は生きてなどいない。人を殺して回る、動く死体だ。壊してもらうべきなのだ。
ぞろりと皮膚の内側を見えない指が撫でた。
そんなことはさせません。マレンの声が囁いた。
あなたは自分の力を過小評価している。私は違う。
私は、あの獣を殺しますよ。この新しい私の躰を使って。
躰の内側を撫で回される感触に、皮膚が粟だった。
気持ち悪い。何だろう。何だろう、この感覚は。私のいつもの陰鬱な空想ではないのか。
もう少しで何かが分かりそうなのに、酷い頭痛が邪魔をする。
花壇に着くと、イサがよく登っている木の根元で休んだ。
いつもと違って、眠るのが怖かった。眠りについたらもう二度と目を覚ませない気がした。
私の意識は完全になくなり、この躰が勝手に誰かを殺していく。
もしかしたら、イサやパムも。
悲鳴を上げて目を覚ました。
思ったよりも時間が経っていた。明け方の青空はいつのまにか雲に覆われ、風が絶えて、花壇の草木は静まりかえっていた。立ち上がって、普段ならパムがいるあたりに行ってみた。彼女の小柄な姿は、ない。
思ったほど天気もよくない。今日は二人は来ないのだろう。ため息が零れた。
近づいてきたものに気づいたのは、そのときだった。
顔を上げて、私は待っていた姿の半分を見つけた。
イサ。
私がここにいるとは思っていなかったのか、彼はまた驚いた顔をしていた。いつも私は彼を驚かせている気がする。申し訳ないような、仄かに嬉しいような気持ちになった。
私は口を開きかけ、言葉に詰まった。
名前を呼ぶのが気恥ずかしかった。それに、どう呼べばいいのだろう。よく考えてみれば、私が一方的に彼を知っていただけで、まだ一度も話したことなどない。いきなり呼び捨てにするのは、たぶん失礼だ。
迷った末に、「護衛係さん」と話しかけてみた。
「護衛係?」
彼が聞き返したので、頷く。
「パムの。……いつも守ってるのに。どうして、今日はひとりなの」
「パムは少し体調を崩してる。部屋にいるよ」
そうか。私はもう一度頷いた。彼女の躰がとても病弱らしいことは、言葉の端々から気づいていた。風邪でも引いたのかもしれない。
今日は、彼ひとり──そう思った瞬間、ぞわりと躰の奥が波立った。
殺しますよ。マレンの声が蘇った。私はあの獣を殺しますよ。
私は急いで立ち去ろうとした。怖い。自分が何をするか分からない。
彼なら私を殺してくれるという思い込みは、揺らいでいた。《ゆりかご》が棲むこの躰は、私にも限界が見えないほど強靱だ。もし私が自分の意志をなくして暴れれば、彼も無事では済まないかもしれない。
「待って」
イサの声が私を呼び止めた。
立ち止まるつもりはなかった。それなのに、彼の言葉はまた私の心臓をつかみ、足を止めさせた。
「レアル」
私の名前。
彼はためらわずに呼んだ。
私は思わず振り向いた。イサが私を呼ぶ。パムを呼ぶのと同じように近しく。
死んだはずの心臓が、こと、こと、と音を立てる。
ためらいがちに彼は言葉を続けた。
「気をつけて。特に、夜は。ひとりで出歩かないようにして。危ないから。……人が死んだ……」
優しい、気づかうような声音だった。
苦しさがこみ上げた。このひとは私が殺したのだと知らない。知らないで、私のことを心配している。
彼はゆっくりと近づいてきた。
「エタって子を知っている? 中央棟の二階に住んでいたんだけど……今朝、噴水の傍の離れで死んでいた」
死んだ、と私は呟いた。そう。彼女を殺したのは、私だ。
「エタはエルリっていう女の子を捜していた。そのせいで殺されたのかどうか、まだ分からない。でも、他にもエルリを捜している奴はいる。可能性はあると思う」
違う。あの子が殺されたのは、単に《悪霊》憑きだったからだ。躰の形を奪うためだ。もしかしたら協力者が何か考えて選択したのかもしれないけれど、私は知らない。
イサは私のすぐ傍まで来て、足を止めた。思ったよりも背が高かった。見上げないと視線が合わない。
手を伸ばせば触れられそうなほど近い。
躰が震えた。
レアル、ともう一度イサが呼んだ。心臓が壊れそうに高鳴った。
これは恐怖だろうか。私がしたことを見破られ、責められることを怖れているのか。いかにも猛禽の《悪霊》憑きらしい彼の鋭く怜悧な瞳に、私に対する嫌悪が浮かぶのが怖いのか。
それとも──。
「君は? エルリを知ってる?」
「……知らない」
かろうじて声を押し出した。エルリ。資料で読んだ記憶はあるけれど、どの子だったか分からない。
「そう」
イサは追及しなかった。片手を上げる。武器を持ち慣れているからか、頑丈そうな手だった。指が長く、美しい。
その手が私の腕に触れた。
躰が熱くなった。温かい掌。ゆびさき。
私は全身で彼を感じる。
「気をつけて。僕が知っているのは、このくらいのことだけど」
声が降ってきて、私の躰を抱いた。
融かされる。
このまま殺されたい。いつか見た夢のように胸を刺し貫かれて、息絶えたい。
私はあなたの敵だとは、もう言えなかった。
壊せない。あなたがこんなふうに私に触れて、見つめるのに。
何もできない。あなたが剣を振り下ろしてくれるのを待つ以外のことは、何も。
私は目を伏せ、精一杯の言葉を投げた。
「パムが羨ましい。……私にも、剣がいればよかった」
もっとずっと早く、出会っていたらよかった。
あなたが、私の傍にいてくれたらよかった。
イサ。
私は、あなたが。
イサの手が微かに強ばった。指先が滑り、私の指に触れた。
鼓動が高まる。目を開けていられない。
瞼を閉じると、掠れた彼の声が囁いた。
「欲しい?」
私は唇を開こうとした。答えは、ひとつしかない。
──頭蓋骨の内側で痛みが弾けた。
いけない。高ぶった女の声が叫んだ。ずっと押さえ込まれていたものが、とうとう堰を切って溢れ出したかのようだった。
駄目だ。これ以上、言葉を交わしては。刷り込まれる。混ざってしまう。
《定義》が、書き変わってしまう。
右手に何かが書かれようとしている気配を感じて、私は必死にイサの手を振り払い、後じさった。
痛い。頭が、割れそうだ。
耐えられない。私が私でなくなる。躰が、奪い取られる。
痛みに掻き乱される頭の中に足音が忍び込んできた。他の《悪霊》憑きか。それとも、協力者か。
「……誰か来る」
私は逃げ出した。
《城》を出て、この気味の悪い手が彼に届かなくなるまで、逃げ続けた。




