1-1 推しの幸せを見届けるまでは
芸術的な彫刻がなされた黒檀のドアをルトアシアの声がビリビリと揺らした。
「わたくしはぜえぇっったいにっ、見合いなどいたしませんっ!」
鼓膜に突き刺さる程の大声に顔をしかめた魔王イグナスは、目の前で怒りをあらわにする仁王立ちの末娘をしかめっ面のまま見上げた。
「お前はどうしていつもそうなのだ……。一度くらい『はい』と素直に頷く姿を見せても良いのだぞ」
「お父様が私の話を理解してくださるなら、いくらでも頷きますわ」
「私はいつだってお前の話を聞いているだろうっ!」
たまらず執務机を叩きつけながら立ち上がったイグナスを、今度はルトアシアがしかめっ面で見上げた。
「あら、お父様。それではなぜ私が見合いを断り続けるか、理由はご存知でしょう?」
そう言ってツンと顎を上げるルトアシアの姿は、ルトアシアを産んですぐに亡くなった妻のリュカにそっくりだった。
「はぁ……知っているとも……。だがルトアシア、これは王女に生まれたお前の役目でもある。魔界を発展させ、平和を維持するためにお前が嫁ぎ先にもたらす影響は十分理解しているだろう?」
ため息をつきながらもイグナスは努めて冷静に、ルトアシアに課せられている王女としての運命を説いた。
一方で親としては心から愛する相手を見つけ、幸せになってほしい気持ちも無いわけではない。
(まあ、ルティには嫁に行かずにこのまま王女として生きてもらっても私は全然構わないのだが……)
イグナスはふんと小鼻を膨らましているルトアシアをちらりと横目で見た。
自分にそっくりな深紅の瞳はこの魔界を統べる王家の血を引く証だ。瞳だけではない。どことなく目の形や鼻筋、額の形や唇も「幻惑の貴公子」と呼ばれ、数多くの令嬢の心を奪ってきた自分に似ている。
だが薄氷色の淡い髪色だけは自分に似なかった。夜闇を切り取ったような漆黒の髪は母であるリュカと同じ色合いだ。さらに言えば部分的には自分に似ているが、全体的に見るとその美しさを「魔界の黒薔薇」と称されたリュカに生き写しのようにそっくりなのだ。つまりは二人の愛が育んだ最高傑作ともいえるほど、このルトアシアは美しかった。
(自分にも似て、リュカにも似て……。親の贔屓目に見ても美しく育ったのだが……)
「だが、しかし……」なのだ。穏やかだったリュカと違い、ルトアシアは感情が忙しい。小さい頃から大泣きしたと思えば次の瞬間には笑っているような子どもだった。そのくせ頑固で、気に入らなければ梃子でも動かない。
「……まったく、この性格は誰に似たのだ」
思わずこぼれ落ちたイグナスの独り言をどう捉えたのか、ルトアシアは切れ長な目をさらに鋭くして父を睨みつけた。
「それはそれはご期待に添えず申し訳ございませんこと! そうね、それなら国のための婚姻など、やはり私には荷の重いことですわ。お兄様もお姉様もおりますことですし、口やかましいばかりの残念な末娘の事など放っておいてくださいませ!」
頭から湯気を出さんばかりに噛み付いてくる末娘に、イグナスは今度は幼児をなだめるように優しい口調で語りかけた。
しかしルトアシアは父が自分の機嫌を取ろうとしていることなど、とうにお見通しだった。それにこんな無駄なやり取りをしている暇などルトアシアにはなかったのだ。
「ルティ、ちょっとは話を聞きなさい」
「いいえ。どうせ見合いを受けるというまで続くお話でしょ? お父様、私本当に忙しいのです。早くしないと最終公演のチケットが取れなくなってしまうわ……」
「ま、まて! まだ話は終わっていないぞ」
ドレスの裾を翻しながら自分の前を去ろうとするルトアシアをイグナスは慌てて呼び止めた。だがルトアシアは自分を呼び止めた父親を不満げに振り返った。
「いいえお父様。時間は有限です。時の流れの遅い魔界であれば話は別ですが、人間界は私たちが瞬きをする間に何分も何時間も、あっという間に過ぎていくのです」
「また『グレーヴ』とやらの話か。ルトアシアがそこまで熱を上げる程の者とは思えないが……」
イグナスは思わず額を抑えてため息をついてしまった。
実はこの末娘、十年前――と言っても人間の時間で言えば二十年ほどになるが――から、ある人間の男に熱を上げているのだ。
そこまで好きなら魔界に迎えてはどうかと何度も言っているのだが、ルトアシアにとってその男は「存在しているだけで尊い」ものらしい。そのようなおこがましい考えは今すぐ消し去るように、とイグナスはその都度ルトアシアにこっぴどく叱られていた。
だが、またもやイグナスは言葉の選び方を間違えてしまったらしい。
ルトアシアの周りの空気が揺れる。ドレスの裾が風もないのにゆらゆらとはためき始めた。
「……それはどういう意味ですの? いくらお父様と言えど、グレーヴ様に対してのその物言い。私、聞き流すことはできません」
ルトアシアはグレーヴを侮辱されたと思ったらしい。無論イグナスにとってはそんなつもりはなかったのだが、なぜかこの時は「父親」ひいては「魔界の王」としての威厳を見せなければならないと思ったのだ……とイグナスは後に語った。
「お、お前もいい加減にしなさい。聞けばさほど名も上げていない役者じゃないか。他に興味のあるものはないのか?」
「いいえグレーヴ様は素晴らしい役者です! お父様はなぜ私の好きなものを邪険に扱うのですか? 私の『推し』を邪険に扱うということは、私をも邪険に扱うのと同義です!」
それまでの勢いの毛色が変わり珍しく目に涙を溜めながら訴え始めたルトアシアに、イグナスは一瞬たじろいだものの、このまま押し切れるのではと淡い期待を抱いてしまった。
「そんなつもりは……。だが人間の、しかも役者風情のどこが良いのだ。こちらに迎え入れる気もない、ただ見ているだけの何が良いのだ。もっとお前には相応しい相手がいるだろう? そうだ、その男に似た若者ならどうだ? お前も納得する人物を探してやろう」
イグナスの言葉を聞いたルトアシアは涙を溜めた目を零れそうなほど見開き、明らかにショックを受けたようだった。イグナスは打ちのめされたようなルトアシアの姿を見て、自らが招いた結果ではあるものの、胸の奥がチクりと痛んだ。しかし可愛い末娘が心を痛める姿を見かねて目を逸らしてしまったせいで、イグナスはルトアシアの怒りに気づくのが遅れてしまった。
「……何もわかってくださらないのね。お父様、グレーヴ様は私の生きがいなのです。彼はこの世で唯一の存在。それを似ているもので賄う? それは明らかにグレーヴ様への侮辱でしかありません! いくらお父様でも、もう許せません! 私、こんなところにいられないわ!」
イグナスが気づいた時には既に遅かった。
ルトアシアの周りを瞳と同じ色の炎が一気に取り囲んだ。炎はルトアシアの魔力の形の一つだ。
あまり魔力の制御が上手ではないルトアシアは、感情の高ぶりで時折魔力を暴発させてしまう。そしてもう一つ、不安や恐怖で心を閉ざすときにはまた別の形で魔力が溢れてしまう。要するにルトアシアは魔力の扱いが未熟なのだ。
イグナスは慌てて自分自身と、燃やされてはマズい書類の山に防御壁を張った。
(本当にいったい、誰に似たのだ……)
次々と襲ってくる炎に耐えながら、イグナスは深いため息をついた。