59.憂鬱な博士
《三月六日、夕刻》
南街道は、エリツェの南門から南部穀倉地域を抜けて大河デルタへと通じる。その南街道からヴェルチェリ領に入る三叉の辻で、クリスらは明日来る傭兵ソプラヴィ団の先遣隊と合流した。
「本隊は明日の午後一番には到着する予定だ」
「あたしら明朝には発つんで擦れ違いだけど、団長さんに宜しくお伝え下さい」
「そのことなんだが、一つ頼みがあるんだ。俺たちの隊長が『団長』って呼ばれないよう、根回しを頼めないか?」
「なんか事情が?」と問うクリス。
「勝手言ってすまん。俺たち皆の悪夢っていうか、心の傷っていうか。そう呼ばれると鬱んなっちまう。千人からいた傭兵団が全滅して、団長も死んで、俺らの小隊だけ生き残ったんだ。いろいろ言われて来た」
「不用意に言っちゃって、ごめん」
「いや、俺たちが勝手言ってるだけだから、こっちが悪いんだ。済まない」
「戦場に長く居た人たちが色々大変なのって・・分かってるから」
「俺らみたいな悪評まみれの隊を使って貰って感謝してる。必ず結果で返すから」
「悪評なんて聞いたこと無いにゃ。構え過ぎにゃ」
「猫の兄さんも、ありがとうよ。だが、団が全滅して、ひと小隊だけ全員生き残ったんだ。どういう扱いを受けてきたか想像が付くだろ? おまけに、敵中横断して撤退して来る間、敵地の村々を略奪して生き延びたのも事実なんだ。今あちこち荒らしてるゲルダンの敗残兵の野盗とおんなじさ。そんな負い目を背負って生きてる野郎共なんだよ」
「生きてりゃ良いこともあるのにゃ」
「金じゃなくって、いま俺らを信用してくれる人の期待に応えることが俺らの糧なんだ。どうか信用してくれって、安心してくれって、領主さんや皆さんに上手く伝えて欲しい」
「ま・か・せ・てっ!」
「ところで、さっきの合言葉。あんなの作ってたんだにゃあ」
「ははは、ありゃ『合言葉』じゃねえよ」
分隊長、笑って説明する。
「『エステルの父親はモルデカイか、アビハイルか』って聞かれたろ? 誰だって聖典に出てくる『聖女エステル』の親父さんの名前を聞いたと思うだろ」
「抹香臭い話は知らないにゃ」
「だけど、俺らの隊員は知ってるのさ。俺らを雇う契約をしたラザロの旦那が男爵さん家の奥方エステル夫人のお父っつぁんだってな」
「にゃるほど」
◇ ◇
エリツェの町。中央区はずれに在る公文書館。
馬車で来館する客のための馭者控室。
「下男さんチーズ食べる? あら、もうお酒がないわね」
「うぃーっす」
「館長様、ごちでーす」と下男たち。
「館長様みたいな貴婦人に応対してもらえるなんて人生初めてっす」
「だって退屈なんですもの」
身形や言葉遣いは貴婦人だが、気さくで下町っぽい。
「館長様って若い頃はさぞかし男衆にモテモテだったでしょ。いや、今もお綺麗だけど」
「あらやだ。わかっちゃう? もう一本開けようかしら」
下男たち、酒をくれる相手に、かなり調子がいい。
「あなた方のご主人って、お若いけど、学者さんなの?」
「いやいや、片眼鏡なんか掛けてるけど、あれ伊達っす」
「いちおう都の太学院でてっけど、女の子と遊んでるとこしか見たこと無いよな」
「まあ、でも・・あんまり女の子ウケはしなさそうね」
「控えめに言うとね・・」
「ああいう神経質でヒス多めは生理的に嫌われるっす」
「でも、女の子と遊んでたんでしょ?」
「そりゃ金遣い荒けりゃ野良猫も寄って来まさぁ」
「餌だけ食って逃げるけど」
応接室。ブッカルト博士が資料を読んでいる。
「追加の資料が必要になりましたら、遠慮なくお申し付け下さい」と、司書。
追加もなにも、日暮れまでに今読んでるやつを読了する自信がない。
なんでこの辺の記録官は『帝国古典語』なんて使うんだ。全く南部人ときたら、やること為すこと実用性がない困った形式主義者どもだ。
だいたい、あの司書はなんだ。
燭台を手に、俺の手暗がりを照らしてるように見えて、その実は違う。俺がこっそりページを切り取って隠しに入れようものなら、あの燭台で俺を死ぬまで殴る気だ。俺にはわかる。にこにこ笑いながら殴る。
