10.夜道の闇に蠢く物あれば騒ぐ者もありまする事
《三月八日木曜、日没》
日が落ちて、かの石畳の登り坂もめっきり通行人が減るが、ほんのいっとき、帰宅を急ぐ者たちで行来がまた増える。
西の空の残光が衰えて行く。帰宅者を待つ家が玄関先に足元灯を置き始める。
粗末なケープ頭巾とマンテルの下から覗く緋色の絹の派手な衣装。下手すぎる変装の男が道端の乞食に駆け寄る。
「マーキュス! マーキュス! お前、生きてたの!」
乞食はまだ、ぶつぶつと贖罪の言葉と聖句を唱えている。
「いたんだよ、あいつ」
「なにを言ってるんだよお、マーキュス!」
乞食の方から変装男の手を執って
「さっき、あいつ居たんだよ」
「なに言ってんのか解らないよ」
「聖母様が許してくれないんだ」
「なに言ってる!」
「子供を殺したから聖母様が許してくれないんだ」
「違う! 嬰児じゃなかったろ」
「子供を殺したんだ。聖母様が許してくれないんだ。呪われ続けるんだ」
「おい、黙れよ、ひとが聞く」
「おれ、子供を殺したんだよーー」、だんだん声が大きくなる。
「マーキュスが居なくなって、親父さんが死んで、プロスペロの奴が親切ごかしに近づいて・・あの野郎悪魔だ! どうして帰らなかったんだよ! ニーナはあれから・・」
「ーー許してくれないんだよ」
喚き声に近い。
変装男が乞食の手を振り切って小走りに去る。例の裏路地に入ると、さりげなく距離をとって随行していた男たちが周囲に集まる。
「・・始末しろ」
と、喘ぎ交じりに。
男たちが乞食の方に歩み去る。
「あいつ、もうマーキュスじゃない。ああ、ああ」 血を吐きそうな嗚咽。
変装男が物陰の石壁際に隠れるようにして両手で顔を覆っている。
その背後に黒衣の女が音もなく現れる。
背後から男の後頭部を握るようにして石壁に叩きつける。
即死。
護衛が二人戻ってきて変装男の姿を探す。
石壁に額を擦り付けて立ったまま死んでいる。
暗がりの中、異変に気付かない。
背後から声をかける。
「旦那、済みやした」
その背後に女がまた現れ、右と左の手で男達の後頭部を握り石壁に叩きつける。
月は高く、屋根と屋根の隙間より石階段の裾を照らすが
結わず紆濤る女の長い黒髪が一瞬ひらと踊っただけ。
音もなく並んで暗い石壁に突っ伏して立ったそのままに男三人死んでいる。
分厚い雲の絶え間より、僅かに覗いた月影の中を横切りまた闇へ
黒衣の女が歩み去る。
女の姿が消えた後、人の通りも絶え果てた。
乞食の死骸を詰めた麻袋を川へと捨てに行った二人
何も知らずに生き延びた。
◇ ◇
公文書館は、日没とともに閉まる役所や集会所の立ち並ぶ中央街区の直中、宿直の司書が最後の戸締りをして玄関の灯火を落とすと、辺り一面窓灯り一つない射干玉の闇夜となる。弓張月の淡い明かりは、再び分厚い雲が悉く覆い隠していた。
特大の羊のような騎獣には鞍も置いていないが……柔毛に横座りのイーダさんは快適そうだ。杖だと思ったのは巨大羊を馭する笞だった。件の八尺杖と曳索で、仮の軛轅を組み上げて車椅子を繋いでは、推すのを楽させて貰った。
「ニートさん、そういうの本当に上手ですわ。器用というか機転というか」
「痛ッ!」
アルくんが……躓く。
「あんたら見えとんのッ?」
「見えてませんわ。でも不自由はありません。いえ、昼間と同じくらい不自由というのが正しいですわね」
「アルくん……見えないの?」
「見えねーよ、こんな夜道」
「あら、お客さん来ましたわ」
やや……不貞腐れて、
「そいつあ、良いお客さんですかね、悪いお客さんですかねッ」
「ははは、良くない方だな」
「あら、お帰りになりましたわ」
「良いお客でも悪いお客でも、早く帰るのは有難いお客さんだな、ははは」
遠くから夥しい松明が……ガヤガヤを連れて近づいて来る。
