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鋼の翼はゆりかごに孵る  作者: 桐生瑛
第四章 獣
19/51

それは彼女のものだったから

 読んでいただき、ありがとうございます。

 次回更新は10/14予定です。

  10


 翌朝、パムが目を覚ます前に、僕は部屋を出た。

 行き先は西棟五階の開かない扉だ。寝不足で頭が重く、既に眩しくなり始めた朝日が疎ましかった。

 いい考えがあったわけじゃない。何かせずにはいられなかっただけだ。鍵のかかった部屋へ行くことにしたのは、ブロッシュの地下室よりはまだできることがありそうに思えたからだった。あの類人猿と顔を合わせたら、また血みどろの殴り合いになる。勝敗はともかく、パムのレキに頼る羽目になるのは不本意だ。


 鎖の重量を引きずって五階に上がり、昨日の扉の前に立つ。

 こじ開ける道具はない。とすれば、窓を破るしかない。

 まずは隣の部屋に入った。こちらは鍵が開いている。窓から出て、外壁を伝って閉ざされた部屋の窓まで行き、ガラスを割って侵入したらどうだろうか。

 簡単に持ち歩けて、ガラスを割るのによさそうなものを物色する。机の上に古びた文鎮があった。黒ずんだ緑色の、六角柱の結晶。片手で持てる。重量も手頃だ。シーツを裂いて文鎮をくるみ、手首に縛りつけた。窓を開けて、隣の部屋との距離を見る。

 バルコニーがあればよかったけれど、そんなに甘くはない。外壁の化粧石の隙間に爪先を突っ込み、雨樋と壁面の凹凸を手がかりに這っていくしかなさそうだ。

 高さは五階。落ちたらどうなることか。ため息が出る。


 ──この鎖さえなければ……。


 泣き言を言っていても仕方ない。

 覚悟を決めて、窓枠に足をかけた。躰を窓の外に出し、外壁の表面をよく見て、足を伸ばす。体重をかけた途端に古びた化粧石がぐらついて、冷や汗が滲んだ。

 慎重に、慎重に躰を横へ動かす。ひびの入った雨樋をつかんだ指が、重さと緊張で滑りそうだ。

 一歩。また、一歩。

 歩けばほんの十歩かそこらの距離なのに、数時間もかかったように感じた。

 何とか例の部屋の窓枠をつかんだときには、腕も脚も疲れ切って震えていた。命綱なし、鎖つきの曲芸。こんな酷いのは、《施設》でもやらされたことがない。

 ガラス越しに見ると、やっぱり、窓にも鍵がかかっていた。室内から金具を回して施錠する型だ。片手と両足とで躰を支え、文鎮を叩きつけてガラスを割る。手を突っ込んで鍵を外し、窓を開けると、カーテンが顔に覆い被さってきた。

 邪魔な布を押しのけて、ようやく安全な場所に転がり込む。


 床についた足が、ぐにゃりと何かを押し潰した。


 ──腐敗した肉片。

 襲いかかってきた臭気に、息を止めた。

 顔を上げると、室内を染め上げた血の色が見えた。床。壁。天井。寝台や机や椅子。狭い一人部屋の全てに、黒ずんだ飛沫がこびりついていた。床のあちこちに散乱しているものは、人間の躰の欠片に違いない。

 エタが死んでいた離れと同じだ。

 しばらく、僕はその場にただ立っていた。

 衝撃で、疲労と睡眠不足が吹き飛んでいた。こんな光景は想像していなかった。埃っぽい狭い部屋のどこかにエタが隠していた何かがあって、宝探しのように探し出せばいいと思っていたのだ。


 この部屋で、何があったのだろう?


 朝食を食べなかったのは、今日に限っては、よかったかもしれない。耐えがたい臭いに頭を掻き乱されながら、僕は状況を把握しようと努めた。

 死体の顔は残っていなかったけれど、誰なのかはすぐに分かった。エルリだ。鍵開けの小猿。部屋の隅に、手首が投げ捨てられていた。小猿のあだ名の元になった、親指の長い、節くれ立った手だ。

 でも、エタは死体を隠していたわけじゃない。あんなにエルリを捜していたのだから。死んでいると知っていれば、捜したりなんかしなかっただろう。

 室内の惨状を観察し、働かない頭で懸命に推測する。

 先に殺されたのは、おそらくエルリの方だ。臭いと血の色。死んでから長い時間が経っている。エルリの特技を知った誰かが、この部屋で殺したのだろう。

 その誰かは、ここが空き部屋だと思い込んでいたのかもしれない。けれど、この部屋は、エタが何かを隠すのに使っていた。エタは中に死体があるなんて知らずに、隠していた何かを取り出すために扉を開けようとした。

 そして、鍵がかかっていることに気づいた。

「これじゃ、出せないじゃない」と言っていたというのは、きっとそういうことだ。

 エルリを殺した奴は、エタがこの部屋の扉を開けようとしていることを知って、死体が見つかるのを避けるために、エタも始末した──と考えれば、筋は通る。


 結局、エタが隠していたものは何だったのだろう?


