惨劇
今回短めです。
明日10/2も更新します。
7
翌朝、僕は約束どおりカナと連れ立って、中央棟二階のエタの部屋を訪れた。
自分で一緒に行くと言ったくせに、カナは眠たがってあくびを噛み殺している。何をしに来たのか分からない。
「おかしいな」
何度か扉を叩いた後、僕は呟いた。返事がない。
取っ手を回してみると、扉は軋みながら開いた。
妙だ。《城》の扉は、どこも鍵穴はあるのに鍵がなくて、施錠するには中からつまみを回すしかない。だから閉まっていれば在室、開くなら留守と相場が決まっている。
念のため入り口から呼んでみたけれど、やはり返答はなかった。
「戻ってないみたいだ」
「中、入る?」
目が覚めてきたらしいカナが奥を指さす。
僕は首を横に振った。エルリと違って、エタは僕が勝手に部屋に入れば、怒って二度と口をきいてくれなくなるに違いない。それは都合が悪い。
少し考え、エルリのがらくた部屋に行ってみることにした。もしもエルリが昨夜そちらに戻ってきたなら、エタもまだいるかもしれない。
回廊に下り、庭園に出て、木立の間を東に抜ける。
生い茂った藪を迂回し、魚の形をした噴水の横を通り過ぎると、離れの裏口が見えた。蔓草模様の浮き彫りが外壁を飾る、さながら貴族の隠れ家という雰囲気の建物だ。今は汚れてあちこち壊れているけれど、透きとおった朝日を浴びて、何年かぶりに目を覚まそうとしているようにも見える。
ふらふらと裏口に近づいていこうとしたカナの肩をつかんで、僕は引き止めた。
──警戒。
鼓動が、息苦しいほど速まっていた。
驚いて振り返ったカナの眸を見て、自分がいつのまにか、《施設》にいた頃のように神経を高ぶらせていることに気づく。
自分でも、何が引っかかったのか分からない。
だけど何かが、頭の中で、金切り声で叫んでいた。
近づくな。逃げろ。物陰に隠れろ。
僕はそのままカナを引きずって、枯れた噴水の陰まで後退した。藪と石材の間に窮屈に躰を押し込み、喋ろうとするカナの口を片手で塞ぐ。
目を凝らし、廃屋の裏口を観察した。石段を二段登った上に、重たげな木製の扉。取っ手は錆びている。開けるとすぐ目の前に、使われていない椅子や何かが詰め込まれていたはずだ。
エルリのお気に入りのがらくた部屋。小柄な彼女でなければ、身動きするたびに積み上げられたがらくたに躰をぶつけて、居心地が悪い。
扉の手前の石段に視線を戻して、気づいた。
縁に、茶色い汚れがある。
何かがぼたりと零れて、ごまかすように急いで擦られた跡。染みの向きを逆にたどると、扉の取っ手に浮いた錆に紛れて、汚れた手でつかんだ指の跡も薄く見分けられた。
――あれか。
ようやく、気が昂ぶった理由が分かった。
カナが僕の服の裾を引き、息だけの声で囁いた。
「何なの、イサ?」
「血」
声を殺して僕は答えた。カナの指が強ばる。
「本当? どこに?」
「階段。取っ手にも」
「見えないよ」
「かもね」
僕は、視力はいい方だ。カナは夜目がきくけど近眼。この距離で汚れを見分けるのは、無理だろう。
どうする?
ゆっくりと呼吸をして、考える。
退くか? 行くか? カナはどうする? 置いていくか、連れていくか?
敵の気配はない。
あれが誰の血だとしても、色あいから見て、時間が経っている。
僕がここに来ることはさっき思いついたばかりで、誰にも言っていない。
待ち伏せは、ない。
僕は振り向いてカナに言った。
「行こう」
「危なくない?」
「たぶん大丈夫だ。でも、もし僕が逃げろと言ったら、逃げて。いい?」
硬い表情でカナが頷く。
一呼吸置いて、僕は立ち上がり、離れの裏口へ走った。取っ手をつかむ。重い手応え。鍵がかかっている。
──開かない扉は、在室のしるし。
緊張が一気に高まった。
予想が外れた。中に誰かいる。
「下がって!」
ぱたぱたと駆け寄ってくるカナに声をかけ、扉から離れる。迷っている暇はない。
血の色が、《施設》の教えを躰に思い出させた。敵が目の前にいて、こちらに気づいているなら、とるべき行動は二つに一つだ。
拘束。あるいは、殺害。
蝶つがいを見て、やれるかどうか確かめる。大丈夫だ。いける。
助走をつけて、自分の体重と背中の鎖の重量とをすべて乗せ、肩を扉に叩きつけた。
錆びて脆くなっていた蝶つがいは、一撃で壊れた。外れた扉を力一杯蹴り開け、中に飛び込む。
思っていたのとは違った光景に、僕は立ち竦んだ。
「イサ、大丈夫?」
カナの声が半分だけ聞こえる。足音が後ろから近づいてくる。僕の肩越しにがらくた部屋を覗き込む気配がして、息を呑んだのが分かった。
「イサ……!」
「うん」
自分の声も遠い。赤黒い色に塗り潰されたように。
室内には、誰もいなかった。
積み上げられた椅子。積もった埃。真ん中に開いた僅かな隙間。何年も使われていないに違いない衝立、遊戯台、脚立、楽器。
血飛沫。
エルリのお気に入りのがらくた部屋は、まるでその中で人間を握り潰したかのように、黒ずんだ血に染まっていた。正体を知りたくもない柔らかい欠片が衝立にへばりつき、長い糸のようなものが垂れ落ちている。重い臭いが埃っぽい空気にこもり、吐き気を催させた。
だけど、誰もいない。
人間の形をしたものはない。ただ、一面の血。見たこともない惨状。
思考が止まる。
誰を殺すことも、助けることもできない。
自分が何をしようとしているのか分からなくなる。今見ているものが、本当に現実なのかどうかさえも。
どこか奥の方にある窓から夏の朝日が零れて、椅子の脚に引っかかった金褐色のものをきらきらと光らせていた。
長い髪の毛。皮膚ごと頭から剥がされて、放り捨てられた束。
「……エタ?」
カナが泣き出しそうな声を上げた。
それでようやく、目が覚めた。
エタはここにいた。引きちぎられた髪の毛と、大量の血と、肉と骨の残骸になって。
僕は大きく息を吸い込んだ。しっかりしろ。いつもよりちょっと酷いけど、こんなのには慣れているじゃないか。
現実を思い出せ。
銃床と拷問と流血の現実を。
眩しくて穏やかな《城》の中にも、僕の知っている影は混じっていたのだ。
それだけだ。
読んでいただき、ありがとうございます。




