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鋼の翼はゆりかごに孵る  作者: 桐生瑛
断章 レアル
32/51

売られた娘

 読んでいただき、ありがとうございます。

 次回更新は11/4予定です。

 血の色は私に母を思い出させる。

 母は短気な女だった。父がいた頃からそうだった。いなくなってからはもっと酷くなった。

 父がどこへ行ったのか私は知らない。他に女でもいたのだろう。でなければ、母があれほど荒れたはずがないから。

 自分で壁に叩きつけた皿の破片を片づけていて、母は指を切った。赤く濡れた指で破片をつかんでいる母は、怖かった。けれど私は逃げられなかった。母は泣いていた。慰めることが私の仕事だった。

 食べるもののない日がよくあった。生きるのに必要なものは何もかも値上がりしていて、それは戦争のせいであったり、獣が耕作地を襲うせいであったり、作物や家畜が育たず病むせいであったりしたが、何にしても街中の古ぼけた本屋の店頭で見る新聞紙の話に過ぎず、私が自分の目でそれを確かめたわけではなかった。

 私はただ、母を手伝っていた。家の中のこと全てと日替わりの仕事。学校に行けない十四歳の小娘にできる仕事はあまりない。躰を売るのがいちばんいいと思ったが、それは母が許さなかった。

 馬鹿なことはやめなさい。そんなことして、変な病気になっても子供ができても、助けてあげるお金なんかないよ。

 母が私のためにそう言ってくれたのだと思えたら、どんなによかっただろう。



 十五歳の誕生日、母は私に服を買った。

 嬉しくはなかった。そのとき着ていた服がまだ着られたからだ。なぜ要らないものを買ったのか分からなかったし、戸惑いを隠して喜んでいる振りをしなければならないのが苦痛だった。

 母は珍しく金を使ってどこかへ手紙を出し、数日して、家に客が来た。

 母は私に買ったばかりの服を着せ、客に引き合わせた。若い男と、母と同じくらいの年齢の女。薄汚れて散らかった家に、客の身なりは不釣り合いだった。派手ではないが、清潔で手触りのよさそうな上下揃いの服。私の新しい服などよりよっぽど見栄えがいい。

 二人は私に、大人にするようなきちんとした挨拶をして、それから説明を始めた。

 長い話で、言葉遣いも難しく、全部は理解できなかった。私に分かったのは、客が役人であること、新しい薬か何かの効果を確かめるために数年間協力してくれる人間を探していること、私がそれに応募したことになっていること。

 説明の途中で私は母の顔を見た。化粧をした母は熱心に頷きながら話を聴いていたが、私以上に理解しているかは怪しかった。

 本当に協力されますか、と訝しげな調子で女が私に言った。私が答える前に母が口を開いた。

 ――それはもう、世の中の役に立つことですから、喜んで。ねえ。

 最後の「ねえ」は私に向けたものだった。頷けという意味だ。

 私は頷いた。

 それまであまり喋らなかった若い男が進み出て、いそいそと書類を広げた。では、ここにお名前。日付。お母さんはこちらにお願いします。謝礼金の支払先、こちらでいいですか。金額確認して下さい。はい。ありがとうございます。

 売られたのだ、と気づいたのは、翌日、列車で一時間以上かかる東の街に連れて行かれてからだった。

 要するに私は無知な子供だった。



 家に来た客のうち、女の方には二度と会うことはなかったが、若い男の方は白い建物の玄関で私を出迎えた。今度は医者らしい服を着ていた。


「ユーゼルだよ。よろしく、レアル。ようこそ《編集機関》へ!」


 妙に親しげに男は名乗り、建物を案内した。表側の棟は病院らしい。連れて行かれたのは、渡り廊下でつながった裏の建物の方だった。

 研究棟、とユーゼルは言った。

 さあ、着いた。今日からここがきみの部屋。荷物はここに置いて。明日から早速、始めるよ。大丈夫、最初は何もしなくていいから。検査だよ。適性検査。

 それから一か月ほどは、ユーゼルの言葉どおり検査だけで過ぎた。毎日決まった時間に起き、呼ばれて検査室へ行き、頭や躰に機械をつけられて何か測られる。

 話をさせられることもあった。幼い頃から今までに経験したことを、何度も何度も話した。記憶にあるありとあらゆることを話し尽くした。相手はユーゼルのこともあれば、馴染みのない他の職員のこともあった。

