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鋼の翼はゆりかごに孵る  作者: 桐生瑛
断章 レアル
35/51

殺してください

 読んでいただき、ありがとうございます。

 明日11/9も更新します。


 今回、きわめてグロテスクな場面があり、嫌悪感を催す恐れがあります。ご注意ください。

 苦手な方は飛ばして読んでいただけるように、次回の前書きに今回のあらすじを記載します。


 

 照明の落ちた暗い廊下を、ユーゼルに連れられて進む。

 薬品の匂いが強い。普段の検査ではこんなに奥の部屋までは来ない。どこに行こうとしているのだろう。

 ユーゼル、と沈黙に耐えきれなくなって私は呼んだ。


「何をするの。訓練中なのに、戻ってきていいの?」


 訓練が終わるまで、私は試験場の近くの宿泊所に滞在する予定だった。ユーゼルはそこから私を連れ出し、今では私の家のように感じられる研究棟に戻った。

 深夜のことで、棟内にはごく僅かの人しかいない。当直者や守衛の目をくぐり抜け、私の知らない部屋に向かうようだった。

 私の問いかけにユーゼルは答えなかった。強ばった表情で、足早に歩いていく。

 こんなことは初めてだ。不安が胸に兆した。

 何か、とてもいやなことが起ころうとしている。


 ユーゼルは私に殺菌室を通らせ、白い外套のようなものを着せた。自分も躰を消毒して着替え、私を促して、いちばん奥の扉に進ませた。

 扉を開けると、マレンが振り向いた。

 私はほっとした。何をするのか分からないが、マレンが行うなら、少なくとも私の躰を傷つけることはないだろう。

 一か月ぶりに会うマレンはますます面変わりしていた。かろうじて彼女だとは分かるが、頬がこけ、喉に深い皺が刻まれ、私に差し伸べた手の甲には静脈がのたうっていた。医学に素人の私にも、彼女を覆う死の影がはっきりと分かった。

 マレンは病んでいる。たぶん、今回の訓練が終わるまで生きてはいられない。


 レアル。


 別人のように掠れた声でマレンは私の名前を呼んだ。


 戻ってきてくれてよかった。訓練中だというのに、邪魔をしてすみません。


 ひんやりとして乾ききった手が私の手を取り、椅子のような形をした器具に導いた。

 いつもの来客用の椅子に座らせるように、マレンは私を器具に腰掛けさせ、自分は傍らに立った。


 時間が尽きる前に、仕上げをしなければならないと思っていました。


 震える老婆のような手が私の額をそっと押し、器具の背もたれに当たる部分に躰を預けさせた。ユーゼルが錠剤と水、注射器を準備した。


「薬を飲んで。マレンがきみに最後の()()()()をする」


 ようやく口を開いて、彼はそう言った。マレンを呼び捨てにしたことに気づき、私はまたいやな予感を覚えた。


 何かが変わっていく。押しとどめようもなく。それまで私たちの間にあった定義が崩れ落ち、狂っているとしか思えない形が生まれ落ちる。

 私たちは書き変えられ、二度と元には戻れない。私たちは歪む。新しい姿へと。


 私はユーゼルが差し出した薬を飲んだ。マレンが私にファヴリルの()()()()をするというなら、眠らなければならない。これは睡眠導入剤だ。たぶん。

 マレンが離れた台に横になるのが見えた。ユーゼルが手伝う。

 立っているのがつらいのだろうか。いや、でも、まるで熟睡する準備のようだ。仰向けになり、痩せ衰えた胸の上で両手を組んだ。

 以前のように私の傍に来て()()()()をするのではないのか。

 マレン──と呼ぼうとして、声がうまく出ないことに気づいた。薬のせいだろうか。飲んでからまだ数分も経っていないのに。

 意識ははっきりしている。ただ、躰を動かすのが難しい。努力して力を込めなければ、手も持ち上がらない。


「起き上がっちゃ駄目だ」


 ユーゼルがこちらに来た。肩を押されて、私は器具の上に躰を戻す。ユーゼルの手はそのまま腕を滑り降り、私の右手首にベルトを巻いた。手が、器具の本体に押しつけられる。

 拘束された。

 反射的に抵抗しようとした私の左手をユーゼルが取り、同じように縛った。続いて、頭も。鼻と口の間をベルトに押さえられ、背もたれに押しつけられた。

 舌が動かず、声が出ない。ユーゼル。叫ぼうとすると喉が痙攣し、息だけが漏れた。

 彼はマレンの傍に戻っていった。後ろ姿しか見えない。横たわったマレンの表情も。


「……本当に、いいんですか」


 とても低い、低い声でユーゼルが尋ねる。

 ええ、とマレンが応えた。


 献体の手続きは済ませてあります。あなたはただ、急死した私の遺体を受け取り、私の遺志に従って処理した。そういうことです。


「でも……貴女は……」


 ユーゼル。

 遺言状は完全に有効です。完成を待つ私の研究、僅かばかりの遺産──全て、あなたのものです。どうぞ取ってください。私の半分を、受け継いでください。

 大丈夫。私は死ぬのではありません。……必ず、また会えます。


 はい、とユーゼルが応えた。注射器を取る手がひどく震えているのが見えた。


「マレン。……おやすみなさい……」


 彼女が何と応えたかは、聞き取れなかった。





 ユーゼルは彼女に薬を打った。しばらく待ち、手首をとって脈を測り、懐中電灯で目に光を当てた。何度も何度も同じことを繰り返して、最後に、壁の時計を見て時刻を確認した。

