76.憂鬱な市庁職員
《三月八日、昼頃》
南街道をリッピ館より十里可りも南すると、ベラスコ館も間近。
十三騎が走る。
ラーテンロット王国が亡んで早やもう一年。旧・治安警察軍の装備も嘗てほど揃っていない。しかし、頭巾と胴布鎧は今でも制服のままだ。
今は野盗の制服だが。
「警部、館です」
館は館、城ではない。
ウンベルト・ディ・ベラスコはこの地の荘園領主であったが、伯爵の傘下に入らない他の独立系領主と同様に淘汰された一人だ。伯爵の犬との係争を伯爵の法廷で裁かれるという茶番の果てに、直営地以外の全ての所領と地位と、そして息子を失った人物だ。館は城館の体裁は保っているものの、高々十数人の無法者の襲撃に耐えられない。
最後まで従った元騎士の老人も最早や戦力ではない。況や下僕の農夫たちをや。
皆な、逃げ惑うどころか無抵抗で頭を抱え地に伏す。
「制圧しろ!」と、号令一下。
警部と呼ばれた頭目は、部下四人引き連れて、館の大広間へ押し入る。
吹き抜けの大広間は中央の大階段から中二階の回廊へと続く。あの何処かに、館の主人らが息を殺しているのであろう。
奥へ押し込もうと手下に手で合図した矢先、左右から十四、五歳の小僧二人、寸鉄も帯びず部下に組み付いて来た。主人に目をかけられていた子供の下僕であろうか。大人たちが震えているばかりなのに健気なことだ。
そう思った直後、立っているのは自分一人だった。
何が起こったのか理解らない。
倒れている部下を目視する暇も無い。
小間使いの娘が持った箒の柄が喉元に食い込んでいた。
ごぎり・・という嫌な音がする。
仰向けに倒れた警部には、意識はあった。
だが、体は痙攣するばかりで、まったく動かせない。
今起こっている事態が理解できない。あたりが騒がしくなる。
見回すことが出来ないので状況が把握出来ない。笑い声が聞こえる。
野良着を着た下僕らしき男たちが寄って来て、荒縄か何かで縛られた。
運び出される。同じように縛られた部下の姿が幾人か。皆な意識が無いようだ。
馬車に積み込まれる。下敷きの者が呻く。
小さな馬車に無造作に、五、六人積まれた。
馬車はもう一台あるようだ。全員囚われたのか?
筵のような物を被され、上に何か荷物が積まれる。
どうも、もう死体か何かのように扱われているようだ。
年貢の納め時が来たってことか。
あとは、ぶら下がるだけ。
馬車が動き出す。
◇ ◇
エリツェの町、オルトロス街。
ファッロとローラ、ギルマスを訪ねて屋上庭園が見てみたいと頼むと二つ返事。
「うわぁ、すてき」
「頑張って階段登った甲斐があるなあ」
「空中庭園とか言われててね」と、ギルマスが得意そうだ。
贅沢にも瑠璃張りの小部屋がある。
「ご縁の有ったと或る富豪のお宅にあった物を移設したんだ。まだ薄寒いから花が少ないだろ? ガーデンパーティとか開くときには、あそこから鉢植えを持ち出して飾ったりするんだよ」
小窓を開くと、まだ開花には早い筈の花が咲いていたりで、ローラが目を丸くしている。
「ここは素足で歩くと心地良い草が植えてあるんだ。靴脱いで歩いてご覧よ」
ギルマスが率先して始める。
彼、ころんと横になると、折よく階下から果物など運んできた給仕の小僧さんが布を敷いて皿を並べる。
ローラがすっかり躁いでしまう。
「ここは西谷のお城を真似したんだ」
ギルマス、ローラと木苺など摘みながら、結構仲良くなっている。
いや・・この人ってお腹さえ出てなきゃ貴公子っぽいのに、とかファッロ密かに思う。
「ところで、無粋だけど仕事の話していいかな?」
「昨日一日遊んじゃったから、そろそろ探そうかなって思ってたとこです」
「実は、西町の郭に売られてきた若い娘さんが気鬱を病んで、話も出来ない状態なんだけど、最近の人攫い被害者っぽいんだ。今うちで保護してる」
「人攫いですか」
「そっちの調査もあるが、娘さんの話し相手とか、年齢も近そうなローラちゃんに頼めないかな」
「ファロちん、やっていい? あたし、やりたい」
言うと思った。
「その話、俺ら二人に請けさせて下さい。俺ら、来週はプフスに帰るんだけど、場合によったらその娘さん、環境変えてみるのも良いかもって思うんだ」
「ともだちも、いるの」
「うん、転地も悪く無いかもしれないねえ」
ギルマス少し考える。
