狩り
読んでいただき、ありがとうございます。
次回更新は10/16予定です。
ダウの筋肉が、逆に役に立った。
体当たりの瞬間を見計らって中から扉を開け放つと、猛突進してきたダウは肩すかしを食らって室内に転がり込んだ。床の血溜りに顔面から突っ込み、わけのわからない叫び声を上げる。
僕はその間に廊下へ飛び出した。
逆上したダウに捕まったら、申し開きをさせてもらえる見込みはゼロだ。あの筋肉の詰まった頭が冷えるまでは、逃げるしかない。そんな日が来るかどうかは怪しいけれど。
廊下にはリグがいた。物陰から様子を窺っている。飛び出してきた僕を見て、慌てて逃げようとした。
なるほど。
今更ながらに僕は理解した。外壁を伝ってエタの部屋に入ったのを、リグに見られていたのか。
ダウは僕がブロッシュを殺したと思って僕を捜し回り、リグはダウに僕の情報を売った。そして、エタの後をつけたように、新しい情報を求めてダウの後をつけてきたに違いない。
売られたのには腹が立ったけれど、それがリグの生態だから仕方ない。僕が駆け寄ると、リグはひっと息を呑んで身を縮めた。何も言わずに横をすり抜け、階段を走り下りる。
四階。三階。鎖の重量が一歩ごとに足首にのしかかり、ついさっき酷使したばかりの膝が砕けそうになる。階段の上から、ダウがもう人語ですらない怒声を上げて追いかけてくる。二階に下りたところで、何事かと口を開けて見ているセトとぶつかりそうになった。
「ごめん!」
一応謝って、襟首をつかみ、後ろへ突き飛ばす。
悲鳴を上げて転んだセトに足を取られて、ダウも転んだ。重い音。床が揺れる。時間を稼いでいる間に、さらに階段を駆け下りる。一階。
庭園に出てダウの視界から身を隠せば、撒くのは難しくない。全速力で廊下を走り抜け、回廊を回る。
ガラス扉を開け放った。
夏の日差しが落ちてくる。白く。眩しく。灼き殺すように。
影が、濃い。
僕は足を止めた。
真正面に、漆黒の影。
熱気に歪む夏の庭園を背にして。光から切り取られた黒。闇の色の長身。
息の上がった躰を、熱した金属に触れたような冷たさが這い上がった。
──バール。
《城》の王が、そこにいた。
まるで、僕が手の中に飛び込んでくるのを待っていたようだった。牙を剥き出しにした獣の目つきで僕を見て、薄く笑っていた。
自信が、粉々に砕けた。
僕を嵌めた敵。計算。遊戯盤の上から球を落とすように次々と人を殺す冷酷。
この男の他に、そんなことが出来る奴がいるだろうか?
膝が震える。逃げなければならないのに、足が重い。
目の前に王がいる。彼は大人だ。力を振るい、虐げ、支配する。そして僕は、無力な子供だ。押さえつけられ、嬲られ、服従させられる子供。どんなに小賢しく振る舞っても、大きな力には敵わない。
バールは、背筋が凍るほど、《施設》の連中に似ている。
後ろから追いついてきたダウが、バールを見て息を呑むのが聞こえた。おうおうと声を漏らすダウを、バールは片手を上げて黙らせた。
そして、僕を指して、一言命じた。
「潰せ」
死刑宣告。
空白になった頭に、不快な笑い声が突き刺さった。振り向く間もなく鎖を捕らえられ、引きずられる。
カッチェが狡賢い狐のように背後に忍び寄っていた。のけぞった僕の首に腕を巻きつけ、喉を潰すように絞めて笑った。
「落ちるなよ? 目が覚めてる間が、愉しいんだからなあ?」
ダウが目の前に立つ。牛に似た黒い目が激しく混乱していた。僕への怒りと、バールへの恐怖。
理解できないものを掻き消そうとするかのようにダウはまた吼えた。拳を僕に向かって振り下ろした。
岩が落ちてきたようだった。
痛みと衝撃で意識が揺らいだ。ダウは無茶苦茶に叫び、僕を殴り続けた。カッチェの興奮した笑い声。首を締めつける腕。
バールが佇んでいるのが見えた。殴られる僕を見ている。近づいては来ない。手出しをする気がないようだ。
なぜ、と思った刹那、長い逞しい指が、ベルトに差したナイフに触れているのが目に入った。
ヤックから取り上げたナイフ。《城》に存在する、唯一の人工の凶器。
バールは待っている。僕が充分に痛めつけられ、動けなくなるのを。万が一にも反撃を受けることのない、完璧な状況が訪れるのを。
そのとき、僕は殺される。
見せしめの罪人のように処刑されるのだと、はっきりと分かった。
全身に震えが走った。
カッチェの腕に爪を立て、抉り、叫ぶ。身をよじって背中の鎖を振り回し、狐野郎の頭に叩きつける。ダウが怯む。カッチェがわめく。緩んだ腕を振り払い、僕はダウに向かって突っ込んだ。鳩尾に肘を叩き込み、折れ曲がった胴を力一杯払いのける。
バールが動く気配がした。
危険。
警報が頭を破裂させそうに鳴る。僕は向きを変え、後ろも見ずに駆け出した。
枝葉を茂らせ、視界を遮る木々の間へ逃げ込む。白い日差しが途切れる。闇が目の前を覆い隠す。
どこを目指しているのかも分からないまま、逃げた。
バールは野鳥でも狩るように僕を追う。
《城》にいる子のほとんど全員が王の命令に従い、僕を捜しているようだった。要所にリグを中心とする見張り役の子が立ち、ダウのような荒事に向いた奴らが二、三人ずつ組になって、捜索して回っている。
驚くほど統率の取れた動きだった。
どこへ逃げても見つかり、大声で追い立てられ、拳や棒で襲われる。力任せに振り切っても、すぐにまた同じことの繰り返しだ。
まるで《施設》で受けた訓練をなぞっているようだった。重い装備を背負い、食べるものも休む場所もなく、ひとりきりで敵の中を逃げ回る。
自分がどこにいるのか分からなくなりかける。
僕は《城》にいるんじゃないのか。それとも、また《施設》に連れ戻されて、血と泥を舐めさせられているのか?
