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 くまさんは一息に語ってから、ふう、とため息をついた。姉さんも隣で大きく息を吐き出した。

 思い出したくないような過去か。それは相当な精神的な重荷であろうことは簡単に想像が付く。けれども……いや、だからこそ、僕にはなにも言えなかった。僕が吐き出す言葉はきっとその重荷の万分の一の重さもないだろうから。


「それから俺はしばらく野原を歩き回ったよ。けれども結局、仲間と出会うことはなかったし、それどころか食べる物も飲む物もなにもなかったんだ。本当の意味でなにもなくなっていたんだよ。で、そこで初めて気が付いたんだ、自分がくまの姿になっていることを。くまの姿のまま迷い歩いてたんだね」

「それで……?」

「それで、さっきも言ったようになにも覚えていないんだよ。気が付いたらこの森にいた。『ふらふら』に二重の意味がかかってたんだな」


 くまさんは自嘲気味な声色でそう言った。

 相変わらず表情はよくわからない。


「気が付いたらこの森の、この切り株に腰掛けて、夢中であの果実を貪っていたよ」


 くまさんの指さす先にはリンゴによく似た赤い果実がいくつかぶら下がっていた。


「以来、結構長い間になるかな。ここにいる。他にいく当てもなかったし、なにより戻ろうにも道がわからない。おまけに姿も戻らない」

「さっき魔法使いって言ってなかったっけ?魔法では戻らないのかい?」

「自分でかけた記憶がないからね。自分がかけたにしてもどんな魔法かわからないと解けないし、他人ならなおさらさ。もっとも、この姿が気に入っていないわけではないから、無理に戻らなくてもいいかな、とは思ってるよ」

「ふーん」


 姉さんは口を尖らせた。不機嫌なときの癖だ。この人はなにが気に入らないんだろう。


「なんか諦めちゃってる感じだね」

「?」


 そりゃクエスチョンも浮かぶだろう。姉さんと長い付き合いのある僕でも、この人のピーキーさには付いていけない時がある。


「本当は寂しいんでしょ?どんな人たちかは知らないけれど、また、仲間に会いたいんでしょ?なにを悟ったようなこと言ってんのよ。くまさんのくせに」

「最後の一言は意味が分からないって」

「うるさい。せっかく魔法が使えて、くまさんなのに、諦めたように座ってるって、なんで諦めちゃってるのよ!」


 くまさんは黙ったままだった。


「まあ、姉さん落ち着いてよ……くまさん困ってるじゃない」


 本当はどうかはわからなかったが、そう言って僕は姉さんをなだめる。


「くまさんって魔法が使えるって言ってたけれど、どんな魔法が使えるんです?」


 僕は姉さんと違って躾がいいので、赤の他人にいきなり馴れ馴れしい口の利き方はできない。


「あまり覚えていないけれど、昔は大概のことはできたと思うね。危ないことまで……いや、ぶるっと震えるなよ……今は大したことはできないよ、姿を変えることもままならない。こちらに来てからは帰る手段を探す以外、大して使ってないからなぁ」


 くまさんは静かに答えてくれた。姉さんは横でムスッとしているままだ。


「魔法を使っても帰れないんですね」

「そうだね。移動もできない。探知もできない……ちょっとしたことならできるんだけれど」

「だったら……」


 姉さんは口を尖らせたまま口を開いた。

 器用だ。


「だったら、うちにおいでよ。寂しいんでしょ?ここにいてもする事ないんでしょ?」


 なにを言い出すんだろう、この人は。割とリアルなくまさんだぞ?飼うのか?


「飼うなんて失礼なこと言ってない。魔法使いさんなんだから、一緒に暮らすんだよう」


 当のくまさんは、黙り込んで考えはじめてしまったようだ。「ようだ」というのは、正直言って僕にはくまさんの表情や仕草が読めないからなのだけれど。


「ここでただぼんやりと暮らすんだったら、私たちと一緒に暮らそうよ」


 まあ、そりゃ住むのは可能だけれど。僕と姉さんと、ここにはいない兄が一人、僕らは今三人暮らしだ。両親は亡くなってしまっているけれど、もともと、今住んでいる地方都市に暮らしていたわけで、家も古いが一軒家で、長兄は年下の姉の言うことには逆らわない(逆らえない)人だから問題はないだろう……って、いやいや、いくら地方都市でもくまさんが家の中にいるって、しかもツキノワグマでは論外だ。けれども、どうや姉さんは本気らしい。僕は止めなければと口を開こうとしたとき、くまさんはぽつりと言った。


「いいのかな?」


 くまさんが戸惑ったように言う。

 姉さんは無言のまま大きく頷くと、ほんのりと朱いままの右の耳たぶに手をやると、ぶら下がっていた小さなイヤリングを外した。月明かりにきらきらと輝く小さな貝殻のイヤリングは、姉さんのお気に入りなのを僕は知っている。

 姉さんは無言のまま、とても満足そうな笑みを浮かべて、くまさんの前足というか、右手を取ると、肉球の付いて手のひらを上に向けさせて、そっとイヤリングを置いた。



 結局、くまさんはうちにいる。今、我が家は三人と一頭暮らしだ。

 けれども正確に言うなら、一頭と言うよりは一体と言った方が正確だと思う。

 あの日、僕らと森を出ようとしたくまさんは、「このままじゃまずいだろうね」と言ったあとに、なにやら座り込んだまま何事かを呟いていたが、数秒後に突然沸いて出た煙と共に姿は消え、くまさんが座っていた切り株には、ティディベアに似たくまのぬいぐるみが置かれていた。

 そして、お察しではあろうが、そのぬいぐるみは動いてしゃべった。

 どうやら使える魔法のぎりぎりがこのあたりらしい。姉さんが驚喜して絶叫しながら、くまさんに抱きつき抱え上げたのは言うまでもない。

 そして、その姉さんだが、翌日目が覚めると、綺麗さっぱり忘れていた。

 驚くべきことに冒頭からと近いやりとりが再び繰り返され、くまさんは正式に我が家の一員となった。

 わかったことは一つ。

 姉さんは飲んでも飲まなくても、根本的に軽さは変わらないらしい。ま、知ってはいたけれど。

 今日もくまさんは定位置と成りつつあるソファの上で姉となにやらやり合っている。少なくともふたりは楽しそうだ。

 こうして、僕たちとくまさんの不思議な生活が始まったのだが、続きはまた、追い追い語ることになるだろうと思う。何事も起きなければよいのだけれど……

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