②
どうやら、僕の聞き間違いではなかったようだ。姉さんを見ると面食らったような顔をしている。と思いきや、表情が一変して、爛々と目を輝かせ、驚きと共に満面の笑顔を浮かべている。
なに考えてるんだこの酔っぱらいは?
「正確にはこの姿は仮の姿なんだけど、きみたちにはくまに見えているだろうな」
うん、やっぱりしゃべった。間違いない。
「男の子の方は固まってるね?しゃべるくまが珍しいかい?」
にやりと笑う。いや、くまさんの顔が歪んだだけで、本当に笑ったのかはわからない。そう思えただけだ。
僕は答えようとするが声がでない。身体が石膏に固められたように動かなかった。
「うん、珍しいねぇ。すごいよう」
素っ頓狂な声を上げたのは姉さんだった。
まだ酔いかさめてないのか?なかなか図太い神経と常日頃から思ってはいたが、ここまでとは思わなかった。
「へえ、女の人の方は驚かないんだね。なかなかいい度胸をしているね」
「ねえねえ。すごいすごい。握手してよう」
毛むくじゃらの手の先には、鎌ほどあろうかという鋭くぶ厚い爪が鈍く黒光りしている。
「アホか、あんたは!危ないだろうが」
あ、声がでた。
「別にかまわないけど……逃げた方がいいんじゃないかな?普通は」
「あ、普通じゃないんで」
とっさに言った僕も普通ではないんだろうが、姉さんはもっと普通の思考の持ち主ではない。少なくとも姉弟にとっては。傍若無人だ。酔っぱらっているから身内と他人の境が無くなっているようだ。
「あ、ひどいなぁ。姉さんは傷つくわよ?」
「ごめん、失言だった」
「……なるほど、たしかに普通じゃないみたいだね」
くまさんに納得されてしまった。人としてどうなんだろう?悩ましいものだ。
月の角度が変わったのか、すっと月光が射して、あたりの明るさが増した。黒かったくまさんの姿がぼんやりと銀色に輝き、固い体毛に覆われたシルエットが銀幕に現れた映画のように浮かび上がる。
切り株に、人間と同じように腰を下ろし足を組むくまさんは、なにか得体の知れない怖さがあったが、そんなくまさんは、僕の恐怖心などどこ吹く風でそっと右手の一本の爪を差し出した。
姉さんは狂気にも似た、けれどもとても無邪気そうな笑顔を浮かべると、両手でその爪を握りしめた。
「ありがとう。やっぱり固いんだね」
「あまり動かしちゃだめだよ。その指が二度と戻らなくなるかも」
「うん、気をつけるわ」
まるで大人と子供のの会話だ。三十路も近くに見えてきた大人の女性とは思えない。
僕は唖然としたまま様子を見守るしかなかった。
「うん、つやつやですべすべで気持ちいいわ」
「そうかな?よく爪を研いであるくまの姿だからかな?」
よくわからないことを言う。
けれども姉さんはそんな言葉を聞き流すようにして、僕から見れば恐ろしいが、つやつやですべすべらしい、琥珀にも似た爪を丁寧になで続けた。
素面じゃこんな感じの人ではないんだけれど。むしろくまさんをとって食おうかというようなバイタリティ溢れる姉なのだけれど、酒とはこんなにも人を変えるのだろうか?恐ろしいものだ。姉さんが、最後に名残惜しそうに両手でそっと爪を包み込んで、それから手を離したところでくまさんは言った。
「おれが言うのもなんだけれど、そろそろ帰った方がいいんじゃない?おれこう見えて、いや、見えてるとおりならくまだからさ。危ないよ?」
「そうかな?」
「いや、そうだろう!」
僕はたまりかねて姉さんの腕を引っ張った。切り株から半ば強引に立ち上がらせるようにして傍らへ寄せる。
「はしゃぎすぎだよ姉さんは」
「そんなことないですようだ」
姉さんは酔っぱらったままだ。
これ、酔いが醒めてからもちゃんと覚えてるのかな。もっとも、無事帰れたらの話だけれど、くまさんのこの様子なら僕らをどうにかしようと言うつもりがないようにも思える。
「とにかく、どうもおじゃましました」
僕は頭をさげ、ついでに空いた手で無理矢理に押さえつけるようにして姉さんの頭をさげさせた。
「なにするのよう」
抗議の声は無視をする。どうせ覚えてるかわからないのだから、後のことだ。
「うんうん、それがいいと思うよ。はやく逃げた方がいいね」
くまさんはそういって僕の後の方を指さした。おそるおそる振り返ると、そこには色とりどりの花が咲き誇る一本の細い道があった。
月明かりに照らされて色彩を失ってはいるけれど、昼間なら目が痛いくらいに華やかだろう。
「ありがとう」
「どういたしまして」
僕は文字通り姉さんを引きずって、くまさんが指し示した道を歩き始めた。やがて、十歩ばかり歩いたところで姉さんはあきらめたように渋々と足を動かし始めた。
「なによう。せっかくしゃへるくまさんに会えたのにい」
「いやいや、姉さん、くまさんがしゃべってたら普通怖いでしょ」
「どうしてよ。別に人語をしゃべるからって襲いかかってくるわけじゃないわ」
姉さんはそういいながらも足を動かしてくれる。
森の中は暗かったけれど、かろうじて木の葉の隙間を縫うように月明かりがぼんやりと道を照らしてくれている。
「そうだけれど、いや、くまさん自体、こんな森の中で会ったら怖いものだと思うよ」
「そうかな?」
「そうでしょ」
「おれも、そう思うよ」




