32.下男のロブも憂鬱だ
《三月十日土曜、日没後》
寺町坂上の僧院、聖堂廃墟。
炎上する。
◇ ◇
その少し前。屋根の上の三人娘、火を見て恐慌。
「つけたっ!」 「つけたぁっ!」 「つけたぁぁっ!」
一人が走る。
すでに誰も居ない山猫屋三階の寝台の上を駆け抜け、階段を滑り落ち、膝小僧を擦り剥きながら走る。
息急き切って、娘。
「リノ! リノ! リノ!」
「どうした!」と、リノ伍長。
「リノ! ・・・おしっこ・・」
◇ ◇
「上がった。火の手だ」
「行くぞ!」
中央区公会堂カペレの鐘楼に黒い影。風のように行動開始する。
「やっと行ってくれた・・」
逢引きに来ていた先客の男女、息を殺していたが胸を撫で下ろす。
「覗き魔じゃ、なかったのね」
「物騒な話だった。通報しなきゃ」
◇ ◇
市警本部の窓辺。
「始まりました。行動開始!」
ニクラウスの号令で、物見塔に待機していた署員が松明を振って信号、各部署に伝える。あちこち城壁の上に待機した門衛局員が今見た信号を復唱するかのように、松明を振って再伝達する。
市長の肝煎りで両局初の合同作戦だ。
「あ、ごめん、言うの忘れてた。公文書館だけど、こんな日に限ってルポの奴が留守だから、子爵様に頼んどいた。あっち方面は心配ないから」と、市長。
もとより心配していないニクラウスであった。
◇ ◇
谷間めいた地形のため、唯だ一隊だけ市警本部物見塔からの信号ネットワークが見えない位置にいるリノ班だが、逆に一番行動が早かった、何故って第一報は彼らに入っていたのだから。
裏門に殺到すると、敵がいない。
しょぼくれた初老の典礼主任と、白髪の寺男・・引退して久しい老傭兵が二人で悪漢どもを四人可り縛り上げている。放火されたという聖堂廃墟を見上げる。バシリカの上に塔屋を乗せた折衷様式だ。最上階の窓からちろちろと火の手が見えていたかと思うと、あっという間に燃え上がる。石壁に板床を渡した構造は、アンヂェの言っていた通り煙突そのものだった。
川岸に堆く積み上げた薪に点火して古の伝説の英雄を焼いたように、塔の最上階が炎に包まれた。屋根裏に巣食っていたのだろう二羽の烏が飛び去って行く。
柱しか残っていない昔の戸口のあたりから尼僧が五人出てくる。
「無事か!」
「まあ一応無事みたいですぅ」と、アンヂェ。
「むじらなひれふう」
無事じゃなさそうなのも約一名いる。
フロラン家の若い衆がひとり背負って
「西町の医院までひとっ走りして来まさぁ」と、男坂を駆け降りる。
正門の方からベルコーレ軍曹の本隊に追われて、悪漢ども数人撤退して来て、リノ隊に挟撃される。
新機動隊の着ているブリガンディンは素人目ただの厚地の布鎧に見えるが、布の表面に飛び出た星印は実はリベットで、裏地側に金属板が止めてある。斬撃にも打撃にも強い優れモノである。平服で帯剣しただけの悪漢ども、パヴィス盾でぶん殴られ、ひと堪りも無く捻られていく。
西区門衛隊が次々と数珠繋ぎする。
最後の三人、剣も投げ捨て、樫の木に攀じ登って遁走を図る。
「こんにゃろ」とフロランの若い衆、登って追いかける。追うも追われるも、壁の上を足元怪しく逃走劇。
屋根の上の物陰から窺っていた三人娘が悲鳴をあげて逃げ出す。
地面の上では大工ギルドの徒弟衆が中心となって消火に大童。何せ丘の上で水が無い。延焼を防ぐだけで精一杯だが、基本が石造りの聖堂だ。燃え移る前の木造部分を、大槌やら破城槌みたいなもんや鳶口めいた道具で突き崩して火勢を孤立させる。聖堂廃墟最上階の床が燃え落ちて火の粉が降ってくるが、石壁で囲まれている中は無理してまで消さない。
◇ ◇
北の門衛隊、寺裏川の辺りを哨戒していて、寺北の崖に倒木で俄か作りの桟道の如きものを発見。
「ははん。脱出口を作ってやがったな」
しかし誰も来ない。
◇ ◇
