30.憂鬱な探求者
《三月三日、夕刻》
聖ヒエロニムス修道院の庭先。
「つまり、『萌えちょる』と謂う状態とは、すでに心の中で姦淫しているということなのですか?」
端正な美男が変なことを言う。
「いえ、Moechorとはもっと物理的な姦淫ですが、重要なのは決して其処ではありません」
と、特に美男ではない・・と言うより変な顔に近いヴィレルミ助祭大真面目だ。
「Non moechaberisはNonの脱落で逆の意味になると言うことです。筆写者の不注意でも、書簡の汚損でも、あらゆる場合に、意思の伝達の於いて人が過ちを犯す危険性があるのです。古人の言葉は荘重で敬う可きですが、顔と顔で語れない相手には『姦淫せざれ』ではなく『貞節であれ』と教えるべきなのです」
「一人の伝令が一軍を滅する危険は、我ら騎士もよく知るところです」
「然し、拙僧が申し上げたいのは、もっと根源的なことです。第一原因こそが善性の根源だと仰る或る夫人の言葉に感銘致したと申しますのは、原因と結果を含む文章こそが世界の調和を保持していると言う意味なので御座います。何故なら、第一原因から派生を重ねた末端の原因であっても、如何に善性を減じた成れの果てであっても、其処には確かに神の善性が宿っておりますのです。原因から切断された時点で、言葉は神の言葉の残滓を完全に失うので御座います。換言すれば、理由のない命令には容易に悪魔が宿るのです」
「含蓄のあるお言葉です。姦淫は関係ないのですね」
「姦淫ですら神の栄光を汚すことは出来ないと信じております。なぜなら神は獣にも生んで殖えよと祝福をお与えになりました。しかし獣は婚姻を致しません」
院長がやって来る。
「ううん、やっぱり貴方は面白い。そんなお人が異端審問官だなんて」
「院長、それ言っちゃダメです」
「あ、しまった」
「しかし、全能の神がお許しになれない罪なんて存在しません。形容矛盾です。存在し得ません、天の上にも地の底にも、地面より低い水の中にも」
「うんうん」
院長と騎士、頷く。
「あるとすれば、敢えてお許しにならない罪です。例えば聖母様がお許しにならない罪とかを」
「幼児殺害?」
◇ ◇
エリツェの寺町、木馬亭。
ボニゾッリの使用人ザックスが安らいでいる。
「あたしは白馬ちゃんみたいに情熱的じゃないけど、こうやって癒してあげられるんです」
「ああ、マリオンちゅわん! こんな癒しの行為を、卑しいなんて言う奴の心は絶対濁ってるよん」
「うふふ」
「神様はきっと、婚姻に縛られない姦淫を堪忍してくださる。それ、肝腎」
「お勧めにはならないでしょうけど」
まあ俺、結婚してないけどな・・
「姦淫の罪がカインの罪より重いなんてこと、ないでしょ」
◇ ◇
オルトロス街のギルド協会会館広間。
正面玄関でなく馬車口から、男が入って来る。
戸口近く、既に連絡を受けたヴィナ嬢が待機している。
ボンディ典礼主任が乗って行った馬車が、馬車だけ帰ってきた。
「お借りして、月曜午後か遅くとも火曜昼までにはお返しします。ということでボンディ様とは契約いたしました」
ヴィナ嬢、にんまり。
◇ ◇
オルトロス街のギルド協会会館、東棟一階の雑魚部屋。
ミュラという名は仮名だが、当面そう呼ぼう。本人もそう名宣っている。
ミュラが藁籠から両手一杯掴み出す。
「いい匂いだ。日中は陽の下で干してあったのか」
荷物で確保しておいた一角の床に敷く。
「ちょっと足りないか」
もう一往復しようとすると、知った顔に話し掛けられる。
「やあ」
「偶然じゃないな?」
「ここにいるって、お連れさんに聞いた」
「そうか」
「明日の昼にはプフスに帰るんだって?」
「でないと、あいつが腎虚で死ぬ」
「かもな」
「無駄話しに来たんじゃないんだろ?」
「そうだ。今の仕事辞めたら、俺と組まないか?」