「今度のは、どっちですかねッ」
「帰らないけど良い方だな」
見れば見識った顔が……二、三。
受付窓口の美人さんが手を振った。
「わたし、なんにもしてないですよぉ。猫さん尾行した稲妻小僧が接触先でゲルダン兵隊崩れの賞金首を発見してスレナス兄弟にお小遣い貰い、ラマティ街道に向かった首さん六つで三兄弟の懐ろがほくほく潤い、ギルドは賞金立替事務でお国から手数料頂きます。皆ンなはッぴぃですぅ」
「あのお姉さん既に一杯機嫌にみえるんですけど、那が通常運転なんですかねえ」
「彼女は酔っても変わりませんわ」
「応! 俺たちも、まだ残りがいたら稼ごうと思ってよォ」
見覚えのある赤ら顔中年男さんもいる。今夜は素面で赤くないが……第一印象がアレである。赤中さん赤い胴丸に手甲脛当、松明片手に掲げて破顔。腰の剣帯には馴染みの柄物代わりに兜割など打ち込んで、これは結構強そうだ。
「で、稲妻小僧は尾行継続。スレナス兄弟にはアサド師の隠密警護を協会として依頼しましたぁ。これでエルテスハバール嶺北寺社領に貸しを作って万々歳ですぅ」
つい先程のこと、殺気を隠しもしない六、七人ほどのお客さまの気配が確かにあったのだが……ギルドの猛者連中が大挙して現れた途端さっぱり消えた。
こういう引き際の弁え方は兵隊『崩れ』呼ばわりされる程には、崩れていないのだろう。いや、天領の村々で掠奪を賞金付くまでやらかした連中……だそうだから、十分崩れているのか……
「ふむ、スレナス兄弟か。王国が賞金懸けてる犯罪者相手なら街中で『仕事』しても支障り無いだろうに、市警の管区を出てからにするあたり、手堅いな」
「お蔭様で向こうの動きも読みやすいですわ。さすがナンバー・ワン」
「ここぞという肝腎なところにコストを惜しまない金庫番くんも、流石だがな」
◇ ◇
結局やはり稼ぎ損ねた赤中さんも含め、ギルドのトリンクハウスで大晩餐会。
夜道では見かけなかった太っちょ老騎士と2人の従者も、ひたすら飲んでいる。
だが受付窓口の美人さんが一番飲んでいた。
「そうかそうか、二人共々雇われたか。よかったな、給金安いだろ」
赤中さんも相変わらず陽気だ。そして声を潜めて……
「姉ちゃん二人、ただの事務員とゆめゆめ思うなよ。背のおっきい方が協会書記で胸のおっきい方が金庫長だ。誰も逆らえねぇ二大巨頭だからな」
「いや質量は同じくらいだから二大巨乳じゃないですかねッ!」一緒に声を潜める。
「何だオメェ、見たのか?」
「下向いて資料見てるとき先っちょまでしっかりッ!」
「うぉ! そこんとこ詳しく!」
アルくんの未来に……暗雲が立ち込めた。
……背後に立ったイーダさんがアルくんの頬をつねりながら、
「もと警吏さんを紹介しますわ。クイント・ソールディ氏、仮名。警吏当時の本名は呼ばない約束」
赤中さんだった……。
「呼ぶなよ。けたくそ悪いからな。なんだ? 昔の話か? 聞きに来ると思ってたぜ。公募で出てたら俺が請けてた。銭金抜きよ」
「すまんな、イーダ君から先に話を聞いてしまってね」
「若ぇのがあの貼り紙見てたから二人とも行かせたのよ。二人要るだろ、あんた」
……アランさんと大杯を酌み交わす。
「どうもこうも。餓鬼らを拐った箱馬車にガレッティ家の家紋があったって情報の目撃者が消えたか、消されたか。まあ別件なんて腐るほどあるから、兎も角ガレッティのドラ息子を誘っ引いた」
「案の定、記録消されてましたわね」
「……抹消したという部分が、ですね」
「ところがあの若造、ってか当時の俺よっかホンの三つか下だけどなーー突然お祈り始めたり聖歌うたい始めたり会話にならんのよ。とても芝居にゃ見えない」
「一服盛られたッ?」
「ハシシやりすぎという意見もあったが心の病と医者は言う。文字通り話にならねえ。帰すしかない。強引な取り調べのせいだとかクレームつくかと気が気じゃなかったが、それも無かった。張り合いないくらい静かに立ち消えた」
