私の聖域
読んでいただき、ありがとうございます。
切りがよくないため、明日11/10も更新します。
【前回の内容】(飛ばして読まれた方向けです)
病み衰え、余命少ないマレンは、ユーゼルと共謀して自殺し、自らの脳をレアルに喰わせた。
拘束され、無理やりマレンの脳を嚥下させられたレアルは、錯乱し自殺を図るが、許されず、《悪霊》憑きの子供たちを殺す訓練を継続するよう強制される。
落ちた体力を取り戻すのに一か月ほどかかった。春が終わろうとしていた。改めて試験場の中を確認するため、私は壁を越えて内部に入った。
東側から建物の中を抜け、庭園へ出る。途中の施錠された扉は、協力者が開けておいてくれる。
試験場は相変わらず荒れ果てていて、美しかった。《城》という呼び名が定着していると協力者が言っていた。似合うと思った。
……いい呼び名ですね。
頭の中でマレンの声が囁いた。
そうですね、と応えた。時折、私は彼女の声を聴く。彼女が自分の中にいるような錯覚をおぼえる。
当たり前ではないか。だって、私は彼女を喰ったのだから。
姿を見られないように慎重に庭園を歩いた。
私の銀色の髪はひどく目立つ。といって、隠すというのも変だ。露骨に戦闘用の装備を着けていては、他の《悪霊》憑きに見られたときに言い訳がきかない。結局、普通の白い服を着ることになった。腕や脚は剥き出しになるけれど、構わないだろう。多少の傷はすぐ癒えるし、私の躰は変異する。防具など要らない。
花壇のような場所に出た。生い茂った雑草の中に、荒々しい形の変異種の花々が咲き誇っている。これはこれで美しい。
辺りを見回しながら通り過ぎようとしたとき、花の間からこちらを見ている眼に気がついた。
私は立ち止まった。誰かいる。小柄で、草の中に寝転がっていたから、接近するまで分からなかった。
見つかった。
殺すか。
そう思ったとき、相手があの凄絶な《悪霊》憑きだと気づいた。
殺すことはできない。単に殺せば、《ゆりかご》は相手の躰の形を覚えてしまうだろう。この《悪霊》憑きは、それでは意味がない。歪んだ躰の中にいるというファヴリル、《恵み》を採取しなければならない。
そしてその方法は、マレンしか知らなかった。
私が対処に迷って立ち尽くしていると、相手が口を開いた。
はにかんだような、慎ましやかな声だった。
「迷ってるの?」
──なぜ分かる。
愕然としたけれど、すぐに勘違いだと分かった。その《悪霊》憑きは歪んだ躰をよじって、苦労して頭を持ち上げ、試験場の建物の方を目で示した。
「生け垣の裏に回って、石畳の道をあっちに進めば、中央棟に戻れるよ。案内してあげたいけど……友達がもうすぐ来るんだ。ごめんね」
つまり、私が迷子になっていると思ったのだ。
ほっとすると同時に、相手の愛くるしい顔を見直して、女の子だったのかと私は思った。外見以外の資料の内容はほとんど覚えていない。名前は何だっただろう。パメラ? パニ?
思い出す前に、可愛らしい口が名乗った。
「ええと……初めて会うよね。ぼくは、パム。きみは?」
言葉遣いは少年のようだった。でも、声は透きとおって高い。やっぱり女の子だと思う。
「レアル」
つい、答えてしまった。同年代の少女と話すのはずいぶん久しぶりだ。
それに、私はこの子を殺さなくてもいい──そう思うと、驚くほど気持ちが軽くなった。
遊びに来たのではありませんよ、レアル。存在を知られてしまったのだから、うまく口止めをして立ち去らなければ……。
マレンの声がたしなめたが、私はもう少しだけ《悪霊》憑きの彼女と話すことにした。
彼女は私の正体を知らない。私が何をしてきたか、これから何をするのかを知らない。
私はじきに彼女を裏切る。試験場の中の子供たちを殺し尽くす。いずれ彼女の躰からもレキを奪うだろう。それも、どうせ酷いやり方に決まっている。
でも、彼女はまるで迷子の仔猫を見るみたいに、私に優しい眼を向ける。
私は決して彼女を殺さないだろう。もしも彼女がその酷い躰のせいで他の子供たちから虐められるなら、その相手を殺して彼女を守るだろう。
いつか私か、彼女が死ななければならない日が来るまで、私は彼女の友人でいよう。
パム。
彼女は、私のささやかな聖域になった。
彼女の「友達」の正体を、私はそれから程なくして知った。
黒鷲の《悪霊》憑き。優良種。鎖に縛り上げられた、美しい黒い翼。
パムがいる花壇のすぐ脇の木の上で、彼は幹にもたれ、読みかけの本を躰の上に置いて、器用に微睡んでいた。
やっぱり、あなただったのか。
頭の奥がひどく痛んだ。横顔だったけれど、初めて血に汚れていない顔を見た。胸が震えた。
次に庭園で会ったときには、名前を覚えた。パムが教えてくれた。
イサ。──あなたの名前。
そのときは彼も私を見ていた。何だか珍しいものを見るような、少し驚いた表情で。
「パム。彼女は? 君の友達?」
こんな声をしていたのか。外見よりも大人びた、私の心臓に直接触れてくるような声。
