その4
ハロウィン祭り当日の土曜日。
「やっぱ楽しくない。ただただ恥ずかしいわ」
ナツは仏頂面で自宅の階段を降りてきた。
つばの広がったとんがり帽子と、膝下まである黒いローブ。ローブの肩にはご丁寧に、丸くなって眠る黒猫のぬいぐるみが縫い付けられている。シンプルだが、加代のこだわりが随所に見て取れる衣装だ。
そこにナツの黒髪と濃いアイシャドウが相まって、まるで本物の魔女のようだった。
「はははは、似合うじゃないか」
階段の下、建物の1階はナツの祖母が営むバイク屋である。作業用のツナギを着た祖母が、首にかけたタオルで手を拭きつつ大笑いした。
「ホウキなら物置にあるよ」
「いらねえよ!」
ナツは上がりかまち横の靴箱を荒々しく漁り出す。
「いいや、持ってきなさいよ」
苛立たしげな口調でツバメが言った。
「あんたのせいで時間に遅れそうなんだから」
「ホウキが何の役に立つ……ねえ、ばあちゃん。私の黒いショートブーツ知らん?」
一応それっぽい靴を合わせる気はあるらしい。
「だらしないねえ、いっつも片付けないんだから。それにしてもツバメちゃんの可愛いこと」
ナツの祖母は振り返り、ツバメを眺めてにこにこする。
ツバメもナツと同じ、全身黒の魔女衣装だが、黒ネコのかわりにドクロの首飾りを付けている。そして今日はトレードマークのツインテールをやめ、巻いた髪を下ろしていた。いつもの髪型では、とんがり帽子を被りにくいからである。
「あ、ありがとうございます」
はにかみつつ頭を下げたツバメは、ようやく靴を見つけたナツとともに外へ出た。
時刻は午後4時45分。
西の空に沈んでいく太陽が、たなびく雲をオレンジ色に染めている。
この時間帯の住宅街は人気がなく静かだ。
少し涼しい風のなか、2人の魔女は駅に向かって歩き出した。
「この分だと3分半の遅刻ね。加代に連絡しておこうかしら」
ツバメはローブの中に着たシャツを探り、スマートフォンを取り出そうとする。
そのときだった。
ツバメとナツのすぐ手前、左側。
道に面した一軒家の勝手口が、錆びた音を立て勢いよく開く。
歩きながら、何気なく中を見た2人は揃って足を止めた。
そこにある扉は、ごく普通の民家の裏口である。しかし、その内側は真っ赤だった。
赤いフィルムを通して見たような空間が、四角く切り取られたドア枠の内に広がっている。
ズン。
扉から大きな足が現れた。
人だ。
太い腿、巨大な腕、重そうな腹。赤い光を浴びながら、徐々に露わになる人影。
「なんだ、こいつ」
狼狽する2人の前に立ったのは、異様な出立ちの大男だった。
身長はおそらく2m近い。全身は丸みを帯びているが、しなやかな筋肉でできていることが見て取れる。
頑丈そうな革のブーツと、面積の少ないピッタリとした衣装。剥き出しの胸や腕、膝下には剛毛が生えている。
頭部は綺麗に剃り上げられているが、いかにも凶暴そうな顔の下半分は、黒々とした縮れ毛でびっしりと覆われていた。
「ああぁぁぁん⁉︎」
大男はツバメとナツを見下ろし、濃い眉を歪ませた。
「おぉい、ガキども!」
恐ろしく大きな声だ。ビリビリと空気が震え、まるで雷鳴のような威圧感が少女達にのしかかる。
「紺野ツバメっつうのはどっちだ? あぁぁああん⁉︎」
男は落ち窪んだ小さな目で2人を交互に睨み付けた。
この凶暴な巨漢は、どうやらツバメを狙ってここに現れたらしい。
ナツはちらりとツバメを見た。
ツバメは大男を正面で捉えたまま動かない。
「おぉい、どうした! 答えろガキぃ‼︎」
男は唸り声を上げた。禿頭に浮かぶ青筋が、地上に迷い出たミミズのようにのたくっている。
「誰よ、あんた」
やがてツバメが言った。
「紺野ツバメは私。だけど、あんたなんか知らない」
「あああぁぁぁあん⁉︎」
大男は巨大な両腕を振り回した。小さな少女に生意気な口を叩かれたのが気に障ったらしい。フランクフルトほどもある太い人差し指をツバメに突きつける。
「お前がツバメか! この俺はなぁ、ビアード軍幹部が1人、ランボー・ボークン様だぁあ! 覚えておけコラァ‼︎」
こいつがビアード?
