殺してください
読んでいただき、ありがとうございます。
明日11/9も更新します。
今回、きわめてグロテスクな場面があり、嫌悪感を催す恐れがあります。ご注意ください。
苦手な方は飛ばして読んでいただけるように、次回の前書きに今回のあらすじを記載します。
照明の落ちた暗い廊下を、ユーゼルに連れられて進む。
薬品の匂いが強い。普段の検査ではこんなに奥の部屋までは来ない。どこに行こうとしているのだろう。
ユーゼル、と沈黙に耐えきれなくなって私は呼んだ。
「何をするの。訓練中なのに、戻ってきていいの?」
訓練が終わるまで、私は試験場の近くの宿泊所に滞在する予定だった。ユーゼルはそこから私を連れ出し、今では私の家のように感じられる研究棟に戻った。
深夜のことで、棟内にはごく僅かの人しかいない。当直者や守衛の目をくぐり抜け、私の知らない部屋に向かうようだった。
私の問いかけにユーゼルは答えなかった。強ばった表情で、足早に歩いていく。
こんなことは初めてだ。不安が胸に兆した。
何か、とてもいやなことが起ころうとしている。
ユーゼルは私に殺菌室を通らせ、白い外套のようなものを着せた。自分も躰を消毒して着替え、私を促して、いちばん奥の扉に進ませた。
扉を開けると、マレンが振り向いた。
私はほっとした。何をするのか分からないが、マレンが行うなら、少なくとも私の躰を傷つけることはないだろう。
一か月ぶりに会うマレンはますます面変わりしていた。かろうじて彼女だとは分かるが、頬がこけ、喉に深い皺が刻まれ、私に差し伸べた手の甲には静脈がのたうっていた。医学に素人の私にも、彼女を覆う死の影がはっきりと分かった。
マレンは病んでいる。たぶん、今回の訓練が終わるまで生きてはいられない。
レアル。
別人のように掠れた声でマレンは私の名前を呼んだ。
戻ってきてくれてよかった。訓練中だというのに、邪魔をしてすみません。
ひんやりとして乾ききった手が私の手を取り、椅子のような形をした器具に導いた。
いつもの来客用の椅子に座らせるように、マレンは私を器具に腰掛けさせ、自分は傍らに立った。
時間が尽きる前に、仕上げをしなければならないと思っていました。
震える老婆のような手が私の額をそっと押し、器具の背もたれに当たる部分に躰を預けさせた。ユーゼルが錠剤と水、注射器を準備した。
「薬を飲んで。マレンがきみに最後の書き込みをする」
ようやく口を開いて、彼はそう言った。マレンを呼び捨てにしたことに気づき、私はまたいやな予感を覚えた。
何かが変わっていく。押しとどめようもなく。それまで私たちの間にあった定義が崩れ落ち、狂っているとしか思えない形が生まれ落ちる。
私たちは書き変えられ、二度と元には戻れない。私たちは歪む。新しい姿へと。
私はユーゼルが差し出した薬を飲んだ。マレンが私にファヴリルの書き込みをするというなら、眠らなければならない。これは睡眠導入剤だ。たぶん。
マレンが離れた台に横になるのが見えた。ユーゼルが手伝う。
立っているのがつらいのだろうか。いや、でも、まるで熟睡する準備のようだ。仰向けになり、痩せ衰えた胸の上で両手を組んだ。
以前のように私の傍に来て書き込みをするのではないのか。
マレン──と呼ぼうとして、声がうまく出ないことに気づいた。薬のせいだろうか。飲んでからまだ数分も経っていないのに。
意識ははっきりしている。ただ、躰を動かすのが難しい。努力して力を込めなければ、手も持ち上がらない。
「起き上がっちゃ駄目だ」
ユーゼルがこちらに来た。肩を押されて、私は器具の上に躰を戻す。ユーゼルの手はそのまま腕を滑り降り、私の右手首にベルトを巻いた。手が、器具の本体に押しつけられる。
拘束された。
反射的に抵抗しようとした私の左手をユーゼルが取り、同じように縛った。続いて、頭も。鼻と口の間をベルトに押さえられ、背もたれに押しつけられた。
舌が動かず、声が出ない。ユーゼル。叫ぼうとすると喉が痙攣し、息だけが漏れた。
彼はマレンの傍に戻っていった。後ろ姿しか見えない。横たわったマレンの表情も。
「……本当に、いいんですか」
とても低い、低い声でユーゼルが尋ねる。
ええ、とマレンが応えた。
献体の手続きは済ませてあります。あなたはただ、急死した私の遺体を受け取り、私の遺志に従って処理した。そういうことです。
「でも……貴女は……」
ユーゼル。
遺言状は完全に有効です。完成を待つ私の研究、僅かばかりの遺産──全て、あなたのものです。どうぞ取ってください。私の半分を、受け継いでください。
大丈夫。私は死ぬのではありません。……必ず、また会えます。
はい、とユーゼルが応えた。注射器を取る手がひどく震えているのが見えた。
「マレン。……おやすみなさい……」
彼女が何と応えたかは、聞き取れなかった。
ユーゼルは彼女に薬を打った。しばらく待ち、手首をとって脈を測り、懐中電灯で目に光を当てた。何度も何度も同じことを繰り返して、最後に、壁の時計を見て時刻を確認した。
私は、震えていた。
ユーゼルはマレンに何をしたのか。何の薬を投与したのか。マレンはなぜ動かないのか。呼吸の音さえ、聞こえないのか。
「──十分以内」