「それじゃ、ケアを第一。人攫い情報を第二で頼めるかな? 人攫いの方は先々荒事が絡むかもしれないから、そっち系の人をメインに立ててファッロ君にサポートしてもらう感じで」
「了解です」
「ふたりでおしごとだね」と、嬉しそう。
◇ ◇
エリツェの町、東区。丘の上の御屋敷町。
「流石に緊張するな・・」と、ニクラウス曹長。
鉄格子の門扉が開き、玄関前で執事が待機している。
「お待ちしておりました」
奥に通される。
「都市参審人殿も既に到着されております」
警官が一番遅いって、まずったな。
「此方です」
「(次の間付きの客室って、また豪勢なもんだ)」
下男が三人、青い顔。
「いくら何でも寝坊が過ぎるっす。いくらノックしても返事が無ぇ」
オーク材の分厚い扉が、悸ともしない。
「旦那が内鍵掛けちゃってんでさぁ」
扉は直り閉じられて、何か差し込む隙間も無い。
「此れしか無いかと存じます」
執事が斧を持って来る。
見れば其の斧、刃渡り一尺柄は五尺。攻城戦にでも使いそうだ。
「俺が・・やるの?」
参審人頷く。
下男ら手を合わす。
執事、大斧を差し出す。
重労働だ。扉と格闘する。漸く手を差し込めそうな穴が開く。
さらに四苦八苦して閂を外す。
重い扉が音を立てて開く。
寝巻き姿の男、寝台の近くで首を吊っている。
「死んでますな」
◇ ◇
ばったん、ぎぃ・・と大きな音。
「外扉は鍵を掛けてはいなかったんだね?」
「へえ、俺ら見られて困ることせんし、盗られて困るもん無えし、だいたい大殿様の屋敷うちだし」
「じゃあお前らの旦那は、有るわけだな?」
「そりゃ万事が万事、人様に見られて恥ずかしいお人ざんした」
下男ら、悪びれるところが無い。
「内鍵もこれ有りだが、この扉の音だ。人の出入りは気が付くだろう」
「そりゃ寝てても目が覚めまさぁ」
「夢じゃ女が夜這いに来るが・・」
「・・覚めりゃ寂しきひとり者」
「曹長殿、そちらは調査不要ですよ。事件性がありません・・」と、都市参審人。
「・・世俗裁判所としては、ですが」
「世俗裁判所としては・・とは?」
「遺書に類する物がありました。自殺です。調書を宗教裁判所に回付して、破門処分するか否かは、あちら様の判断という事になるでしょう。我々の仕事はもう終わりです」
「終わってませんよ。調書かくの本官ですから」
「確かに。だが冗談を言ってる場合でない」
「冗談ではありませんよ局長」
「冗談じゃないのです」
『遺書』を見せる。
曹長目を剥く。
「冗談じゃない! 局長、これは・・」
「今日の私は門衛局長でなく都市参審人として来ています。区別してね」
「いや、参審人殿! 細かいこと言ってる場合じゃなく・・」
「そう! とんでもない政治的事件です。これの報告が遅れたら、我々は重大情報をストップさせて大司教座下に弓引いた大逆者になっちゃいます。一分一秒でも早く市長閣下に報告してエルテスに知らせるのです」
曹長、首を捻って考える。
「・・エルテスの大司教さまが出馬しておられる十二支柱補欠選挙の結果出るのって、今夜ですよねえ」
「そのとおり」
「・・大司教さまって、ほぼ当確ですよねえ」
「衆目の一致するところだね」
「これって、ご注進すれば、大司教さまの政敵が一発轟沈するやつですよねえ」
「轟沈だ」
「報告しなくたって勝つじゃないですか」
「だから、やっても感謝されない。負け組の恨みは買うが、痛くも痒くもない」
「つまり急ぐ意味は特に無いですよね?」
「大司教座下が選挙に負けたら?」と、局長。
『何をか言わんや』という顔で聞き返して来る。
「どうせ失脚する連中から感謝されますね。得るものはありません」
「エルテスからは、どう言われる?」
「・・裏切り者め」
「さあ、さっさと手から離そう。上の人に預けて厄介払いしよう。手持ちにしてて良いこと無い」
◇ ◇
寺町。聖アロイシア尼僧院は生きているが、伽藍の他の箇所は廃墟に等しい。
血相を変えた修道士風の怪しい服の巨漢ーー主に横方向にーー自称「魔術師ベレンガー」こと薬局の倅が廃墟の一角の物陰に走り込む。薬瓶を取り出して飲もうとするが、指先が震えて取り落とす。
人の気配を察して竦み上がり、逃げる。
ひょこん・・と現れた尼僧、薬瓶を拾い上げて、
「何だこれ?」
寺裏の崖下から風が吹き上げて、草花が揺れる。