駄目です。
彼の姿を見ている間中、マレンの声が絶え間なく叫んでいた。
レアル。レアル。何を考えているのですか。それは、あなたが殺さなければならない獣ですよ。
頭が痛い。頭蓋骨の中身を搾り取られているようだ。パムが何か言ったけれど、私は応えずに逃げた。立っているのも苦痛だった。
私は呟く。
ねえ、マレン。殺さなければならないから、何だというのですか。私が彼を殺そうとすれば、彼は私を殺すでしょう。この他人の意のままに操られる亡骸を。
それでいい。彼が壊してくれるなら、それ以上の歓びはない。
マレンの声は執拗に叫び続けたが、私はもう応えなかった。
* * *
協力者は何度か機会を作ったが、私は子供たちを手にかけなかった。殺してしまったら、もう元のような顔でパムに会えない気がした。
今更、何だ。どうせ人殺しではないか。マレンにも、何をしたか忘れたのか。
成果を上げないまま試験場の傍の宿泊所に戻ると、憂鬱な思いに苛まれた。頭痛が止まなかった。誰も殺せないことを、私は痛みのせいにした。薬をもらったが、頭の中を掻き回される感覚は消えなかった。
ふと気づくと試験場の中に来ていることがあった。いつの間に着替えて移動したのか、思い出せない。
いや、思い出せる。自分の手足が動いて壁を上ったのを覚えている。けれどまるで他人事のようだ。自分の意志でそれをしたという感覚がない。
当たり前か。私はもう死んでいるのだから。自分の意志など、既にないのだった。
それよりも、時折見るパムとイサの姿が私を苦しめた。
イサはいつも大切そうにパムの躰を抱きかかえて運ぶ。
当然だ。パムの躰では、自分で《城》の中を動き回るのは無理なのだから。
羨むようなことではないと思ったが、イサの腕に幸せそうに躰を預けている彼女を見ると、息が止まりそうな思いが胸を灼いた。
私も彼女のように綺麗ならよかった。彼女のように弱く、優しく、正しかったら。
そうしたら、あの場所にいられたのは、私だったかもしれないのに。
愚かしいとすぐに打ち消した。私は既に汚れていた。取り返しもつかないほど汚かった。そうでなかったとしても、パムのように人を愛することなどできなかっただろう。私は元から狭量で、臆病で、猜疑心の強い小娘だ。誰かの隣に立てるような人間ではない。
こんな私を受け容れてくれるパムを妬むなど、私はどれだけ汚いのか。
頭痛がますます酷くなった。痛みが止まらず、意識を失うことが増えた。
自分の躰が自分のものでないような気がする。そう思った直後に、そのとおりだと自分で嗤う。この躰は私のものではない。私は、もういない。
私の定義は──もう、どうでもいい。
指先に生温かい血の感触が伝わって、我に返った。
ここはどこだ。試験場か。時刻は夜。まだ日が暮れたばかりなのか、室内はまだ微かに明るい。内装に見覚えがあった。かつて客室だった部屋のひとつだ。
目の前に死体があった。ずたずたに引き裂かれた少女の躰。手足が細長く強靱そうで、猿の一種のようだった。私の腕と脚も、少女の手足の形状を銀で模したものに変異していた。
《ゆりかご》が形を覚えている。
私が、殺したのか。
そうだ。思い出せる。協力者が少女をここへ連れてきた。何と言って騙したのか、私は知らない。
それで──殺したのだった。ためらいもなく。
手が動いた。指の刃で一撃。突き刺して絶命させ、それから引き裂いた。《ゆりかご》が形状を覚えるまで。
頭が痛い。手が震えた。明日、パムに会うだろうか。そうしたら何と言えばいいのか。
笑い声がした。マレンの声だったが、自分の声のようにも聞こえた。
そうだ、マレンは声を上げて笑ったりなどしなかった。いつも穏やかに微笑んでいた。
私だ。殺したのは。
協力者が来て、血で汚れたカーテンを外し始めた。他の部屋から取ってきたものに替えて、窓の外から惨状が分からないようにするのだという。扉にも鍵をかける。死体の発見を遅らせ、時間を稼ぎ、その間にあと四、五人の形を覚える。
説明を私は他人事のように聞いた。着替えろと促され、立ち上がり血で汚れた服を脱いだ。着替えは自分で持ってきていたようだった。部屋の隅に、防水素材の袋に入れて置いてあった。
頭痛が治まらない。
マレンが笑う。これだ、と笑う。
これでいい。新しい《定義》。増殖。成長。
これこそが、《ゆりかご》から孵るもの。
これが私の躰──と、マレンの声が囁いた。
うなじの傷跡に気づいたのは、宿泊所に戻って汚れた躰を洗っていたときだった。髪の生え際から肩の方へ、火傷の跡のような赤錆色の傷が這い下りている。
いつの間に?
考えようとしたが、頭痛がひどくなり、諦めた。
考えても思い出せないかもしれない。自分でも知らない間にどこかへ行って、何かをしていることがあるのだから。きっとその間に怪我をしたのだろう。
そんなことよりも、眠ろう。
眠っている間だけは、何の不安もなく、いとおしい人たちに会える。