低いユーゼルの呟きには、狂気が籠もっていた。
何種類かの刃物を乗せた移動式の箱を彼は引き寄せた。すぐに、ぞっ、ぞっ、と音がし始めた。マレンの髪を剥ぎ取っている。それが済むと天井から電動鋸を引き下ろした。刃を確認。スイッチを入れる。凄まじい音を立てて円い刃が回転した。ユーゼルはそれを、マレンの額に当てた。
切り開く。
血が台の上を滑り落ち、床に溜まる。ユーゼルは切断されたマレンの頭の一部を傍にどけ、細い銀色の刃物を手にした。
聞こえるか聞こえないかの、微かな音。ごく柔らかいものを慎重に切り取り、すくい取る。
ユーゼルが振り返った。手にした金属の皿に何かを乗せていた。灰色がかった、白い、血にまみれたもの。
……いやだ。
心臓が止まりそうだった。瞬きがうまくできない。口の中が乾いて、呼吸を妨げる。
ユーゼルが近づいてくる。マレンの脳を皿に乗せて。
いやだ。いやだ。
躰が動かない。器具のベルトは巨大な手のように私を拘束している。
声が、出ない。
ユーゼルは私の口を開かせ、金属の器具を上下の歯の間に咬ませて固定した。
「彼女の願いを叶えてくれ」
囁く。マレンの欠片を金属の匙ですくい上げながら。
白い照明の光とのしかかる影が、絡み合って顔の上に落ちてくる。
「彼女を覚えろ、《ゆりかご》。おまえは彼女が分かるはずだ。おまえを創ったのは彼女なんだから。彼女はおまえの、母親なんだから」
――その躰に、彼女を蘇らせてくれ。
ぬるりとしたものが口の中に押し込まれた。
血の味を感じた。それ以外の何かも。
吐き出せ、今すぐに吐き出せ。頭の中で狂ったように叫んでいるのに、唇も舌も動かない。
いやだ。──いやだ。
やめて。入れないで。
助けて。
口いっぱいにマレンを押し込まれて、私は泣きながらユーゼルを見上げる。
首にひんやりとしたものが当たった。電極だった。ユーゼルが視界の外のスイッチを押すと、鞭の一撃のような痺れが喉に走った。
──ごくり。
喉の筋肉が勝手に動いた。飲み込んだ。
私でないものが、私の中に侵入する。喉の奥を滑り落ち、深いところへ降りていく。
もう二度となかったことにはできないほど、深いところへ。
私は気を失った。
* * *
私は誰か。私とは何か。私の定義は、何か。
世界は再び壊れた。今度こそ、完全に。
既に私は存在しなかった。死んだのだ。もう、どこにもいない。
この躰は、誰のものか。
少なくとも私のものではない。
ユーゼルには二度と会うことがなかった。
私はものを喰べなくなった。意識があると自分の喉を裂き、胸から腹に右手の刃を突き立てようとするので、薬を投与され手足を拘束された。腕に突き刺された針から栄養が流れ込んだ。拒絶しようとしたが、できなかった。
昼も夜も分からなかった。断続的に眠り、目覚めて悲鳴を上げ、叫び、叫び続け、躰の中にあるものを残らず吐き出そうとして暴れた。
誰かに取り押さえられたが、誰かは分からなかった。マレンの顔に見えた。私は叫び、自分の舌を噛みちぎろうとし、獣のようにくつわを咬まされた。
私は衰弱した。決して死なないように管理されていたが、戦うことも、立つこともできなかった。やがて暴れる力もなくなり、ひたすら眠り続けるようになった。
色々な夢を見た。母の夢。マレンの夢。それから、黒い翼の少年の夢。
彼は片手に長い銀の剣を携えていて、私を刺し殺した。私は胸を刺し貫かれ、虫のように壁に留められて、血に汚れた両手を彼に差し伸べた。
……ありがとう。ずっと、こうしてほしかった。
目が覚めなければよかった。
ある日、意識が戻ると、拘束された私の枕元に見覚えのない男が立っていた。男は私に、中断した訓練を再開し、元のとおりに生きろと言った。
あれは事故だ。忘れろ。思い出すな。
私が首を横に振ると、その男は手に持っていたガラス瓶を私に見せた。両手に収まるくらいの大きさの茶色い瓶の中に、白い塊が浮かんでいた。
「忘れられないというのなら」
男は言った。
「もう一度味わってみるか。幸い、『彼女』はまだ残っている」
悲鳴が聞こえた。私の声だった。
私は喉がちぎれそうなほど叫んでいた。残った力の全てをかき集めて、躰が拘束に抗った。
いやだ。それだけは。それだけは。
封じられた口が漏らしたのはくぐもった呻き声で、言葉は出せなかったが、男は私の表情を読んだ。汚らわしそうに顔をしかめながらも、満足げだった。
結構。君は期待に応えてくれると確信した。念のため言っておくが、もう二度と、自分の命を絶とうとなどしないように。君の躰は簡単には死なない。もし死に損ねたら、どうなるか。
分かるね。
よい成績を上げろと言い残して、男は立ち去った。
涙が流れた。まだ残っていたことに驚いた。もう絞り尽くしたと思ったのに。
──この躰は、誰のものか。
私は誰か。私の定義は何か。
私は、何なのか。
もういない、と思った。私はもういない。私という人間は存在しない。ここにあるのは亡骸だ。中身のない抜け殻。誰かが勝手に使い、捨てるだけのこと。
死んでしまったのだ。大丈夫。もうこれ以上、悪いことは起こらない。
運が良ければ、いつか、優しい誰かが、きちんと葬ってくれるだろう。