 私は、震えていた。

 ユーゼルはマレンに何をしたのか。何の薬を投与したのか。マレンはなぜ動かないのか。呼吸の音さえ、聞こえないのか。


「──十分以内」


 低いユーゼルの呟きには、狂気が籠もっていた。

 何種類かの刃物を乗せた移動式の箱を彼は引き寄せた。すぐに、ぞっ、ぞっ、と音がし始めた。マレンの髪を剥ぎ取っている。それが済むと天井から電動鋸を引き下ろした。刃を確認。スイッチを入れる。凄まじい音を立てて円い刃が回転した。ユーゼルはそれを、マレンの額に当てた。

 切り開く。

 血が台の上を滑り落ち、床に溜まる。ユーゼルは切断されたマレンの頭の一部を傍にどけ、細い銀色の刃物を手にした。

 聞こえるか聞こえないかの、微かな音。ごく柔らかいものを慎重に切り取り、すくい取る。

 ユーゼルが振り返った。手にした金属の皿に何かを乗せていた。灰色がかった、白い、血にまみれたもの。

 ……いやだ。

 心臓が止まりそうだった。瞬きがうまくできない。口の中が乾いて、呼吸を妨げる。

 ユーゼルが近づいてくる。マレンの脳を皿に乗せて。

 いやだ。いやだ。

 躰が動かない。器具のベルトは巨大な手のように私を拘束している。

 声が、出ない。

 ユーゼルは私の口を開かせ、金属の器具を上下の歯の間に咬ませて固定した。


「彼女の願いを叶えてくれ」


 囁く。マレンの欠片を金属の匙ですくい上げながら。

 白い照明の光とのしかかる影が、絡み合って顔の上に落ちてくる。


「彼女を覚えろ、《ゆりかご》。おまえは彼女が分かるはずだ。おまえを創ったのは彼女なんだから。彼女はおまえの、母親なんだから」


 ――その躰に、彼女を蘇らせてくれ。


 ぬるりとしたものが口の中に押し込まれた。


 血の味を感じた。それ以外の何かも。

 吐き出せ、今すぐに吐き出せ。頭の中で狂ったように叫んでいるのに、唇も舌も動かない。

 いやだ。──いやだ。

 やめて。入れないで。

 助けて。

 口いっぱいにマレンを押し込まれて、私は泣きながらユーゼルを見上げる。

 首にひんやりとしたものが当たった。電極だった。ユーゼルが視界の外のスイッチを押すと、鞭の一撃のような痺れが喉に走った。


 ──ごくり。


 喉の筋肉が勝手に動いた。飲み込んだ。


 私でないものが、私の中に侵入する。喉の奥を滑り落ち、深いところへ降りていく。

 もう二度となかったことにはできないほど、深いところへ。

 私は気を失った。


   * * *


 私は誰か。私とは何か。私の定義は、何か。

 世界は再び壊れた。今度こそ、完全に。

 既に私は存在しなかった。死んだのだ。もう、どこにもいない。

 この躰は、誰のものか。

 少なくとも私のものではない。


 ユーゼルには二度と会うことがなかった。

 私はものを喰べなくなった。意識があると自分の喉を裂き、胸から腹に右手の刃を突き立てようとするので、薬を投与され手足を拘束された。腕に突き刺された針から栄養が流れ込んだ。拒絶しようとしたが、できなかった。

 昼も夜も分からなかった。断続的に眠り、目覚めて悲鳴を上げ、叫び、叫び続け、躰の中にあるものを残らず吐き出そうとして暴れた。

 誰かに取り押さえられたが、誰かは分からなかった。マレンの顔に見えた。私は叫び、自分の舌を噛みちぎろうとし、獣のようにくつわを咬まされた。

 私は衰弱した。決して死なないように管理されていたが、戦うことも、立つこともできなかった。やがて暴れる力もなくなり、ひたすら眠り続けるようになった。


 色々な夢を見た。母の夢。マレンの夢。それから、黒い翼の少年の夢。

 彼は片手に長い銀の剣を携えていて、私を刺し殺した。私は胸を刺し貫かれ、虫のように壁に留められて、血に汚れた両手を彼に差し伸べた。


 ……ありがとう。ずっと、こうしてほしかった。


 目が覚めなければよかった。

 ある日、意識が戻ると、拘束された私の枕元に見覚えのない男が立っていた。男は私に、中断した訓練を再開し、元のとおりに生きろと言った。


 あれは事故だ。忘れろ。思い出すな。


 私が首を横に振ると、その男は手に持っていたガラス瓶を私に見せた。両手に収まるくらいの大きさの茶色い瓶の中に、白い塊が浮かんでいた。


「忘れられないというのなら」


 男は言った。


「もう一度味わってみるか。幸い、『彼女』はまだ残っている」


 悲鳴が聞こえた。私の声だった。

 私は喉がちぎれそうなほど叫んでいた。残った力の全てをかき集めて、躰が拘束に抗った。

 いやだ。それだけは。それだけは。

 封じられた口が漏らしたのはくぐもった呻き声で、言葉は出せなかったが、男は私の表情を読んだ。汚らわしそうに顔をしかめながらも、満足げだった。


 結構。君は期待に応えてくれると確信した。念のため言っておくが、もう二度と、自分の命を絶とうとなどしないように。君の躰は簡単には死なない。もし死に損ねたら、どうなるか。

 分かるね。


よい成績を上げろと言い残して、男は立ち去った。

 涙が流れた。まだ残っていたことに驚いた。もう絞り尽くしたと思ったのに。


 ──この躰は、誰のものか。


 私は誰か。私の定義は何か。

 私は、何なのか。

 もういない、と思った。私はもういない。私という人間は存在しない。ここにあるのは亡骸だ。中身のない抜け殻。誰かが勝手に使い、捨てるだけのこと。

 死んでしまったのだ。大丈夫。もうこれ以上、悪いことは起こらない。

 運が良ければ、いつか、優しい誰かが、きちんと葬ってくれるだろう。


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