喪失
読んでいただき、ありがとうございます。
次回更新は10/30予定です。
15
中庭に差し込む日差しは眩しくて、僕は知らない間にこめかみに滲んでいた汗を拭った。生い茂った草木は緑に照り映えて、以前と変わらず濃い影を落としている。
《城》は静かだった。人の気配がしない。
当たり前じゃないか、と苦笑いした。だって、死んでしまったのだから。
日陰を選んで回廊を進む。日光が遮られれば、空気の肌触りは優しい。
咳き込みながらパムが口を開いた。
「イサ。……どこに行くの?」
尋ねられてようやく、僕は行き先を考える気になった。ただ食堂から離れたかったのだ。終わろうとしない戦いの、血の臭いのする爪の先から。
立ち止まり、しばらく考えた後で、「広間」と答えた。
あそこにはカナがいる。葬らなければ。魂をなくした躰でも、それはカナに違いない。放置してはおけない。
「日陰で待っているといいよ。すぐに戻るから」
パムにそう言ったのは、惨状を見せたくなかったからだ。たぶんまだ見ていないだろう。わざわざパムを連れて行く奴なんかいないだろうから。
でも、パムは首を横に振った。
「ううん……ぼくは、見なければならないと思う……」
小さな、けれど強い声だった。僕は迷ったけれど、結局頷き、友達を抱きかかえたまま歩いて行った。
広間の扉の取っ手に手をかけ、押し開ける。木の扉は、初めて《城》に来た日と同じように、金具の軋む音を立てて開いた。
広間は暗かった。一昨日の夜の騒ぎで、照明に不具合が生じたのだろう。影に包まれ、静まりかえった空間の向こう側に、壊れた大扉がある。虚ろに開かれた鉄の扉の間から、眩しい白い日差しが差し入って、横たわる亡骸を洗っていた。
大量の血は既に黒ずみ、床の上で粘つく平らな池となっていた。死んだ躰は暑さでもう傷んでいた。斜めに差し込む静寂な昼の光の中で、死肉に卵を産む羽虫が、休みなく唸っていた。
腐っていくものの耐えがたい臭い。
リグ。シア。セト。ラン。フロル。リリカ。ダウ。
真紅の記憶がまた蘇った。響き続けた悲鳴。血飛沫。──レアル。
これが、彼女のしたことだ。
喉の奥が苦しかった。叫びたかった。けれど同時に、奇妙な安らぎも覚えた。これは、《城》に来る前に、僕がしてきたことでもあったから。
レアルと僕。僕とレアル。僕たちの手は、同じように汚れている。
壊され、壊し、汚され、汚した。僕たちは墜ちた。どうすることもできずに、どこまでも。
この心臓を抉り取られるような痛みを、レアルもきっと知っていると、信じたかった。
そのとき、パムの喉が鳴った。
僕の腕から滑り落ちて、床でパムは嘔吐した。僕は急いで小柄な躰を抱き上げ、回廊に引き返した。
木の扉を閉めて悪臭を防ぎ、友達を中庭の草の上に横たえる。パムは整った貌を歪め、悲鳴のような息をつき、躰に入っているものをひとつも受け容れられなくなったように吐いた。よく体調を崩して戻してしまうパムだけれど、こんなに酷いのは、最初に会ったとき以来だ。自分の消化液にむせ、激しく咳き込んでいる。吐き出されたものに、薄赤い糸のように血が混じった。
《悪霊》憑きの躰の、背中であるはずの部分を僕はさすってやった。
「だから待ってろって言ったのに」
「……ごめん……」
喘ぎながらパムは謝った。泣いている。草の上に顔を伏せ、声を絞り出した。
「イサ……。どうして……、どうして……」
あとは言葉にならなかった。パムは泣き、躰をよじって咳き込み、また吐いた。
何が「どうして」なのか、正確には分からなかった。たぶんパムにも分からなかっただろう。
どうして皆死んだのか。
どうして死体は凄惨に腐るのか。
どうしてレアルは皆を殺したのか。
どうして、僕たちは殺し合わされるのか。
《編集機関》の意図だとか、人工の《悪霊》憑きだとか、そんなのは関係がない。そんなことを尋ねたいんじゃない。
だけど誰かが答えを与えてくれるなら、僕はそいつをこそ殺したくなるだろう。
友達の背中を撫でながら、もうひとつ僕は考えた。
カナがいない。
広間には、山猫型の《悪霊》憑きの亡骸はなかった。僕が亡骸から抜いた短剣もなくなっていた。リグの死体に突き刺したまま手を放してしまったから、まだそこにあると思っていたのだけれど。
短剣を回収したのはバールかもしれない。だいぶ気に入っていたようだから。
でも、カナは?
