32.憂鬱な婚約者
《三月三日、夜》
プフスブルの有名店「金の仔牛」亭。
「旦那さん、どこで教育受けたの?」
「え? はな垂れ小僧の頃から北の宮廷にお小姓に上がって読み書きや礼儀作法や叩き込まれ、ル・コション公爵のとことか回っていろんな言葉覚えて、嶺南に戻って暫く殿様の太刀持ちとかやって、遍歴の騎士の付き人やって、それからエルテスで法学から神学まで齧って来たインテリだぞ。その上、この歳で分家を立てる領地を賜って伯爵家の参審人にまで出世したエリート様だ。いつでも騎士になれる資格も持ってるんだが、まあちょっと婚資にパッと使おうと思って叙任式を先のべにして財産を温存してる謙虚な男さ」
「ふーん・・独身なんだ?」
「ねえ、先に騎士になった方が良くない?」
「ううん、今エリツェにある伯爵家の下屋敷で文官の仕事をしててな、上役より身分が上になっちまうのもナニなのよ。それで、嫁貰って領地経営の方に本腰入れるようになってから騎士叙任受けようって人生計画だ」
「あっちこっち遍歴して物知りなんだぁ。お尻触るって、どの地方の礼儀?」
「北西部だな。お小姓時代に先輩から習った」
「かつがれてない?」
「いや、北西部じゃ皆やってたぞ」
「この辺の他の貴族さんは、やってる?」
「こっちじゃ、人前では絶対駄目なんだとさ」
「土地柄って有るからねー。それって誰に教わったの?」
「南に戻って、伯爵家で太刀持ちやってた頃に先輩が教えてくれた」
「わかった・・」
「理由わかったわね」
「その人が優しすぎて、言い方が『やんわり』過ぎたのよ」
ずっと黙って聞いていたが、娘たちが何か致命傷与えそうなこと言い出す前に、話題変えた方がいいと思ったファッロ、ちょっと慌てる。
「ところで旦那って司法決闘やったことあるんですか?」
「遍歴時代にゃ、領主の地境争いの決闘とかに、よく助っ人として引っ張り出されたもんだ。差しの勝負ばかりじゃなく、三対三の勝ち抜き戦を先鋒の俺が三連勝しちまったりとか、さんざ鳴らしたもんだぜ」
「そりゃ凄いですね」
「『徴兵した農民なんか戦わせてないで、いっそ騎士同士一騎打ちで決着付けよう』とか、そういう場面って結構あんだよ。ただ、裁判官の前でやる決闘とかは経験ねぇなあ。あれ、介添人とかごちゃごちゃ煩いんだろ?」
「旦那は、まだ騎士じゃないんでしょ?」
「騎士は騎士と、従騎士は従騎士と闘るのが基本だが、勝ち抜き戦だと騎士とも当たるぜ。それでも負け知らずよ・・ってか、言わなくても分かるよな? 俺、生きてんだから。ほら」
「決闘人と戦ったことは?」
「実ぁ、無い。でも普通、騎士の方が強いだろ?」
「そりゃ知りません。俺も戦ったことねえもの」
「ねえ! ねえ!」とミラが横から。
「旦那がファッロの女房のお尻を撫でたら、二人は決闘すんでしょ?」
「奥方の尻なんぞ触らねえ。礼儀に反する」
「安心しやした」と、ファッロ。
「だいたい俺ら二人ともエリツェの市民権保持者らしいじゃねえか。市条例により、柄物はハリセンだ」
「ほとんど寄席芸人ですね」
◇ ◇
役所街のギルド、ペントハウス。
ミランダ、三日月を見ている。
「もう沈むわ」
クリス、黙って彼女を見ている。
「ちょっとしか会えないお月様。誰かさんみたい」
「今日は一緒だし」
「明日は行っちゃうのね」
「また、すぐ来るよ。すぐ」
「忙しくなるんでしょ? あなたには家族もいるし、まあ・・たまには来てね」
「うん」
「・・満月祭って知ってる?」
「満月祭?」
「お祭りじゃないんだけどね。春分のあとの最初の満月に、各家々で皆がお月見をするのよ」
「じゃ、その夜は一緒にお月様を見よう」
「夜、遅くていいからね」
「必ず来るよ」
灯を消す。
◇ ◇
「金の仔牛」亭。