「俺も、あんたとは相性が良さそうな気がしてるよ」
「なら話が早い。御者やってて『へなちょこ』野盗くらいなら余裕で追っ払える人が欲しい」
「今日日の野盗は『へなちょこ』でなくて困るがな。まあ馭者は出来る。一人でも、そこそこ戦える。俺に何をやらせる?」
「この町には木曜にプフスから職人たちが山ほど来る。そして日曜の午後に大挙して帰る」
「俺と同じだ」
「木曜夜から日曜昼まで、プフス運送組合の馬車が何台も、市営厩舎で眠ってて、馬は無駄に飼い葉を食ってるわけだ。ティト爺さんも馬車が邪魔くさいと言っていた」
「成る程、そこに目ぇ付けたか」
「寝てる馬車を安く借り受けて、金曜にこっちの商品をプフスの弟の店に送る。土曜に帰ってきて、馬車を返す」
「土曜には空の車で帰って来るのかい?」
「そこが思案中だが、土曜の夜だけだってエリツェに来たい市民はいると思う」
「すげえな。商人ってのは売って買うだけじゃねえんだ」
「実はもうプフスの運送業者ギルドには企画書を提出済みだ。そんなわけで、あんたが欲しい」
「月曜昼まで契約がある。夜からは、あんたの手下でいいぜ」
「いや、共同事業主として迎えたいんだが」
◇ ◇
ラズース峠の関所。
相変わらず騎士ロレンツォが居る。
「やあ、来ると思った」
「こんばんわ」
「もう門閉めるぞ」
「旦那が暇になるまで待ってます」
ファッロ、大人しくベンチに腰掛けて待つ。やがて騎士ロレンツォ、ひと仕事して帰ってくる。
「お前が来るような気がしてた。聞きたいのは、ここを通った騎士のことだろ?」
「お見通しですか」
「お前の事はよろしくと頼まれてるからな」
「え? だれに?」
「猫屋とミラちゃんだ」
「ミラちゃんは妻の仲良しだから解るけど、猫のひとは一度一緒に仕事しただけだがなぁ」
「結構気に入ってる感じだったぜ」
「最初はバカにしてたけど、今は尊敬してます」
「あいつ、近々この町を離れるんだって。で、お前をよろしくってさ」
「え? どっか行っちゃうのか?」
「遠くじゃなさそうな感じだったぞ。多分エリツェだ」
「ならいいや。近所だ」
「で、通った奴の話だ」
「うん」
「ちょっと昔話になる」
「?」
「昔、先代伯爵の時代・・ハーケンという通り名の最強の騎士がいた。ガルデリの侍と互角に戦える、そりゃもう怪物のような凄腕だったそうな。でも見た目はナンパな優男剣士だったと親父が言ってた」
「へー」
「そのハーケンが、武者修行に出て、帰ってきたら弟分みたいなのを連れて帰ってきた。これが撲殺兄弟という通り名の豪傑で、伯爵家麾下の三強として黄金時代を築いたんだそうな。まあ三兄弟と言われるくらい息の合った連中だったらしい」
「ふーん」
「まあ、その後に平和な時代が来て、誰が誰の首を取ったとかの噂も聞こえなくなり、三兄弟の名前もとんと聞かなくなった。年とって昔ほど強くなくなったからとか、お家騒動で冷や飯食う側になったとか、噂はあったが」
「ほお」
「関所を通ったのは、その三兄弟の末弟の息子たちだ」
「強いんですか?」
「知らん。知ってるのは親父が強かったって話だけだ。メイスの使い手で、何百人も兜ごと頭蓋骨を叩き割ったという武勇伝しか知らねえ。ただ、末弟の息子たちというのの兄は、ハーケンの愛弟子で華麗な剣士だとか、弟の方は父親譲りで豪快な奴だとか、その辺は風の噂だ」
「関所を通ったのは、その二人なんですか?」
「・・そうなんだが、三人目が明日来る」
「三人目ですか?」
「こっちは口止めされてて、ちょっと言えねえ。ただ、伯爵家の家中でいまの最強らしいとしか。これが漏らせる限界だ」
「・・・」
「要するにだ、強いは強いが、伯爵家の中でちょっと不遇っぽい連中が、集まって来てる」
「カプアーナ家への入婿狙いですかね?」
「知らんが、一人は確実に違う」
「違う?
「そいつは新婚だ」