クロトの顔が思い浮かんだ。──おまえは薬、手え出すなよ。頼るなよ。ほんと、よくねえから。
クロトがカナを葬ってやったのだろうか。
吐くものがなくなって震えているパムを、僕はもう一度抱え上げた。厨房に行って水を飲ませよう。クロトも厨房にいるとバールが言っていた。話ができるかどうかは分からないけれど、会ってみよう。
一旦庭園に出て、裏口から行くことにした。食堂には戻りたくない。
ガラス扉を抜け、屋外を回る。
建物の陰の質素な扉が、厨房の裏口だ。開けると、埃っぽい空気が顔に触れた。
暗さに目が慣れるまで少しかかった。汚れた調理台。壁にかかった鍋と、換気扇。その下の焜炉と、棚と、流し台。
調理台と棚との間の床に、うずくまっている影があった。
両手首を躰の前で結わえられている。裏口が開いたのに気づいて、僕の方を見ていた。
クロトのまなざしは、骸骨のように虚ろだった。
半ば樹木化した腕は以前にも増して枯れ木のようで、生気がない。膝から下は絡み合った寄生木の根。躰の平衡を取るのが難しく、ごく不器用にしか動けない。
だけど今は、そもそも動こうという気力がないようだった。
「クロト」
僕が呼ぶと、老いた樹木の洞のように口が開いた。
不意に両眼に烈しい熱が浮かんだかと思うと、クロトは叫んだ。
「――死ね!」
埃にまみれた根が、床の上で触手のようにのたうった。調理台にぶつかるのも構わず、クロトは拘束された両手首を振り回し、暴れた。憑かれたように僕を睨みつけ、喉を裂くように絶叫した。
「死ね! ──死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
僕は怯んだ。腕の中でパムが息を呑んでいた。
クロトは尽きることのない悪意の渦だった。呪う以外の一切の反応を忘れた、壊れた機械だ。僕に死ねと言っているのか、他の誰かと混同しているのか、そもそも誰かに言っているのかどうかさえ分からない。ただひたすら、繰り返す。呪詛を。否定を。
何度死ねという言葉を聞いただろう。食堂の扉が開いてディナが入ってくるまで、僕は立ち竦んでいた。
「うるさいわよ、クロト」
物憂く欠伸を噛み殺して、ディナは僕を手招きした。
「こっちに来なさいよ、情報屋。バールと顔合わせるのが気まずいんでしょ? 今、留守だから。あんたがそこにいると、うるさくってかなわないわ」
他にどうしようもない。叫び続けるクロトを残して、僕とパムはさっき離れたばかりの食堂へ避難した。
食堂にはチシャとミレ、そしてカッチェとガナリがいた。バールは単独行動らしい。僕が入っていくと、カッチェとガナリは慌てて椅子から立ち上がり、ぶつぶつ言いながら出て行ってしまった。怖くなったのかもしれない。ほんの数分間とはいえ、僕は《城》の王と殺し合いを演じた奴だから。
僕とパムの方を向いて、ディナは片手を振った。
「クロトを刺激しちゃだめよ。すぐ暴れるんだから。どうして縛ってるか、分かるでしょ?」
「分かったよ。今」
僕は答えた。置きっ放しだった卓上の水差しを取って、ぐったりとしたパムに水を飲ませてやる。
「ずっとあんな様子?」
「そうね。バールやカッチェたちにも。あたしやチシャやミレには何も言わないのに。男がだめなのかしらね」
たぶん違うだろう。男じゃなくて、カナを死なせた男が赦せないのだ。
暗澹とした気持ちでいると、視界の端を長い耳が横切った。
兎の耳のミレだ。ディナの後ろに隠れ、僕を見る。何か言いたいことがあるのに、言い出せないようだ。
僕から声をかけても意味はない。聞こえないからだ。ミレは反乱軍の自爆攻撃に巻き込まれて聴力をなくした後、《悪霊》憑きになって兎の耳に変異したけれど、聞こえるようにはならなかった。
聴きたいという願いを嘲うかのような、長い耳。
僕は安心させるように笑って見せた。と、ミレはパムを片手で指し、首を傾げた。おずおずと口を開き、自分で自分の声が聞こえていない不安定な調子で言う。