ナツは硬直しつつ、目を見張った。
ビアードとはウィスカーの言うところの「悪の妖精軍団」、つまりツバメ達ヒゲグリモーと敵対する組織の名である。
こんな奴らを相手にしているのか。ナツは驚愕した。
聞けば既に1人倒したらしいが、ナツの想像する妖精は、たとえ悪とはいえ、もう少し可愛げのあるものだった。彼女の知る妖精がウィスカーだけであるため、これはしょうがないことである。
ランボー・ボークンは尚も荒々しい声を上げる。
「おぉい、ヒゲグリモー! 今すぐウィスカーの居所を吐け! 言わなければ殺す! わかったか! あぁぁああん⁉︎」
両手の指をバキバキと鳴らし、ランボーはツバメを見下ろした。
激しい鼻息。今にも掴みかかってきそうな様子で、会話など通じそうにない。
しばらく黙っていたツバメは、やがて口を開く。
「まったく何の話かわからないんですけど。ヒゲがなんて? 他の誰かと間違えてるんじゃないですか?」
呆れたような口調でしらばっくれた。
その物言いにナツは血の気が引いたが、直後ハッとする。
ランボーと名乗る大男は、ツバメをヒゲグリモーだと目星をつけた上で、ここへ現れた。どこでどうバレたのか、それは当たりである。
しかしこの男が確たる根拠を得ているとは限らない。シラを切り通して済む可能性が少しでもあるならやるべきだ。
だからツバメは知らないフリをしている。と、即座にナツは理解した。
だが、見るからに危険な相手に、普通は嘘を吐くことなどできない。
ツバメの度胸と頭の回転の速さに、ナツは感心を通り越し呆れる。
「あああぁぁぁああん⁉︎」
案の定、ランボーはまたも大声を上げた。ツバメの舐めた物言いに怒り狂っている。
「お前がヒゲグリモーだってことはわかってんだよ! 歯向かう気ならさっさと変身しろ! 勝負しやがれ!」
「何が勝負よ。意味不明」
ツバメは怯まない。何も存ぜぬを通す気である。
「おいツーちん」
ナツは小声で呼んだ。
「こいつヤバそうだぞ。こんな奴煽って勝てんの?」
「勝てるわけないでしょ。そもそもヒゲはウィスカーに返納してるんだから」
ツバメは前を向いたまま、唇を動かさずに答えた。
「マジかよ」
涼しい夕風の中、冷えた汗が頬を伝うのをナツは感じた。見れば、既にツバメの額にも玉の汗が滲んで光っている。
「とにかく相手にしないこと。それしか私にはできないの」
ツバメは小さく言ってから、今度は声を張り上げた。
「これ以上変なインネンつけて騒いだら警察を呼ぶわよ!」
「警察ぅう⁉︎」
言われたランボーは片眉を上げ、キョトンとする。そして爆音で笑い出した。
「ブワハハハハハハァ! こりゃおかしいや、この俺様がそんなもんにビビるかい! ハハハハハハァ!」
ランボー・ボークンは突如、地を蹴った。その巨躯に似合わぬ俊敏さで突進してくる。
次の瞬間、ツバメの胸ぐらを丸太のような腕が掴んでいた。
衣装の裂ける音とともに、ドクロの首飾りが地面に落ちる。
「ぐおえっ」
ツバメは激しく揺さぶられながら、くぐもった声を上げた。
「ツーちん!」
ナツは叫んだが、動けない。釘で打ち付けられたかのように、足が地面から離れなかった。
「ナメた口ききやがって!」
ランボーは腕を振りかぶった。
「いいか、紺野ツバメ! 3秒以内にウィスカーの居場所を言え! 少しでも過ぎればお前の豆粒みてえな鼻に拳を叩き込む! 痛えじゃ済まねえことはわかるよな、あぁあん⁉︎」
「ナツ」
軽々と持ち上げられながら、ツバメは言った。
「逃げて」
ナツは耳を疑った。
こんな状況で他人の心配をするツバメが信じられなかった。
ツバメは尚も言う。
「身に覚えはまったくないけど、こいつは私に用があるんだって。だからあんたは行って」
しかし、ナツはやはり動けなかった。ガクガクと震える脚に力が入らず、彼女は地面にへたり込む。
逃げることも、ツバメを助けることもできない。ただただ目の前の野蛮な大男が恐ろしかった。視界に立ちはだかるランボーの姿が、更に膨らんでいくように見える。
否。
恐怖による錯覚なんかじゃない。
ナツは気が付いた。
ランボーは大きくなっている。登場したときよりも全身が一回りほど巨大化していた。身長は明らかに2mを大きく超えている。
なんだこいつは。
見上げるような巨漢は、ふと気付いたようにナツの方を向いた。
「この俺様がそんなに怖いか」
ランボーはヒゲに囲まれた口をニヤリと歪め、ツバメを放り出した。
「こっちに聞いた方が早そうだな。そうだろ、紺野ツバメ」
「や、やめて!」
ツバメは叫ぶ。
「その子は関係ないでしょ!」
「こいつは関係ない?」
ランボーは聞き逃さなかった。
「じゃあお前はヒゲグリモーと関係があるんだな⁉︎ ああん⁉︎」
「し、知らない! あんたは私にだけ用があるんでしょってことよ!」