おひらきになって、老人と騎士は相部屋の寝室へ。いかにも話し込みそうな気配。
厨房では、主人が鍋のソースを舐めて唸っている。
月が峠の関所のあたりに沈もうとしている。
「おつきさま、きれいだね」
「名残り惜しいね」
二人、夜道を歩いて帰って行く。
三人娘、わざと離れて歩き、遠くから見ている。
◇ ◇
ボニゾッリ家の馬小屋。
やっぱりボルンが干し草の山に潜り込んでいる。
昼間に素っ裸で窓枠に凭れていた女、ちゃんとドレスを着て現れる。
が、また月明かりの中で裸になって、干し草の山に潜り込んで来る。
「やあ」と、ボルン。
「美食に飽きて粗末な田舎料理食いたい気分・・かな?」
月が沈んで真っ暗になる。
◇ ◇
《三月四日、夜明け》
聖ヒエロニムス修道院。
朝のお勤めに例の騎士が参加している。
「敬虔なのでございますな」と、グィレルミ助祭。
「いえ・・子供の頃、エルテスの学僧さまのところに預けられて勉強しておりまして、習慣です」
「今夜はお見えに?」
「宜しければ」
「それでは、世界の数学的調和についてご意見を賜りたいと思っていたのに昨夜果たせませんでしたので、是非今夜」
「それは面白そうですね。楽しみです」
「こら、そこ! わしがまだ話をしておるぞ」と、院長。
「おっと」と、二人顔を見合わす。
◇ ◇
カプレッティ男爵の寝室。
彼の朝食は、いつもベッドで塩味の薄いスープひとカップだ。
髭袋を取って一口啜る。熱かったらしく眉根に皺がよる。給仕女が舌を出しながら逃げて行く。
「若旦那様」
ローシーが一礼して入って来る。
「気が咎める」と、男爵。
「仕方ないですよ。お命が優先です」
「決闘受けてたら、僕は死んじゃったかな」
「死んじゃってますね。いえ、明日だから、まだですけど」
「幸運が舞い込んだかと思えば、惨めさのどん底に急転直下する。町一番の美女で大金持ちの娘の婚約者になるとか、思えば話がうますぎた。好事魔多しという奴だ」
「お月様だって一度欠けたら、またぞろ満ち始めますよ。気楽に行きましょう」
「じゃ、とりあえずお前の爪の垢を煎じといて。昼食後に飲む。で、その後は?」
「カプアーナ家周辺に強そうな男が集まって来ています。若旦那、無理しなくて正解ですよ。あちらはあちら、何とかなります」
「何とかならないのは僕だよ。情けないチキン男として知れ渡る」
「死んだ方が良かったですか?」
「いや、それだけは無い」
「なら耐えましょう」
「あの夜逃げした決闘人が悪いと思うなら恨むなら、彼だって自分の命を守っただけです。若旦那と同じ立場ですよ」
「そうだな、お仲間か」
「彼は今じゃ、お尋ね者です。あなたは悪評だけ。彼よりは幸運ですよ」
◇ ◇
峠の関所。
例によって例の騎士が門番の格好で誰何する。
「はいはい、痩せ馬に無理に笞くれて飛脚してるチンクですよ」
「ああ、知ってるよ」
「はい。身分証」
「それ、人前に晒すなよ。最近、身分証欲しさに人殺しする奴が出てる」
「世も末だねえ」
「お前の牽いてるその馬も相当の値がつく軍馬だからな。お前を殺しても奪いたい奴は山ほど出るだろう。寄り道せずにさっさと行け」
「そのつもりでさ」
「しかし、その馬ぁお前に預けるなんて、ギルドにゃ随分信用されたもんだな」
「女房がギルドで賄い料理女してるからね」
「売っ払らわれても馬よりゃ安いだろ」
「それが若くて器量もまあまあだぜ」
「でも、その馬よりゃあ安いだろ」
「一度質屋で値踏んでもらわぁ」
「行ってよし」
◇ ◇
ボニゾッリ家の馬小屋。
きちんとドレスを着た女が出てきて、髪に付いた藁を払いながら母屋へ向かう。
「ますます運が上向いてきたぞ」と、ボルン。
母屋の当主寝室。
ベッドで裸の女が三人潰れている。
まんじりともせぬアッソ・セスト・ボニゾッリ、深く溜息ついて
「遂々明日か」