 ユーゼルはなれなれしくて気が許せなかったが、検査の合間に勉強を教えてくれたのだけはよかった。私があまりにも何も知らないので、見るに見かねたらしい。


「きみねえ、()()でももうちょっと賢いよ」


 妹のお下がりだとかいう教科書を使って私に即席の授業をしながら、ユーゼルは文句を言った。


「天然──?」

「天然の『獣』。《悪霊(ファヴリル)》憑きの患者の子。ここ、いっぱいいるからね」


 当然のことのようにユーゼルが言うので、私は怯んだ。

 獣と呼ばれる人々なら、街で見かける。片足が昆虫の脚だったり、背中にびっしりと木の葉を生やしていたりする人間。私や母よりももっと汚い身なりをして、家もなく、道ばたにうずくまっているか、ごみを漁っているような人たちだ。


「いや、そういう型よりは何ていうか、見栄えがいいけどさ。役に立つし……」


 ユーゼルが言う意味が、そのときの私にはまだ、分からなかった。




 検査の結果は私には知らされることがなかった。聞いたところで、理解もできなかっただろう。

 だが、おそらくその一か月の間に、私の運命は決まった。調べ上げられた数字や言葉の中の何かが、私を「彼女」のところへ連れて行った。

 彼女の娘となるために。

 彼女が手ずから咲かせる花、育て上げる犬、鍛える剣となるために。

 彼女の獣。


 よく晴れた春の日。

 私は、マレンに会った。



   * * *



 マレンは私の母よりは若く、姉と思うには年かさの、落ち着いた雰囲気の女性だった。彼女の部屋には大きな机と壁一杯の棚があり、書物と箱とガラスや銀の器具が並べられていた。

 マレンはいつも私に来客用の椅子を勧め、自分は向かいの質素な椅子に座るか、椅子の上が書物で塞がれているときは、立って話をした。私が落ち着かないと言うと、微笑んで首を横に振った。

 座っていなさい。あなたは私の娘なのだから。

 彼女は研究棟に勤務する中でも上位の職員で、管理官と呼ばれていた。マレン・デルタ上級管理官。ユーゼルが言うには、「所長と副所長の次に偉い」のだそうだ。

 ユーゼルは彼女に心酔していた。普段はへらへらしているくせに、彼女の前にいるときだけは、自然と姿勢がよくなるようだった。


 私は、マレンが怖かった。


 彼女はいつも優しく、穏やかで、礼儀正しかった。私に暴力を振るったり、酷い言葉を投げつけたりしたことは一度もなかった。その意味では母よりもずっと信頼できる。マレンは私を大切にしていた.

 にもかかわらず、私は彼女が恐ろしかった。

 一言でも間違った答えを返したら、優しい微笑みがぱくりと割れて剥がれ落ちて、内側から現れたものが私を引き裂いてしまう気がした。私は緊張し、間違わないように気をつけた。彼女の一言一言を注意して聴き、話すときは考えて言葉を選び、彼女の意志に添うように努めた。


 初めて会った日、マレンは私に小さな透明な板を示した。曇っているように見えたが、違った。板の表面には、細かい文字のようなものがびっしりと刻まれていた。


《ゆりかご》です。


 マレンは私の片手に板を握らせ、その名前を教えた。

 あなたは、このファヴリルに適している。生きている間にあなたほどの適性のある子に出会えて、私は幸運でした。


 ──悪霊(ファヴリル)


 私がたじろいだのを見て、マレンは傍らに控えていたユーゼルに目をやった。

 穏やかなまなざしだったけれど、ユーゼルは慌てた。


「いや、その。偏見があるじゃないですか、やっぱり。ファヴリルって言っちゃうと。《悪霊》憑きって言うのも政治的に正しくないし。あ、でも、変異者になるって説明はちゃんと。書類渡して署名もらいましたから」


