その3
それはネコのような生き物だった。
だが明らかにネコではなかった。
まず二足歩行である。
そしてブクブクに太っている。
頭も胴体もまん丸で、全身は薄いオレンジ色だ。
顔は頭部の上半分に小さく収まっており、両の頬から長いヒゲが3本ずつ生えていた。
尖った耳や緑色の目がなければ、まるで手足の付いたヒョウタンである。
ヒョウタンネコの口が開く。
「お嬢さん、少しお時間よろしいかニャ」
「うきゃあああ‼︎」
ツバメは悲鳴を上げ、尻餅をついた。
しかしその声に、ネコもどきの方もかなり驚き、そして慌て出した。
「落ち着いて。悪さはしないモニャ」
そう言って右前足を差し出すと、そこには黒いアタッシュケースが握られていた。
「あなたにいいものを持ってきたんだモニャ」
とネコがケースを開くと、中には様々な色をした毛虫のようなものが、標本のように並んでいた。
ツバメにはそれが何かわからなかったが、どれどれと覗き込んで確かめるようなこともしなかった。
実際、毛虫だったら非常に気持ちが悪いし、今はそれどころではないからだ。
ネコが喋っている。
逃げなくては。
ツバメはそう思ったが、足が動かなかった。
力が入らず、立ち上がることができない。
身体中の血液が冷えて固まってしまったようだった。
恐ろしいというより、自分の目に映っているものが受け入れられていない。
見れば見るほど現実感のない、嘘くさい光景である。
そろそろ気絶しようかな。
そうツバメが思っていると、ネコはひょこひょこと近づいてきた。
目の前の少女が黙っているのを、話を聞く姿勢と受け取ったようである。
ネコはアタッシュケースの中から謎の物体の一つを手に取り、ツバメに向かって差し出した。
「あなたはずばり、ヒゲに興味がありますニャ?」
「はあ?」
謎の物体。
その正体は付けヒゲだった。
おそらく鼻の下に付けるのだろう、短く切り揃えられた茶色い毛の塊が、人差し指程の幅に並んでいる。
「あ、あるわけないでしょう」
ツバメは気が付けば、そう返していた。
どこの世界に、付けヒゲに興味のある女子がいるというのか。
少なくともツバメの身近にはいない。
もしかしたら父の日のプレゼント用に購入したい、という娘がいるかもしれないが、その需要はかなり低いはずである。
「セールスの仕方、間違えてるんじゃないの?」
ネコは広いアゴをさすった。
「えー、キミに似合うと思うんだけどニャア」
「わ、私が付ける用なの?ならもう本当にいらないんだけど」
女子に向かってヒゲが似合いそうとは、甚だ失礼である。
「おかしいモニャ。君からはそこはかとなくヒゲへの憧れが感じられるモニャ。あ、この付けヒゲが気に入らないモニャ?安心するニャ、他にもいっぱいあるニャ」
そういう問題ではない。
やけにヒゲヒゲモニャモニャとうるさいネコだ。
しかしこのネコ、とツバメは思う。
日本語を話すというのは恐ろしく不気味だし、ネコっぽい容姿のわりに可愛さもゼロだが、どうやらこちらに危害を加える気はないらしい。
会話を進めるうちにだんだん調子を取り戻してきたツバメは、そこではっと思い出した。
付けヒゲ売りのネコとは、加代が言っていた愚にもつかない噂ではないか。
それなら、これは幻覚か?
自分では気が付かなかったが、疲れがたまっているか何かの理由で、ありもしないものが見えているのだろうか。
加代が訳のわからない話をするからこんな幻が現れるのだ。
試しに、とツバメは腕を上げた。
ネコはすぐ目の前にいる、ように見える。
これが幻覚なら、手で払えば掻き消えてしまうに違いない。
そうツバメは考えた。
勢いよく腕を振り下ろす。
「痛ってえ‼︎」
デブネコの狭い額に、ツバメの手刀がクリーンヒットしていた。
「ボクが何をしたモニャ、とんだ暴力娘にゃ!」
頭を押さえて転げ回るネコを前に、ツバメはようやく立ち上がる。
「幻覚じゃ、ない?」
ネコに触れてしまった手をスカートで拭う。
「ボクは幻覚じゃないモニャ、現実ニャ!」
「やっぱりそうか」
「半信半疑なら、今度からはもっとソフトに確かめるニャ」
「ご、ごめんなさい」
ネコに叱られる日が来るとは、人生何が起きるかわからないものだ。
13歳のツバメがそう思ったときである。
ネコが急に全身の毛を逆立てた。