「…………」
「あいつは、もう裁かれてた」
「……それきりですか……」
「いや、まだ喰いついた。若造の悪友連の名前とかな。それが伯爵家の坊ちゃんの取り巻き連中なことまで調べたとき、あの『待った』がかかった。ま、かかるわな」
「やはり出ましたわね伯爵」
「……あの、上に坊ちゃん居るのに、次にお姫様が生まれて『初孫誕生』って?」
「応よ! オメェさん異国生まれだろ。「初孫』ったら女の初孫よ。野郎だったら初孫てぇ言うわ」
「……ああ、成る程……」
「んで、十代前半の坊ちゃん神輿に担いで街の有力者の倅十六、七のワルども集団がやりたい放題してたわけよ。大体想像つくだろ? 御城側、事情聴取にゃ母親の側近を身代わりに出しやがったけど、ガキらの名前なら立春の晩餐会座席表に記録しっかり残ってら。野郎ども文字通り取り巻いてるぜ、ははは」
「……掴んだのですね?」
「そんな最中に、別方向から当たってた同僚が訳わからん殉職したんで、俺ぁ出奔したんだよ。俺らの勘じゃ絶対に一服盛られてんのに、どう調べても普通の病気で病死としか出んのよ。多分俺ぁ紙一重で生き延びたな。それで十年以上プフスの町にいた。以上が俺の知ってる全てだ。アランさんよ、頼むぜえ。手が要るなら一報くれ。駆けつけるからよ」
「……そうですか。当時の警吏さんは、他にもう御存命でないのですね……」
「いるよ」
「え?」
「ギルマス」
「ええええええ」
思わぬ人物悠然と登場。
「そゆわけで全面バックアップするのだよ。誰と喧嘩も辞さないね」
この人だけは絶対もと警官に見えないッ! あ、ニトくんも見えないけどさッ!
「驚きました。『人に歴史あり』ですわ」
……白を基調にしてレースを不ん断に配らった瀟洒な上下。香油で整えた短髪と貴族的な口髭。計算され尽した男伊達の全てを、突き出した下腹が台無しにした中年男性。ギルド長さん……あ、挨拶まだなのでお名前存じ上げません……
「あのとき僕が調べてたのは伯爵夫人の乳姉妹で、筆頭侍女してた側近おねえさんだ。もちろん貴族さん。書記が町っ子で、召使も侍女も一緒くたの書き方してたからなあ。記録読んだだけじゃイメージ湧かないでしょ? 絶対シロだなあ。魅力的なお姉さんだった。いつも怒ったような悩んだような怖い顔してたけど、僕のことだけは好きになってくれてたと思うね。嫁がずに今も伯爵家にいて、もうお婆ちゃんだろうけど、あの人ならまだ美人な気がするな」
「……いや、そういうことは聞いておりませんので……」
「聞きたいのは、逮捕した侍女さんの取調べの話なんですがねえッ」
「……いや……アルくん、それは」
「やーだなあ、もう。伯爵家の侍女さんを、うちら市警が逮捕できるわけないでしょ・・って、つい昔の口調が出ちゃった。『うち』じゃないね」
「ははは。アル君、世間常識を疑われることを言ってはダメだぞ」
「裁判権の範囲把握は捜査の初歩ですわ」
「みんながいぢめるッ!」
「うむ、いいかね? 伯爵夫人付きの筆頭侍女なら確実に騎士出自身分、実家は爵位持ちだ。市の裁判集会で市側が選任する参審人では歯が立たんな」
「なッ、なにその身分格差社会ッ!」
「身分というより実力ですわ。被告は原告に決闘を申し込めますし、証言の真偽を巡って証人と決闘し、判決に不服なら裁判員全員に・・」
「なにその暴力社会ッ!」
「被告から決闘権は奪えません。そこで当市は決闘の武器をハリセンと指定したのです」
「なにそれ、微笑ましいッ」
「ところが裁判員だけは、被告と同等身分の者が評決するのが原則ですから、騎士出自身分者が被告なら参審人も同格の市民にせざるを得ません。騎士同士の決闘は騎士の流儀になりますから、判決非難で上訴られたら血の雨が・・」
