1-5 推しには惜しみなく賛美を
※6/24 改稿しました。
シンと静まり返っていた早朝の街中に、突然若い女の金切り声が響いた。
「――いい加減にして!? あんたが私をどう見てるのかよくわかったわ! 女としても見てもらえないなら、私だってあんたの顔も見たくないっ! 出て行って!」
その言葉を最後に目の前で激しく扉が閉められた。古い建物しかない地域だ。周りの部屋にも揉め事の一部始終は筒抜けだろう。
頭上には薄い群青の空が広がっている。もう少し前までは自分に近い濃さをしていたのに、また朝が近づいている。
「君だけなんて言ってたら、生きていられないからなぁ……」
俺は地面に投げ捨てられた荷物を拾い、女の部屋に背を向けた。
別に本命がいるわけではない。女遊びが好きなわけでもない。自分に寄せられた好意と下心を利用して生きることの何がいけないのか。
「あーあ……また探さないとな」
俺は俺の居場所を探して白く霞む町に足を進めた。
§
「『グレーヴ様へ、あなたを応援している黒猫より』……っと」
“黒猫”という自らのファンネームを記し、ペンを置いたルトアシアは便箋にふーっと息をかけた。インクはまだみずみずしさを残している。
便箋に顔を寄せると、柔らかく甘い花の香りが漂ってくる。この香りは幼い頃亡くなった母の香水を譲り受けたものだ。ルトアシアはすぐに無くなるともったいないからといって、封筒や便箋を入れる箱に一緒に入れることで香りを移して使っている。
「はあ、グレーヴ様、今日も元気でいらっしゃるかしら」
ルトアシアはアスコットの屋敷に準備された自分用の部屋でグレーヴにファンレターを書いていた。
町中で炎を生み出してしまった一件以来、アスコットはルトアシアに怒り続けている。チケットを取った最終公演にはついて来てくれたものの、どこかギクシャクしていた。
(――とはいえ、よ)
静かに目を閉じれば舞台の上のグレーヴの姿が鮮やかによみがえってくる。深い群青色の髪をきっちり撫でつけたヘアセットのおかげか、柔らかい顔立ちが引き締まってとても良かった……そう、とても良かったのだ。
(今回の役どころはただのかませ犬で決して目立つ人物ではありませんでしたが、それでもグレーヴ様の魅力には敵いませんでしたね。グレーヴ様の存在であの役が輝き、主役を食ってしまっていた程ですもの。主役よりも応援したくなってしまうなんて、グレーヴ様はなんと罪深い……。生きる芸術。ええ、その言葉がぴったりだわ。どんなものを見て、どんなものを食べていらっしゃるのかしら……欲しい、情報が欲しいわ……)
だがルトアシアだって身の程をわきまえるということは知っている。この思いを全て叶えてしまったらそれはただの独りよがりだ。
(落ち着いてルトアシア。私は魔界の人間よ。この国の人間に深く踏み入ろうなんて考えてはだめ。それに私はあくまでも一人のファンとしてグレーヴ様の役者としての生き方を応援しているのよ。長くグレーヴ様のお姿を拝見するためにも素晴らしい役者だってこうやって伝え続けないと……)
ルトアシアは手紙と一緒に送るつもりの包みに視線を向けた。小さな包み紙の中には魔界の生地で作らせたチーフが入っている。少しばかり防御の魔力付与もしてしまったが、これを手に取ってくれるかもと考えるだけで幸せだった。
定期的に手紙やプレゼントを贈ることで、グレーヴを応援している人間がいることが劇団側にも伝わるなら、ルトアシアだってその手間は惜しまない。
「……ねえ、ねえってば! ルティ!!」
「――っ!!」
突然、名を呼ばれたルトアシアが弾かれたように振り向くと、ドアの向こうに焦った表情で立ちすくむアスコットが立っていた。その隣にはメイドが泣きそうな顔をしていた。どうやらルトアシアはメイドやアスコットの呼びかけにも気づかない程の空想に耽ってしまっていたらしい。
「閉じこもって何やってんのかと思えば……手紙か」
「ア、アスコット! ノックくらいしてちょうだいっ」
「この子も僕も何度も呼んでたんだけど」
そう言えば今日はタチアナの家にお邪魔する予定だった。約束の時間までまだまだあるが、きっとアスコットは準備を急かすために声をかけに来たのだろう。
慌ててドアに駆け寄ると、アスコットは不機嫌さを隠そうともせずにルトアシアの前に立ちはだかった。
「君の時間をどう使おうと自由なんだけど、少しは出てきてもらっていいかなぁ」
「あ……」
ルトアシアはすっかり忘れていたが、この家にアスコットが一人で暮らしている理由を思い出した。
(アスコットのお父様、ルイおじ様はお部屋に籠って研究しているときに亡くなってしまったのよね。あの時に無理矢理入っていれば……ってアスコットはまだ後悔しているのね。私が返事をしなかった事で思い出させてしまったのかも……)
アスコットの不機嫌顔の理由に思い至ったルトアシアは素直に謝ることにした。
「そうだったわね、ごめんなさい。気をつけるわ。あなたも困らせてしまってごめんなさい」
ムッとした表情のアスコットの後ろに立つメイドにも声をかけると、彼女はびくっと肩を震わせた。そして青い顔でフルフルと頭を振り、ペコっと頭を下げて逃げるように去って行った。
(……?)
そのメイドの後ろ姿にルトアシアは小さな違和感を覚えたが、その時は何が引っかかったのかを意識するよりも、自分の背後で書き上げたばかりの手紙を手に取るアスコットの対処が先だった。
「ちょっとアスコット。勝手に人の部屋の物を手にとってはいけませんって教えられなかった?」
「これ、どうせ僕が出しにいくんでしょ?」
アスコットの態度はすっかりいつも通りに戻っていた。安心したルトアシアは、今考えている計画を伝えても問題なさそうだと判断した。
ルトアシアが頻繁に魔界を抜け出している理由の一つに、グレーヴへのファンレター問題がある。
行き来が禁じられているこの国と魔界では、もちろん郵便を出すことも出来ない。そのため、ルトアシアはグレーヴへの手紙や贈り物をアスコットに頼んで送ってもらっているのだ。
しかし、だ。今回はその必要がない。なぜならルトアシアには時間がある。そしてグレーヴと同じ、この国にいるのだ。
「うふふ、いつもはアスコットにお願いしたけどね?」
ルトアシアはアスコットがひらひらと手の先で遊ばせる手紙を取り返すと、ニヤッと得意げに笑顔を向けた。
「でも今日は私が出しに行くわ。だからタチアナの家には先に向かっていて?」