 ユーゼル、とマレンは呼んだ。お喋りが止んだ。

 ため息をついて、マレンは私の方を向いた。私の椅子の傍に来て、床に膝をつき、私の手を取り、私の眸を見て言った。


「あなたに協力してもらう試験は、あなたの躰にこの《ゆりかご》という種類のファヴリルを入れるものです。あなたの躰の《定義》を変え、新しい形にするのです」

「……私は《悪霊》憑きになるんですか」

「いいえ。あなたは病気になるのではありません。ただ、躰の形や機能が変わるだけです」

「どんなふうに?」

「それはまだ分かりません。《ゆりかご》は、最大で六十三の形を覚えるファヴリルです。あなたは必要に応じて、必要な形に自分の躰を変化させることになるでしょう。どんな形を覚えるかは、あなた次第です」

「元の躰には、もう戻らないんですか?」

「いいえ。《ゆりかご》は別のファヴリルと組み合わせて使います。そのファヴリルは、必要がないときには、あなたの躰を今の形に戻します。必要なとき以外は、今の姿のままでいられます」


 私は黙った。納得したわけではなかったが、何をどう尋ねればいいのか分からなかった。

 マレンは私の手を優しく撫でて、もうひとつ大切なことがあります、と言った。


「《ゆりかご》を接種したら、あなたはもう二度と元の生活には戻れません。とても貴重で、慎重な取扱いを要するファヴリルなのです」


 私は思わずユーゼルの顔を見た。数年間って言ったじゃない──ユーゼルは目をそらした。


「いや、普通は数年で経過見て終わるんだけど。でも、ほら、特殊な適性が発見された場合には期間を延長することがありますって、ちゃんと書類に。読んだでしょ。ね?」

「ユーゼル」


 もう一度マレンが呼ぶ。今度は先程よりも厳しい声音で。


「説明は誤解のないようにしなさいと、言いませんでしたか」

「……申し訳ありません」


 ユーゼルが深々と頭を下げる。マレンは部下を無視して私に目を向けた。


「この分では、兵役のことも説明していないのでしょうね」

「兵役」

「いくつかの種類のファヴリルを接種した場合には、数年の間、戦場で働いてもらうことになるのです」


《ゆりかご》もそのひとつだとマレンは言った。

 私はうろたえた。戦場? そんなものは、新聞紙の見出しの話だ。銃なんか持ったことがない。第一、体力に自信がある方ではない。やせっぽちの小娘だ。兵士なんかになって、何ができるというのだろう。

 マレンは私の手を握って、頭を下げた。


「ごめんなさい。事前にもっと説明をするべきでしたね。あなたが不安になるのも、無理はありません」

「……私は……」


 お役に立てないと思います、という言葉が喉元まで出かかった。マレンに手を取られていなければ、その手から彼女の期待がひしひしと伝わってこなければ、口にしていただろう。

 どうか許して下さい、とマレンは私の手を強く握った。


「でも、約束します。あなたは兵役についても、決して死ぬことはない。私が、あなたを、獣どもには決して殺すことのできない変異者にしてみせます。今まで他の子たちにしてきたように。いえ、それ以上に」


 私の娘。マレンはそう言った。

 母が娘を守るように、私はあなたに全てを与える。誰にも傷つけられないように。誰も、あなたを殺せないように。

 私は口ごもった。何と答えればいいのか分からなかった。

 母は娘を食いつぶすものです──そんなこと、言えるわけがない。

 やっと思いついた言葉は、我ながらずいぶん情けなかった。


「あの……」

「どうぞ。何ですか?」

「もし、私が断ったら……ここでお世話になった間の食費だとか、そういうお金は……どうなりますか?」


 マレンは瞬きをした。


「それは、契約の中途解除になりますから、あなたのお母様に請求することになると思いますが……。なぜですか?」


 心が決まった。

 もう一瞬たりとも迷わなかった。一か月分の食費の請求書と一緒に帰ったら、戦争なんかより先に、母が私を殺すだろう。

 元の生活が何だ。どうせ、帰りたい場所などないではないか。

 私は頷き、マレンの手をそっと握り返した。


「やります。どうぞ、私に《ゆりかご》を接種させて下さい」



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