なんて危ない奴なんだ。
妄想が止まらない。
◇ ◇
オルトロス街、協会大広間。
成果報告と報酬支払いで窓口が賑わう時刻だが、今日は宴会の方が賑やかだ。
クイント氏が帰着して、皆に大盤振舞い。輪の中心には典礼主任の姿も。
窓口ではヴィナ嬢、早く加わりたくて居ても立ってもをられぬ様子。
クラウス卿の名は伏せて「ガルデリの黒騎士」と言う事になった。
さる方のご意向「くーちゃんの名前はあんまり出さないでね」で、そうなった。
目鬘書記女史は自席でひとり浮かぬ顔。今日は何度も七階と往復している。
ただ、今は窓口業務が混み合い、あれこれ考え込んでいる暇が無い。
成果報告を済ませた者たちが次々とクイント氏らの輪に加わる。
ついにヴィナ嬢がキレて両手をぶんぶん振り回す。
しかし行列は一向に減らないのであった。
皆から少し離れたところで、商人アルゲントが弟からの手紙を読んでいる。
運送業者組合に提出した企画書が通らなかったのは口惜しいが、余りある成果が記されている。ミュラという人材に出会ったと思ったら、棚牡丹で馬車が手に入った。そこへ免税権が転がり込んだとは、何としたとんとん拍子であろう。これで平日も市場に参入出来たら・・と望蜀の夢に浸る。
◇ ◇
百里東、プフスの町。
役所街のギルド。
ラズースのロドルフォ帰って来る。
「本日は軽く手合わせ致した。あの男が手も無く捻られたというのは、一体どこの何者やら」
ミランダ代行、跋が悪そうに笑う。
「それで、月に最大二十日、自由組手の相手を致すことに相成った。これで五十両。可成り割の良い仕事を頂戴したと存ずる。某あの手配書が出回っては徒に歩き回れぬので、組合に属して知己に囲まれ、定期的に修練のお相手して当面の暮らしが立ち行くなら、願ったり叶ったりである。お近づきの印に、今ここに居る皆様に一献差し上げたいが、宜しいか」
「うほほーい」と給仕が来るのも待たず、ユリアナが棚下から大きな葡萄酒瓶を引き摺り出す。
「軽くなんか作る?」とエマ。
「よし、じゃあ酒の肴はわしが奢る」と、ゼードルフ老。
こちらも小さな酒宴が始まった。
「こういうとき、ファッロは付き合いが悪いんだよね」
ミランダが笑う。
◇ ◇
歩いてすぐ近く。「金の仔牛」亭。
ファッロと四人娘、亭主夫妻と従業員一同。賄いというには少々豪華な卓を囲んでいる。
「これで飲めないのは残念だがな」と亭主。
「今夜予約のお客さん、びっくりしますね」と通いの料理人。
「メインは食い慣れた料理だが、その前後を新メニューで驚かしちゃろう。これで鮮魚が手に入ってたらなあ」
「エリツェに行ったら、いいルートがないか当たってみますよ」
「オロスさんとこ、今週は入荷するかなあ」とミラ。
「お! そこんとこ詳しく」と、亭主。
◇ ◇
ヴェルチェリの城。
クリス、先遣隊を紹介する。
「男爵、こちら騎兵分隊のウィレム伍長です」
「閣下へのご挨拶と地形把握踏査で先に参りました。本隊は明日午後一番に配置に着きます」
「粒揃いの部隊と聞いている。宜しく頼みます。聞いたと思うが、先月リッピ館が襲われて生存者未発見。そしてつい一昨日、隣のホルナートが夜襲を受け、大きな被害を受けましたが村民が多数生存しています。彼らには何か一定の行動原理があるようなのです。参考になりますでしょうか?」
「情報ありがとうございます」
「あたしからも。リッピで検屍した法医からの情報では太刀筋が拙劣であったと。それが一昨日あたしの見た遺体の特徴と同じでした。また昨夜目撃したところでは、灯火を上手く隠して足元だけ照らし、常歩ではありますが闇夜に騎行する技術を持った者がいます。それが一昨日のホルナート襲撃では十三騎みな煌々と松明を掲げていました」
「それは?」
「威嚇は手慣れているが殺人は不慣れ。闇夜にこっそり灯火を隠す技術。彼らは正規軍でなく、もと治安警察軍ではないかと」
「いやはや、専門の斥候ってすごいなあ」と伍長。