 答えを見つけるのは簡単だった。埃っぽい寝台の下に手を突っ込むだけで済んだ。

 地下の貯蔵庫から持ってきたらしい、缶詰と酒。誰にも秘密の、ささやかな楽しみ。

 僕は見つけたものを元の場所に戻した。それはエタのものだったから。

 ……たったこれだけのために。

 喉の奥に不快な塊が刺さった。いったい誰が、エルリやエタをこんな目にあわせたのだろう?

 立ち上がり、手についた埃や乾いた血を払う。窓辺に戻り、死臭のしない空気を少しでも多く吸い込んだ。

 明るい夏の庭園を見下ろして深呼吸をしていると、ひとつ、いい方法を思いついた。

 エタはこの部屋のことを他人に喋ろうとしなかった。エタがここの鍵を開けようとしていたことを知るには、僕がしたようにリグに情報を聞くしかない。

 つまり、リグを問い詰めれば、誰がふたりのことを訊いたかが分かる。

 それがきっと、エルリを殺し、邪魔なエタも始末した奴だ。

 方針が決まった。まずはリグを尋問して、殺人者候補の名前を聞き出す。そして、名前の挙がった奴の持ち物と部屋を徹底的に調べる。

 決め手は、下手人しか持っていないはずのあるものだ。それが見つかれば、そいつが敵に違いない。


 ――鍵。


 扉を外から施錠するための鍵。《城》には一本もないはずの鍵。

 けれど、エタが死んでいた離れの裏口は施錠されていた。誰かが通ったように血で汚れていたのに。エルリが死んでいるこの部屋も同じ。窓も、扉も、鍵が閉まっていた。

 結論は単純。ふたりを殺した奴は、それぞれの扉の鍵を持っている──それだけだ。どうやって手に入れたのかは、見つけた後で訊いてみればいい。


 出口が見えてきて、僕は息をついた。捜査官ごっこもあと少しだ。警戒すべき相手さえ突き止めれば、怖くない。僕は《城》にいてもいい。パムを見捨てて逃げなくてもいい。

 それに──。


 銀色の面影が頭をよぎった。


 レアル。

 《城》にいれば、きっとまた会える。(つるぎ)、と呼んだ声を思い出すと、苦しくなる。僕はまた手を伸ばすだろう。振り払われても、諦めきれずに。

 だけどそれはまだ後の話だ。

 いま取りかからなければならないのは、リグを捜して、誰に情報を流したか喋らせることだ。今回も手加減をするつもりはない。場合によっては、手荒な真似をしてでも吐いてもらう。

 僕は血溜りを避けて、廊下との間の扉へ近づいた。帰りは勿論、窓からじゃない。中から鍵を開けるには、金具を回すだけだ。

 と、扉の向こうで、鈍い足音が聞こえた。

 誰か廊下を走ってくる。何だろう?

 指が鍵の金具に触れる前に、重い衝撃とともに扉が揺れた。

 僕は思わず手を引っ込め、一歩下がった。走ってきた誰かが、廊下側から扉を開けようとしている。鍵がかかっているのにも構わず、力任せに取っ手を回し、叩きつけるように何度も押す。扉が軋み、苛立ちがびりびりと伝わってきた。

 向こう側にいる奴は、開かないとみると激しく扉を叩き始めた。わめく声が扉越しに響いてきた。


「情報屋! そこにいるんだろ! 分かってるんだぞ、情報屋!」


 ダウだ。

 ひどく興奮している。単なる昨日の続きとは思えない。警戒水準が上がった。血で汚れた室内を振り返り、脱出経路を探す。

 そのとき、扉の向こうから恐ろしい怒号が響いた。


「てめえ──よくも──ブロッシュを殺りやがったな!」


 野獣の咆哮。

 怒り狂ったダウの声に、僕は立ち竦んだ。拳を叩きつけられた扉が吼える。ダウが体当たりを始める。蝶つがいが悲鳴を上げる。


 ブロッシュが殺された。

──()められた?


 全身が一気に冷えた。

 エルリを殺した奴が、死体を見つけられないようにエタも殺したんだとしたら、うるさく嗅ぎ回る僕だって邪魔に決まっているじゃないか。

 敵を突き止めるどころじゃない。先手を打たれた。ずっと懸念していたとおり、次は僕の番なのだ。

 ただし、直接殺されるんじゃない。下手人に仕立て上げられ、激高したダウに襲いかかられる。ダウは扉の向こうで、人殺し、人殺しと吼え続けていた。《城》中に聞こえるような大声だ。この分じゃ、他の子も僕がブロッシュを殺したと思い込むだろう。下手をすれば、エタやエルリも僕のせいにされかねない。

 敵は、そのためにブロッシュを殺したのだろうか。たまたま昨日、僕と喧嘩になった彼を。単細胞のダウを使って、僕を陥れられるからというだけで。

 何ていう冷酷。いっそ惚れ惚れするほどだ。

 また衝撃が扉を揺らした。


 どうする?


 このままじゃ、ダウは扉を叩き壊して飛び込んでくる。ダウの馬鹿力なら、やれるだろう。そうして僕を捕まえる。エルリの残骸の真ん中に突っ立っている僕を。

 最悪だ。

 扉を壁に留める金具が壊れていくのを、僕は手に冷たい汗を握って凝視した。


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