「野蛮ッ! ヒト社会って野蛮ッ!」
「ははは。普通は降らん。裁判員は最低でも七人だ。七対七で揃わんと決闘は始まらんからな。貴族だってそんな人数そうそう集められん。同等身分だから家来の兵士じゃダメだし、金で雇うのも御法度だ」
「ほっ」
「ただし被告が貴婦人の場合はボランティア集まります。その程度の数なら笑って代闘者に名乗り出る豪傑騎士が伯爵家周辺にごろごろと居りますわね」
「ダメじゃんッ! 降っちゃうじゃん血の雨ッ」
「諸くぅぅぅん・・脱線しまくってるよぉぉ。前提から違ってるの。呪いか毒殺か知らんけど、ガイシャの貴婦人が居たのは伯爵の御城の中なの。事件があったのは市内じゃないんだよ」
「あ、妾ったら偉そうに『基本』が何とか言っちゃって、お恥ずかしいですわ」
「市警の所轄外だから詳しく書かなかったんだろ。ま、あの書き方じゃ誤解するよね。記録官が悪い。伯爵家の家臣で市内に住所地のある者が、市内で重犯罪を犯せば、原則イーダくんの言った通りになるよ」
「血の雨っすかッ!」
「だから最初から協定があるの。伯爵家の家臣とその係累の裁判籍は住所地にかかわらず伯爵の法廷の管轄。あちらの捜査官が調べて、あちらの参審人が評決して伯爵が判決を下す」
「……公正なお裁きを期待するだけですね……」
「それで世の中ちゃんと回ってるんだよ。伯爵が招集する参審人の中には必ず硬骨漢もいるもんだ。要は被告の素行次第。より多くの人が納得する方向に流れるよう社会は出来てるんだよ。回せない君主は続かない」
「……伯爵が本気で揉み消そうとした場合は?」
「原告の市民側だって腹括りゃ、御公儀に御恐れながらと駆け込み訴えする。外様大名取り潰したくて鵜の目鷹の目の諸侯お歴々が飛び付いて来るな。そして不上訴特権めぐって血の雨が・・」
「……降りますか」
「降る降る。暴風雨並みに降るね」
「駄目じゃんッ!」
「それってもう内戦レベルだからね。伯爵家も自分ちが大火事になるリスク冒してまでゴリ押しはしないさ。もう尻に火が付いて炎上が始まってない限りね」
「てなもん、そんなもんっすかねッ」
「んで本件は、事件も市外、侍女さんも市民じゃない。所轄の法廷が違うわけ。だから『伯爵家の侍女さんを市警が逮捕できるわけないでしょ』って言ってるの。そもそも誰が原告になるんだい?」
「ははは、脱線したのは私かな」と、アランさんが剃り上げた頭を掻く。
「……ダークエルフ騎士と随分扱いが違いますね」
「そっちは市内で通報されちゃった風俗潰乱罪の現行犯だもんね。面倒くさいけど市警としちゃ告発して即逮捕だなぁ」
「決闘しろッ! って言えばよかったのッ?」
「裁判になったらね。取り調べ中にそう言って騒いだら、公執が付くだけかな」
「……良いことは何もないですね」
「それに、ホシに騎士んち出の可能性をちょっとでも感じたら、騎士出自身分の警吏が取り調べを担当するよ。決闘したいかい?」
「騎士で警吏の方……?」
「いや浪人。血筋は騎士でも叙任のお披露目お金かゝるからねえ。そういう者の家同士で所帯持てば騎士の一人もいない騎士の家系が誕生さ。市の職員には実家が伯爵家の家臣な者も少なくない。これ、伯爵の家臣が少なくとも表立って町で悪さしない理由ね」
「じゃ、この件はッ?」
「侍女さんの方はもう裁判権以前に、伯爵の家臣でガルデリ家の分家筋で本人も歴としたバロネッサだ。そりゃ気も使うよ。たかがタレコミで勾留なんてしようとしたら政治問題だ。本人が気を悪くしないで任意聴取に応じてくれたから市長が血尿出して寝込まずに済んだって話さ。うん、出ただけで済んだ」
「……ガルデリ家?」
:扨て、思わぬ人物登場し予期せぬことを語り始めましたれど、この先の如何は且く下文の分解をお聴き下さいませ。