157.憂鬱な「噂の婚約者」
《三月十三日、昼近く》
ファルコーネ城、一室。
貴族の逗留に相応しい客間。窓辺の椅子に若い婦人が佇んで居る。
「男性は近づく事が出来ませぬ。引きつけを起こされます」
「お医者様は?」
「昨日見つけたばかりなのです。密かに世話を申し付けられていた女中を問い詰めまして・・」
「それでも貴方は、まる一日放置なさって居ますね?」
執事、慚愧に堪えぬ表情で目を伏せてしまう。
「(・・まあ、この馬鹿みたいに部屋数の多い入り組んだ城館を、この老人一人で掌握し切れていないのを責めても詮無いでしょうか)」
なんとなく探検したい気分になっている黒髪娘であった。
婦人に、静かに近づく。
床に座り込む様な低い姿勢で彼女の手を執り、話し掛ける。
「ユリア・デジエさんは保護しました。プフスブルの町で療養して居ます」
「ユリアが・・無事?」
「無事です」
婦人の目に大粒の涙が溢れる。
◇ ◇
ソロティーヌの郡法廷が突然、伯爵法廷になってしまった。
いま法廷譲渡gerichtlische Auflassungが、エウグモント城の城砦レーヘン所有権について完了した。
農耕馬の四、五頭という話をしていた事件の次に、お城ひとつと五十戸くらい有る村まるまる一つが所有権移転していて目を白黒する傍聴者たち。
「そこ、静粛に!」と、右陪席のマッサ男爵。
「それ以上の私語は、閉廷後、皆にエール一杯づつ奢らせる」
男爵のフランクな物言いに廷内の空気が少し和むが、私語していた本人ら、傍聴者の数を考えて青くなる。
サバータ男爵が挙手する。
「城の復興に関連して、長らく空席であった領南部の代官を任命するやに仄聞致すが真偽や如何?」
「審議事項には非らざれど此の場を借り、いま公けとせむ。ヴェルチェリ男爵」
「謹んで拝命仕ります」
「裁判権レーヘンの授封は臣従礼を要さぬ。直ちに発令とする」
「(やたっ! ご加増っ)」
男爵夫人エステル、やっぱりガッツポーズが町娘風。
伯爵様も、先祖代々の世襲地を割いて身銭切った心意気を愛で給い、十分に手厚く為て呉れる様だ。
伯爵というのは元来は宮廷に勤めていた書記官なのだ。各地で土豪が勝手に領主裁判権を振るっていたところ、国王は各地に書記官を派遣して彼らの裁判権を取り上げ、地域で纏めさせた。ところが、その書記官が土着化して在地領主になってしまったのが伯爵だ。だから伯爵というのは実は爵位でなく、世襲化してしまった裁判官の官職名なのだ。
いまヴェルチェリ男爵が任じられたシュルトハイスも、元来はいまフロンボーテのセザール君がやっているような法廷の係員だったが、伯爵の副官のような立場に出世した。市長も郡代も庄屋も、伯爵から委任された裁判権を行使できる代官がシュルタイスである。死刑判決の出せる判事だ。そして給料の代わりに領地が付いて来るのだ。
因みに他所では、伯爵というのが自由領主階級なので、その代官は一段落ちる騎士階級が普通だが、ここ嶺南とか、辺境伯領とかでは君主が一段上の諸侯階級なので、代官も一段上の男爵たちである。
ところが先一昨日の土曜に先代伯爵が亡くなって、妹の子である現伯爵が襲位したばかりなので、諸侯に封ぜられる旗の授与儀式が未済である。よって未だ男爵たちの受封更新もこれからという今日この頃でなのである。
◇ ◇
その受封更新を為ねばならぬ当事者の一人クリスティーネ・ダ・フィエスコ、ファルコーネ城下の教会裏にある墓地で亡き騎士のお見送りをしている。寡婦と養子のほか親族の誰もおらぬ寂しい葬式である。
「その方が良いですわ。亡き夫の人生は皆様の記憶に残らぬ方が、この子の為に良いのです」
夫人、悲しいことを言う。
「大丈夫よ。頼りになる寄り親も出来たし」と、ディア嬢も無責任なことを。
それでもソロティーヌの自警団員やエウグモントの騎兵など、実は縁もゆかりも無い者たちで水増しされて、頭数だけは揃った。近隣住民の目には奇異には映らなかっただろう。変に噂される事もない。
うまい具合に男女も四組いて格好が付いた。