捜索隊の中に、カナはいなかった。逃げ回りながら東棟の部屋にも行ってみたけれど、姿がない。
いやな予感がした。僕がバールなら、パムやカナを人質に取るくらいのことは当然考える。
パムの部屋には、見張り役に邪魔されて近づくことすらできなかった。無事なのかどうか、分からない。
無事だと思うしかなかった。人質を取ったなら、脅迫を始めるはずだ。大人しく投降しないと、パムやカナを殺すとか何とか。それがないということは、パムもカナもまだ何もされていない。──いないと思いたい。
確信が持てない。何も情報がない。本当に、何一つ。
バール自身は、追っ手には加わっていなかった。どこかで指揮を執っているのだろう。伝令役なのか、ガナリやハクがちょろちょろと走っているのだけを見かける。カッチェはいない。クロトも。
ゆっくりと、ひどくゆっくりと太陽が墜ちていった。鎖に絡みつかれ、飲まず食わずで這いずり回り、狩り立てられているうちに、夜が来ようとしている。
僕は庭園の茂みの奥に身を伏せたまま、殺していた息を吐いた。
日が暮れれば、少しは逃げやすくなるだろう。《城》には、夜目のきく子は多くない。
残照が消え、夜闇がすっかり庭園を覆い隠す頃、妙なことに気がついた。
誰も来ない。僕を捜すのをやめたみたいだ。慎重に移動して辺りを探ってみると、見張り役もいなくなっていた。
諦めたのか?
そろそろと僕は建物の方に近づいていった。庭にはもう誰もいない。中央棟の近くまで行くと、やっと、人影がぽつんと立っているのが見えた。
ガラス扉を透かした光に、細長い輪郭が浮かんでいる。見張り役の女の子のようだ。誰だろう。
誰かが回廊側からその子に近づき、扉を開けて話しかけた。低くしゃがれた悪声。昼間僕が突き飛ばしたセトだ。
「ラン。バールが、みんな広間に集まれってさ」
「広間? 何で?」
振り向いてランが尋ねる。セトの声が答える。何と言ったのか聞き取れない。ランは頷いた。扉をくぐって、屋内へ戻っていく。
バールは何をしようとしているのだろう。
不安が膨らんだ。広間といったら、初めて《城》に来た日に目を覚ましたあの場所だ。黒く重くそびえ立つ正面玄関の扉。《城》の北端。
バールがそこで皆に何をさせるのか、想像がつかない。
敵の動きが知りたかった。喉がひりつくほど、情報が欲しい。パムやカナはどうなったのか。バールは今、何をしているのか。
中央棟の灯りを見ていると、その下のさらに下、光の届かない地下にいる子のことが思い浮かんだ。
テラ。彼女なら、何か聴いているに違いない。
ためらいはあった。僕が行けば、テラはまた酷い目にあうかもしれない。それに、あの地下の行き止まりの部屋は危険だ。階段を塞がれたら逃げ場がない。あっというまに取り囲まれ、拘束され、バールの前に引きずり出されるだろう。凶器を撫でながら待ち構えている、王の御前に。
それでも、他に手を思いつかない。
強く握った拳を胸に当て、息を吸う。機会は今しかない。今なら、バールが広間に皆を集めている。回廊の人の行き来は少ない。誰にも見られずに地下に下りられる瞬間が、きっとある。
足音を殺して中央棟の外壁に駆け寄り、ガラス扉の横に張りついた。
屋内から出て来る子はいない。扉を細く開き、滑り込む。
心臓が痛いほど鳴った。
思ったとおり、回廊にはひとけがない。上体をかがめ、仕切り壁に身を隠して僕は走った。地下室への扉をくぐり、階段を駆け下りる。疲れ切った躰に、鎖の重量が食い込んだ。
段の途中からもう血の臭いが鼻についた。ブロッシュ。疑っていたわけじゃないけど、臭気を感じて初めて、本当に死んだのだと実感する。むせそうなほど濃い臭い。灯りをつけなくても分かった。エルリやエタと同じ状態だ。
ひんやりとした地下の空気が血臭と混ざって、まるで墓場のようだった。地上にいる子たちに気づかれるのを恐れ、僕は灯りをつけずに手探りで廊下を進んだ。
いつにもまして静かだ。背中の鎖の鳴る音が耳につく。触れ合う鉄の輪の囁き。金具の呻き。罪人になった気分だった。生きたまま墓所に閉じ込められ、二度と出ることを許されない囚人。
伸ばした手が突き当たりにたどり着いた。壁を伝って取っ手を探り当て、軋む扉を慎重に押す。
「──テラ」
僕が来たことを、彼女ならもうとっくに分かっているだろう。鎖の音で。足音で。
血臭が一段と強まった。
闇の中で僕は立ち竦んだ。指が震えた。腐敗した食物の臭いに全く違う臭気が加わり、吐き気を催させる。
危険を忘れて僕は壁に手を這わせた。この部屋で今まで一度もしたことがなかったことをした。
灯りをつける。
紅蓮の色が視界を染めた。珠を転がすような美声は、どこからも聞こえてこなかった。
エルリやエタ、ブロッシュと同じように、テラもまた死んでいた。原形を留めず引き裂かれ、血と肉片の混じり合った残骸と化していた。




