123.憂鬱な「忘れ去られし男」(故人)
ぜんぜん関係ありませんが、トレチャコフ美術館の「忘れえぬ人」のはアンナ・カレーニナのモデルになったプーシキンの娘だって本当ですかね。なんか「フンッ」って言ってますけど。
《三月十一日、早朝》
エリツェの御屋敷町、銅板葺屋根の館。
朝食が済み、その儘なにやら皆お茶的なものを喫して居る。
休館日なので、公文書館長が茶菓子的なもの持参で現れ、また人数が増えた。
「昨今、溜まり場的であるな」と、伯爵。
「若い女性が居ると、華やかでしょ?」とか若くない人が言う。
「エルテスの院長様が本件勅任の奉行と宣言され、奥が共同統治者として拝した。これでグラーフ職の襲位に就いては完了と存ずるが、念の為本日の典礼でお目に掛かって置こう。大司教就任式に列席致し、詣臺に代えると致そう。公的な叙任権行使は御旗の交付を待つが、世襲地封土に就いては即刻着手する」
「僕のコムメンダシオン、すぐやっちゃう?」と、市長閣下。
「ガブ! あなた軽すぎ!」
大奥様に叱られる。
「ねぇねぇ、姪姫様のお相手って『龍殺し』殿と一緒に公文書館に来てた、あの美々しい銀髪くんじゃない? 顔だけ見たら『美少女かっ!』て子」
「うむ。氏素性の細かいことは存ぜぬが、あの典雅な物腰は二代三代で身に付く物であるまい」
やたら評価が高い。
「氏素性詳しく知らぬで宜しいの?」
「聞いたら飛び去ってしまう白鳥の騎士の伝説も有之である。嶺南の二家が合一して大きくなり過ぎた外様大名は、王家も鵜の目鷹の目で分割を狙って来よう。婿に王子など押し付けられぬうち、好いた男と娶わせよう」
「あら、いいお兄様だこと」
婆々様ら遠慮が無い。
「左右言えば、義妹の嫁ぎ先って、ファルコーネの古狸が後見人づらして押領しちゃってるじゃない?」
「そう。剣親だとか名乗っちゃって、子供は放置して領地だけ後見って、まるで居直り強盗よ。天誅が必要だわ」
「天誅なら、文字通り天から降ったらしいのである。ファルコーネの相続人は、今や老ベッリーニの血筋一択。手を汚し掻き集めた身代も所領も、みな他家一門の所有に帰するのだ。なんとも辛辣な天の裁きであるか」
「カイちゃん、無理に婿とか押し付けると、うちの姪みたいに出奔しちゃって藪蛇になったら困るわよ」
「然し、四分の一でも一門の血筋。薄まるのは惜しいな」
「それよりヴィリの家で嫡男が生まれれば、ガルデッリの血筋また四分の一よ。血の濃いお嫁さんを考えておかないといけないわ」
「まだ見ぬ孫の嫁の心配であるか。気の早いことだ」
「こんなセンシティヴなお話に、他家の者が御一緒して宜しいのでしょうか」と、ヴェルチェリ男爵夫人。
「構わぬ構わぬ。我ら一門の血筋に繁く超常の力を宿す者が現れるのは、この嶺南では公然の秘密。血筋を濃ゆく保ちたい一方で、トローニェやマッサのような優れた血にも魅かれるのだ」
「第一もうヴェルチェリ家も親類じゃないの。何を他人行儀なこと言ってるのかしら」
「それは光栄ですが大奥様・・」
「エッちゃん未だなの? こ・ど・も」
「そっ、それは・・その・・」
慌てるエステル。
「わ・・わたくし完全に外部者で他所者なのですが・・」と小さくなるフィニ・ベッテル令嬢にマッサ男爵がウインク。
「・・(どういう意味でしょう)・・」
「(お嬢様に『わざと聞かせている』と言うことですわ)」
セルヴィ夫人、目配せで語るがお嬢様、まだ察するほどには社交には長けていない。
◇ ◇
フィニ・ベッテル令嬢逗留中の客室。
「実は・・師匠は重病の妊婦さんの処に往診に赴いたのですが、到着した時すでに遅し、お亡くなりに・・。ですから早晩戻りますわ」
ヴェルチェリ男爵夫人エステル、フィニ嬢の手指を調べながら淡々と。
「感謝に堪えません」