ノリのいいディア嬢など、ミュラの胸に顔を埋めて泣く演戯までしている。
村長夫妻と召使いの夫婦もの、残るクリスとクラウス卿が自然と組になる。クラウスがエスコートする流れだ。
クラウスとしては、姉のミランダからクリスをガードしろと言われて来ただけなので、あちこちで婚約者扱いされ当惑する事頻りである。然しポーカーフェイスの男なので平然としている。
それが噂を加速する。
「あの傭兵どもは、どうしましたかね」
「隊長と思しき者と今一人、生かして残し置いたゆえ、今はクラリーチェ嬢の手で色々吐いて居る頃だ」
「惜しげなく処分なさいましたね」
「手付けで百両取る者共、縛っても素人に委ぬるは少々心配である故」
「懐の百両が命取りかぁ」とディア嬢なにやら感慨深げ。
葬式に、物騒な話をしている。
◇ ◇
城から走って出て来たフレディ・パッサル、街道上で息が切れて立ち止まる。
「起死回生の一発を外してしまった」
後方より車輪の音がするので追手が来たかと振り返るが、農村にありがちな平々凡々たる幌付き馬車で安心する。
「坊っちゃま、男爵様より言付かったグスタフと申します」
フレディ、馬車に乗って身を隠す。
◇ ◇
ソロティーヌの法廷。
フィエスコの参審人ラツァロ挙手する。
「ファルコーネの男爵殿、おみ足不自由にて出廷儘ならぬ由伺いました。法務の立て込むであろう時期を控え、後見人が必要かと存します」
「緊急性を認む」と、伯爵。
「既に受封更新に関しては相続人クリスティーナの代参を許可する旨、使者を遣したところである。法廷実務に関しては別途対策を講ずるが必要かと存する」と、マッサ男爵。
「フィエスコ女男爵クリスティーナの最近親は、剣親が嘗ての決闘裁判で封建身分を返上しており、父親の従兄弟に当たる自分は参審自由人にて同等身分に非らず。母親の従兄弟がベリーニ男爵で被在います」
「実務に関する輔弼なればベリーニ男爵と、ラツァロ殿の女婿ヴェルチェリ男爵が合力すれば宜しいでしょう。ですが、法廷実務に関してはもっと近い血縁の後見人が望ましいと存じます」と騎士フェンリス。
ウーゼル男爵が挙手する。
「判決発見致す。ファルコーネ男爵の後見人は相続人フィエスコ女男爵クリスティーナ及びその配偶者とする。女男爵の法廷における後見人は当面の間、ベリーニ男爵もしくはヴェルチェリ男爵のうち出廷可能な者を以て重畳的に任ずる。但し女男爵と婚約を誓したる者は婚姻を待たず直ちに法廷における仮の後見人とし、女男爵の同席を条件に法廷実務に当たるものとする」
裁判員全員が帝国式敬礼に似た賛成のポーズ。
「右、判告を聴す」と伯爵、宣する。
「ふむ。さすがウーゼル殿、年の功だ。『重畳的』と定め置けば、出廷不能なファルコーネ殿には抗弁する術が無い」
参審人マリウスが感心する。
「そこ、私語禁止。次から皆にエールを金谷!」
騎士フェンリス、サバータ男爵に狐鼠ぉり耳打ち。
「義伯父上、昨夜クラウスがクリスちゃんと一緒だったらしいって」
「なに! 聞いとらんぞ!」
「えー!、聞いてないよっ!」と何故かマリウスも。
「雑談が始まったようなので、もう宜しいかと」と、マッサ男爵。
「うむ、では此処までと致す。では左陪席、長々と席をお借りしたが以上である。不穀らは傍聴席へと退出致す」
伯爵、挙手の礼をすると退席し、騎士カルルが判事席へ戻る。
「そこ三人! 閉廷後、参廷者各位にエール三斗づつ奢れ!」
「なに、わしもか!」とサバータ男爵。
聴衆から拍手喝采。
マッサ男爵、伯爵に耳打ち。
「ガルデリの一門、何かと『怖い人』という印象の根深きが有りますゆえ、このくらい如何かと」
「大儀である」
「其れよりフェン! 先刻の話、本当なのか!」とサバータ。
「昨夜の後夜祭で宴たけなわの真っ最中に二人で夜径に消えたとか」
「あっちゃあぁぁ、遅かりしマリの助ぇ」
傍聴席から野次。
「おおい! 酒蔵番! あそこ、私語しまくってるぞぉ」
右陪席答えて曰く。
「そろそろ酒蔵在庫切れじゃ」