その3
「親父が亡くなりました」
バイオリン教室で、辻先生が青ざめた顔をして言ったのは2日前、金曜日のことである。
集まっていた生徒は、突然の訃報に凍りついた。
一体どうして、先週まであんなに元気だったのに。
にわかには信じられないツバメや加代は言葉が出てこず、互いに顔を見合わせるばかりだ。
だが、どうやら冗談ではないようである。
「なんでですか」
いつになく小さな、乾いた声で才女が訊くと、辻先生は答えた。
「うちに強盗が入ったんだ」
バイオリン教室を主催する辻先生の稽古は、厳しくも優しい。
ツバメら上級クラスには細かい指導をビシビシとする一方で、初心者である加代には辛抱強く、同じことを何度でも丁寧に教えてくれる。
生徒の実力に合わせたレッスンは評判となり、遠くから通ってくる小中学生も多かった。
さて、当教室には辻先生の他にも、子供達から人気のある大人がいた。
それが辻先生の父親、辻さんである。
辻さんはとうの昔に隠居に入った老人で、たまにフラフラと教室に現れることがあった。
熱心にバイオリンを弾く生徒達を冷やかしにくるのだ。
暇だったのだろう。
辻さんは稽古中だろうがお構いなしに子供達と話を始めるので、そうなると辻先生は困ったように、後にしろ、後ににしろと父親を叱った。
すると決まって辻さんは、残り少ない白髪を掻きながら、「いいだろう、孫とお喋りしたって」と言った。
息子の教え子は皆、自分の孫である、というのが彼の言い分だった。
辻さんの下の名前は生徒の誰も知らず、そして彼は先生でもなければ何の肩書きもない、ただの気さくなお爺さんである。
よって呼び名が、自然と「辻さん」に決まったというわけだ。
ところで、そんな老人には少々困ったクセがあった。
自分の妻の写真を、教室の生徒達に見せたがることである。
10年以上も前に亡くなった辻夫人は、若い頃とても美人だったのだが、辻さんは未だにそれが自慢なのだ。
どういうリズムがあるのかは謎だが、折に触れては写真を持参し、生徒に見せびらかした。
当然、何度も見せられるツバメらの反応は次第に薄れ、というより冷たいものになってくるので、そうすると新しく入ってきた子供が狙われることになる。
加代が通い始めたときにも、当たり前のように辻さんは写真の束を持ってきたものだった。
初めて見た者は皆驚く。
それは辻夫人の美しさにではなく、写真自体の保管のされ方にである。
異常な程に厳重なのだ。
写真を持ってくるとき、辻さんは車輪のついた大きなトランクを引いて登場する。
海外旅行にでも行くのか、加代は最初そう思った程だ。
トランクにはロックが掛かっており、辻さんがそれを鍵で開けると、中にはすっぽりと金庫が収まっている。
その金庫はダイヤル式なので、ジリジリとやって開けると、また金庫が現れる。
2つ目の金庫をまた別の鍵で開け、中から南京錠付きの第3金庫を取り出す。
またまた小さな鍵でもってそれを開くと、今度は装飾の施された木製の箱が顔を出す。
この箱はオルゴールなのだが、とても小さな鍵で上蓋を開けると、パッヘルベルの「カノン」のメロディと共に、ようやく写真が出てくるのである。
常軌を逸した用心深さだが、辻さんは大真面目だった。
それだけ亡き妻の写真を大切にしていたのだ。
盗まれるといかんから。
辻さんは言い訳するように、よくそう言った。
だが、もし盗まれたとしたら不憫なのは泥棒の方なのではないか、とツバメは密かに思ったものである。
「俺が死んだら、絶対に写真を棺桶に入れるんだぞ。忘れるなよ」
辻さんは何度も繰り返し、辻先生に言った。
「わかったから、ダイヤル錠の開け方をまず教えてくれ」
辻先生は決まってそう返した。
そしてついに、金庫の開け方を先生が知る日は訪れなかった。
辻さんが死んでしまったからだ。
その日。
深夜、辻さんが眠っていたところ、1人暮らしの彼の部屋に強盗が浸入した。
まだ暑い季節である。
開け放っていた窓から、悠々と入ってきた強盗は、窓机やタンスを物色し始めた。
その物音に辻さんは目を覚ました。
そして室内に覆面をした男がいるのを見つけると、一切騒ぐことなく真っ先に例のトランクに覆い被さった。
金品など奪われたところで、どうにでもなる。
こちらが大人しくしていれば、泥棒もそのうち出て行くに違いない。
そう思ったのだろう。
辻さんにとって守るべき宝はただ1つ、写真だけだったのだ。
だが、その行動が裏目に出た。
老人の慌てぶりと、頑丈そうなロック付きのトランクを見れば、誰だって貴重な物が入っていると思う。
がめついジジイが溜め込んだ財産が詰まっているに違いない、覆面の下でニヤリとしながら、強盗は辻さんを蹴り飛ばした。
そうしてトランクを奪うと、さっさと部屋を抜け、アパート近くに停めていた車に乗り込み逃げていった。
警察から報せを受け、辻先生が父の死を知ったのは、あくる日の朝である。
辻さんの遺体はアパートから、4kmも離れた空き地の草むらで発見された。
靴を履き、寝巻きの上に外着を着ていたことから、何者かに連れ去られ、捨てられたのではないと推測された。
無謀にも辻さんは、車で逃げる強盗を走って追い掛けたようだった。
何故、通報しなかったのか。
気が動転して考え付かなかったのか、それとも古い写真ごときが盗られたくらいでは大した事件と取られないと思ったのか。
今となっては誰にもわからないことだが、とにかく、辻さんは走ることにしたのだ。
とうに逃げ去った車を探し、辻さんは一心不乱に駆け回る。
その執念は老人の身体にとってあまりに凄まじいものだった。
夜明け前、とうとう道端に倒れると、辻さんはそのまま息絶えたのである。