「往生際が悪いぞ! そんなごまかしがこのオレ様に通用すると思うのか」
ランボーはナツの目の前に立った。
座り込んだまま声も出せないナツに向かって腕を伸ばす。
「いいか、紺野ツバメ! これが最後だ。ウィスカーについて知ってることを全て吐け。さもなきゃあ、この関係ないダチが八つ裂きになるぞ!」
ツバメは拳を握りしめ、ランボーを下から睨み付けた。
「私は何も知らない。だからあんたに与える情報なんか1つもない」
怒りに震える声で言う。
「でもこれだけは言っておくわ。ナツを少しでも傷付けたら、絶対に許さない。私が相手になるわ」
ランボーはツバメに向き直った。
「バハハハハハハッ! やっとやる気になったか!」
恐ろしい顔で笑いながら、両腕両足を広げ立つ。
「さあ、変身しろ!」
ツバメはゆっくりと握り拳を作り、顔の前で構えた。
「来なさいよ」
「あぁ?」
ランボーの顔から笑みが消え、みるみる赤く染まっていく。
この期に及んでツバメは変身しようとしない。ヒゲグリモーなど知らないという姿勢を崩さないつもりである。
「いい度胸だな、クソガキ。ウィスカーに選ばれただけはある」
ランボーは地鳴りのような低い声で言った。
「このままここでブチ殺してもつまらん。よし、場所を変えるぞ」
「は?」
「今からオレ様は駅前の交差点とやらで待つ。必ず来い」
駅前交差点。
それはツバメが向かおうとしていた場所、つまりハロウィン祭りの中心地である。
「な、なんでそんなところで……」
突然の提案に、ツバメは動揺した。
しかし、ランボーは意に介さない。
「オレ様を怒らせたお前には最高の舞台を用意しておいてやる。今日は見物客も多そうだ。もしお前が来なければ、一般市民がどうなるか想像できるな?」
「そんなの、私が行くと思うの?」
「ククク。オレ様はどちらでもいい。誰彼かまわずウィスカーの情報を聞いてまわるだけだ。少々手荒になるかもしれんがなあ」
「なんで勝手に話を進めて……」
「開始は5時きっかりだ。遅れるな」
「待ちなさいよ!」
ランボーは不気味な笑みを浮かべつつ、後ろへ退がる。
そして、元来た赤い扉の中へと消えていった。
錆びた音を立てドアが閉まる。
俄かに静寂を取り戻す道の上。
ツバメはがくりと膝を落とした。
よほど気を張っていたのか、気付けば息が上がっている。
「何だったんだ、あいつ……」
震える声でナツが言う。
「知らない。けど、ビアードらしいわね」
「どうすんだよ」
「とりあえず駅前に向かう。どうするかはこれから考えるけど」
何故ツバメがヒゲグリモーだとバレたのか。何故このタイミングで現れたのか。そして突然、戦う場所をハロウィン祭りのど真ん中に指定してきたのか。
唐突な展開に頭が回らない。が、落ち着いて考えるヒマもない。
ツバメはスマホを取り出し、時刻を見る。
「あ、あいつ! 5時って、あと5分じゃないのよ!」
ツバメは立ち上がり、走り出した。
「ここから駅まで、急いでも10分はかかるぞ! しかもツーちん、変身できないんだろ⁉︎」
後ろからナツが叫んだ。彼女は走ることができない。
「会場には加代がいるのよ!」
ツバメは振り返らず大声で返した。
正直、ランボーとやらが何をしようがどうでもいい。だがもし奴の暴れ出した先に加代がいたら。そう考えると居ても立ってもいられなかった。たとえできることが何もなく、生身のまま立ち向かうことになろうとも。
ツバメはローブの裾を捲り、長い影を引きながら走る。
そのとき。
後方から音がした。
ドルルン。
ドルルルルン。
獣が唸るような低い響きが、住宅街の静寂を破って近付いてくる。
バイクのエンジン音だ。
そう気が付いたツバメは、走りながら道の脇に寄った。前を向いたまま、早くも息を切らしつつ全速力で地を蹴る。
しかし、爆音を鳴らすバイクはツバメを追い抜いていかず、やがて彼女の隣にぴたりと並んだ。
「どうしたんだい、ツバメちゃん」
名前を呼ばれたツバメが振り返ると、派手な大型バイクに乗った、黒いジャケットとヘルメットの人物がこちらに顔を向けている。
「まーだこんなとこにいたのかい? 約束の時間に遅れちまうよ」
フルフェイスのシールドを持ち上げてみせたのは、ナツの祖母だ。
「お、おばあさん。どうして」
ツバメは肩を上下させながら立ち止まった。
「仕事終わりの散歩だよ」
ツバメの目の前でバイクを停止させ、ナツの祖母は言った。
「おい、ばーちゃん! なんで私を追い抜いてくんだよ」
青白い顔のナツがふらふらと追い付いてきた。たったの100mほど急いで歩いただけで苦しいらしい。
「こんなとこで油売って。ナツがまた何かをめんどくさがったんだろ!」
「違えよ!」
「まったく、しょうがないねえ。いいよ」
彼女は親指でシートの後ろを指した。
「2人とも乗りな。駅まで連れてってやるよ」