「──イサ兄──パム、兄、は──大、丈、夫──?」
《城》でいちばん年下のミレは、まるで家族を作りたがっているみたいに、誰のことも兄、姉と呼ぶ。
不安げな顔だった。一昨日の夜、ミレも広間にいたことを僕は思い出した。目の前であの殺戮を見て、生き残ったのだ。これ以上兄姉が死ぬのが怖いのも、当然だろう。
大丈夫、という意味を込めて僕は頷いた。本当は大丈夫かどうかなんて知らない。パムの躰がいつ取り返しがつかないほど壊れてしまうのか、僕には分からない。
ただ、小さなミレを安心させたかった。
「ま、何とかなるでしょ」
そう言ってディナがミレの頭を撫でたので、僕は意外に思った。そういえば、ミレは僕が知っている限り、ディナなんか怖がって近づかなかったはずだ。でも、今のディナは、少し雰囲気が柔らかくなったように見えた。何人もの子が死に、自分の身もどうなるか分からないのに、かえって以前よりも安定したようだった。
「落ち着いてるね」
僕が言うと、ディナは少し笑った。
「そりゃあね。生き延びたんだもの」
安心するのは早すぎるんじゃないか。
僕が首を捻ると、ディナは「今、馬鹿にしたでしょ」と怒ったように両目を細くした。
「分かってるわよ。バールの話、聞いてたもの。あたしたちは殺されるんでしょう。あの女がまた殺しに来るんでしょう」
分かっているなら、どうして。
僕が疑問を口にする前に、ディナは答えた。
「シアが死んだの。……リリカも。フロルも。ランも……」
仲のよかった子たちの名前を挙げて、声を途切れさせる。
泣き出すのかと思ったけれど、泣かなかった。眩しい窓の方へ眸を向けて、囁くようにディナは言った。
「だけど、あたしは生きてる。……生き延びた」
その声はほんの少し、パムの祈りに似ていた。
透明な微笑みがディナの唇を掠めるのを、僕は見た。
「あたしは生きて、バールの傍にいられる。あと一日か、二日でも……一分でも、一秒でもながく……姿を見ていられる……」
落ち着いた声を聞いているうちに、愛、という言葉がふと思い浮かんだ。
バールは──僕と同じ《施設》育ちのけだもののバールは、ディナの想いをどう受け止めたのだろう。
ほんの僅かも、いとおしいと思わずにいられるのだろうか。
僕が馬鹿みたいに突っ立っていると、ディナは付け加えた。
「カナも、今ここにいたら、同じことを言ったでしょうよ」
不意打ちだった。
僕は顔を背けた。罪悪感と喪失感とが混ぜ合わさって、肋骨の内側を掻き回した。
息を止め、声を呑み込んだ僕に、ディナは追い打ちをかけた。
「会いたいなら、あとでバールに場所を訊きなさいよ。……きちんと葬ってたから」
耐えられなかった。
僕はパムもそこに残し、また食堂を逃げ出した。回廊を駆け抜け、庭園に出て、木立の間に逃げ込んだ。
──本当に、カナはそう言っただろうか。
僕は応えなかったのに。
カナがもっと僕の傍に来たがっていることを、気づいていたのに受け容れなかった。カナの躰の形は僕に近すぎ、心の形は遠すぎて、触れられなかった。同情したし、共感したけれど、欲しいと思えなかった。
どうすればいいのか分からずに、何もしないで放置した。気づかないふりをしていれば、ずっと同じ距離を保っていられると思っていた。近しくて居心地がよくて、それでいて傷ついたり苦しんだりしないで済むくらい遠い距離を。
だけどそんな都合のいいことを考えていたのは、僕だけだった。
バールは容赦なくカナを僕の仲間とみなして捕え、尋問した。そうしてカナは殺された。誰が殺したにせよ、カナは泣いて、血を流して、助けを求めた。誰も来なかったのに。
それでもカナは、僕を見ていられるだけでいいと言っただろうか。
喉の奥から熱がこみ上げて、目を灼いてしまう。
カナが死んでからずっと、感じることができずに忘れていたものが、躰を内側から引き絞った。
ひとりになって、ようやく、僕は泣いた。