数珠繋ぎの悪漢ども、殊勝に項垂れている。
西区の門衛もう暇になって無駄話。
「火付盗賊の輩が極刑を免れるとは思えんがな」
「そんな」
「きっと失火です」
「お前らの仲間が火を点けたって目撃証言あるんだよ。孤児院の子供だから法廷で証言はできんので安心か?」
安心した顔。
「証言じゃなくても裁判員が信用すりゃ、お前ら火付盗賊で決まっちゃうからな」
「ざ・・斬首ですか?」
「まーさか」
「まーさかって・・」
「もっと凄いやつに決まってるさ」
◇ ◇
寺町坂下は火事見物の野次馬で混多返すが、放免隊が凄んで追い散らす。
呑気に坂下亭で飲んでる連中も結構いる。
私服の若手警吏が目を光らすが、特に怪しい者はない。
飲んでる連中を羨ましそうに見る。
「オルシーニおらんし・・帰ってこないし・・」
◇ ◇
塀の上。危なっかしい足取りで追いつ追われつしていた男たち、揃って外側に墜落する。
なんだか黄色い声がする。
「あの向こうって何があるんだ?」
「彼処ぁ・・蒸し風呂屋でぇ」
何だか羞んでいるこの男、行ったことが有るらしい。
何やらピンと来たフロランの車夫連中、
「そりゃ加勢に行かなきゃな」
一泊置いて「御用の」と付け加える。
◇ ◇
西区、Fiesco館。
フロランの若い衆が戸を叩く。
「お医者さーん」
法医、出てきて
「なんじゃい? 検死か?」
尼僧ドルチーナ、背中で「ひきてまふぅ」
若い衆、歌い出す。
「かんかんのう、きゅうれんす きうやぁきうれんす」
法医、唱和する。女房留守で一杯やってた模様。
「しゃんしょなぁらえ さぁあいほう」
二人、踊り出す。
「にいかんさんいんぴんたい」 回る。
尼僧ドルチーナ、背中で「ひきてまふぅぅぅ」
◇ ◇
山猫屋玄関。
フロランの若い衆五、六人。
「御用改めるぜ」「姐さんたち危ないといけないからな」
「客かい?」
「客じゃないけど、そこはルールだから客として入らなきゃなあ?」
「そうだよな。俺たち御用改のお手伝いだけど、店のルールは守らんとな」
「じゃ、客なんだね?」と、眠そうな中年女。
「形としちゃね、形!」
「風呂代払いな」
「はいはい、風呂代ね」
「御用改だけど、木戸の通り賃が銀貨一枚な。これは払わなくちゃなあ」
払って通ろうとする。
「脱げ」
「あいよっ!」「合点!」「お役目だもんなあ」
◇ ◇
トルンカ村。
「何だ! 此の轟音は!」と、ミケーレ。
帰って来たばかりの村の娘ら、抱き合って息を呑み、空を見上げる。
ヒルダが細い目を大きく見開く。
「ベリーニ卿、北の空が真っ赤ですっ」
「御城の方角だ。参るっ!」
身を翻して馬上の人と成る。
と、其処に幌の半ば吹き飛んだ馬車、駆け込んでくる。
悍馬が泡を吹いている。
「お局様!」
「リンデか。怪我人がおる」
「姫様は?」とヒルデ。
「お二人の気配は有る。御無事は確かじゃが場所が判らぬ。ベッリーニ卿!」
「応ッ。参るっ」
馳せ去る。
「丘の上にっ」と、クラウス卿の掛けた声が一ト足違いで届かない。
「ん? 警吏殿の姿が見えぬ」と、ミケーレ。
「少し前に向かわれました」と、家令。
「災厄に巻き込まれ居らねば良いが」
◇ ◇
市警本部、地下牢。
「寒い・・」と、ロブが呟く。
黒い影が近づく。
かちり・・と牢の鍵が開く。
「飯だ」
飯は持っていない。刃を黒く塗ったダガーを持っている。
「飯ぃ?」
筵に包まって膝を抱えて丸まっていたロブが貌を上げる。黒い影が更に近づく。
黒いとんがり頭巾を被った小男。
その小男の口を、背後から伸びた右手が塞ぐ。ダガーを握った右手首を左手が掴む。抱き竦められた形で身動き取れず、鼻口塞がれた小男が声も立てられずに悶絶する。失神した小男から鍵束取り上げて、背後の男が呟く。
「ううん・・これ、どうも内通者いちゃうねぇ」
「警吏さん?」と、ロブ。
「むかしね」