「師匠が戻れば、御令嬢に顕れた薬効を検分して貰い、兄上様用のお薬を処方させます。遠方までの往診が儘ならぬので、この方法が一番かと存じますわ。いま暫くの御逗留とお考え下さいませ」
「何から何までお世話になって・・」
フィニ嬢、語り出す。
「兄が長の患いの間、亡き母が遂に信心に凝り固まって、アヴィグノに莫大な寄進を続けておりました。お蔭で我が侯爵領は重税で沈滞・・。ジュラの司教様が『現世利益目当ての寄進は報われぬ』とお叱りになっても、頑迷な母は行いを改めませんでした」
「あら、歯に衣着せぬ聖職者様。尊敬できるお方の様ですわね」
「この町に名医が御在という噂も、司教様より伺いましたの。曙光を見出した思いでした」
「尊い犠牲もありましたが」
セルヴィ夫人、今やっと護衛の武官がいたと思い出す。
浮かばれぬ男であった。
「今暫し、経過を拝見いたしますわ」
ヴェルチェリ夫人、辞去する。
「大恩が出来そうですわね」
「だから今朝は皆様、お身内の世間話めかして立ち入ったお話をされたのですよ。公式の場では決してなさらない内容まで」
「少しでも敵意を向けた者に対して何れだけ恐ろしい方々かは、思い知りましたものね」
お嬢様も、ようやく彼を思い出したようであるが・・『我が君尊し』が昂じて自分自身も身分以上に偉いが如く振舞う彼のことが少々鬱陶しかったのは正直なところであった。母の子飼いは、みんなああだ。
「わたくし、伺った話をどの程度まで外で話してしまって宜しいのでしょう?」
「基本的に、漏らしてならぬ事は仰ってないと存じます」
「左様ですか?」
「伯爵家の内紛が決着した話、着々と嶺南地方を縁者で埋めつつある話、そして決して嶺南は皆が囁いているような一つの軍閥には固まらず、二つの大貴族と一つの自治都市でふんわりやんわり・・という王国向けのアピール・・」
「セルヴィ夫人、家庭教師さまが侍女として残ってくださって本当に良かったわ。母が残した取り巻きたち、心底ろくでも無いんですもの」
「過分なお言葉を賜り恐縮ですわ」
「わたくしも、御一門の良い殿方とか紹介されないかしら」
「(お嬢様、度胸ありますこと)」
◇ ◇
男爵夫人、自分の客室に戻ると、隣室に泊まったソロティニのお嬢さんが控えの間に来ている。
「朝食のあいだ、随分おとなしかったじゃない」と、エステル。
「なんか・・あんなすごい話聞いてたら萎縮しちゃって」
「ご主人、というか彼ね。彼、この状況でベッリーニの殿様に目をかけられてるって、凄い順風じゃないかしら。ファルコーネの次期当主もベッリーニの血筋で決まりだから、ここが踏ん張りどころですわよ。ご主人のために人脈づくりは妻の大仕事よ。萎縮してる場合じゃないわ」
「え、ええ! 頑張りますわ」
其処へノック。
「あら、誰かしら?」
◇ ◇
オルトロス街、会館一階広間。
「きょう、ひと・・すくないね」
「日曜は安息日にして仕事休むひとと、『だから稼ぎどきだっ!』って言って週末まるまる仕事入れてるひとの両極だね。朝の窓口は空いてることが多い。でも今日はまた格別だな」
ヴィナ嬢が一人のんびり香り茶など飲んでいる。昨夜痛飲した顔だ。
この町は泥酔罪こそ無いが、迷惑行為で通報されると虎箱行きだ。ところが罰金がないので無料宿泊所のように考えている輩が多い。
昨夜は僧院炎上事件で警備体制が北にシフトしていたので、迷惑行為を通報しても警官が来ず、おかげで協会に随分お声が掛かった。典礼主任が時間外出勤して凌いだらしいが、それで彼は朝に居ない。皆も、夜働いて朝寝をしている。かくて此の閑散である。
寺町の風呂屋で夜通し宴会してたヴィナ嬢が来ての今朝であるが、見ての通りだ。茶碗を置くや否や船を漕ぎ始める。
ギルマスが帰って来る。これも朝帰りの顔だ。とぼとぼ執務室に消える。
ファッロとローラ、それに元リッピ家の女中ユリア。三人でゆっくり朝食だ。
其処へ来客。
「あ、ファッロさん、ここでしたか」
誰?