久しぶりの街
リケルはまず、身なりを整えることに決めた。
髭を剃ったとは言え、纏う服はただの布切れのようなものだ。それに風呂にもずっと入っていないから全身が血腥い。
このままでは歩いているだけで自警団に捕まってしまうだろう。
まずは宿へ向かわなければ。
5年振りに外に出たリケルは街を歩く内に、見慣れない建物を見つけた。
「……冒険者……ギルド?
冒険をするのか?」
この5年間の間に何があったのかも知らない彼には、まさか伝承の生物である魔族が現れたことなど見当もつかない。
興味が湧いたリケルだったが、ひとまずは宿へ向かうことが先決だ。
5年前に訪れた時とは大きく変わっている街並みを堪能しながら、彼は歩を進めた。
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「……どうやらここが宿らしいな」
【火鳥亭】と書かれた看板をまじまじと見た後、リケルはその建物の中へと入った。
「いらっしゃ…………い?」
乞食のような格好をしたリケルを見て、受付の陽気そうな男は思わず顔を顰めた。が、特に追い出そうとしたりする様子もない。
てっきり邪険に扱われると思っていたリケルは、比較的普通の扱いを受けることに戸惑っていた。
「ん?俺がなんで露骨に嫌な顔をしないか不思議かい?
そりゃあもちろん最初はびっくりしたけど、うちにとっちゃあ金さえ払ってくれればみんな同じ客よ。
そんな格好でもこの店に来てくれたってことはちゃんと泊まってくれるんだろう?」
「……あ」
そこでリケルは、自分が一文無しであることに気付いた。
長い時間同じことの繰り返しで、通貨という概念すら忘れかけていたのだ。
「……いや、すまんが金は」
「おい、そこのてめえ。汚い格好で店に入ってくるんじゃあねえぜ?俺の部屋まで汚れちまう」
リケルが話そうとすると、後ろから何者かに肩を掴まれる。
後ろを振り向くと、あからさまに鼻をつまみながら、筋肉隆々な男が彼を罵った。
「……確かにそうだったな。すまない。
今すぐ店を出よう」
「あ、ちょっ、お客さん!」
普通の人間ならなにか抵抗を示したくなるものだが、リケルは元々人への配慮は人一倍心がけている人間である。
まずはどこか身体を洗える場所を探そうと、彼は出口へと歩いた。が、
「おぉ~っと、すまねェ!足が滑っ……なッ!?」
大男がわざとらしくリケルに足を掛けようとする。
しかし伸ばした足は彼に届くことはない。
ありえない反射で彼はバックステップを踏み、足を避けたのだった。
「……なるほど、足が滑ったのか。それならしょうがない。
だが、滑るということはそれだけ掃除が行き届いている証拠だな。良い宿だ」
リケルは至って真面目に言ったつもりだったが、大男はそれを挑発と受け取ったようだ。
顔を真っ赤にしてキレている。
俗に言う天然であるリケルはそれに気づかない。
「からかってるんじゃあねェぜ、おっさんッ!
……馬鹿なヤツには少し痛い目を見てもらう。今更謝ってもよ……後悔するなよッ!!」
男はそう言い終わる前に拳を振り出した。
宿屋の男も自警団を呼ぼうか迷っている様子だ。
しかし大男はついぞ、台詞を最後まで言い終えることは無かった。
「ぶべっ!?」
リケルは大男に対して反撃をしたわけだが、それは拳でも蹴りでもない。
その位置からほとんど動くことなく、男のおでこに、デコピンをしただけだ。
その衝撃で男はまるで背中を思い切り引っ張られたかのように後ろに吹き飛び、宿の壁を破壊してなお後ろの民家に突っ込んでいった。
「……悪りぃ。指が滑った」
リケルの言葉は男のそれとは違い、正真正銘の事実である。
彼が5年間閉じこめられていた場所には、背徳者と呼ばれる、リケルのように15歳の儀式において魔力を授かる事がなかった者の他に、凶悪な犯罪者などが幽閉されていた。
そして、裕福な家の出身であるリケルは彼らに貴族と勘違いされ、毎日の残酷ないじめを受けていたのだ。
そして2年もした頃、彼は後ろから不意に殴られることに慣れ、360度全方位からの攻撃に反応することができるようになっていた。
もちろん、誰でも出来ることではなく、少しながら剣の才能を持っていた彼だからこそできた芸当である。
「お、おぉ、すげえ!あんた冒険者か?
さっきの奴は最近ずっと朝から五月蝿くて客からも苦情が来てたんだよ!
しかしあの体格だから怖くて言い出せないもんで……
しかし、あれをデコピンで倒してしまうなんて、相当高いステータスを持っているんだな!」
リケルはここでもまた、冒険者という単語を耳にした。
行くあてもない彼にとって、まずは街の現状を把握することが最優先だ。
そのため、先程からよくみる冒険者というものについて男に聞くことにした。
「む、あんた冒険者じゃあねえのか。
意味としては言葉通りだぜ?依頼されたものを集めたり、魔物を倒したりだな」
「……魔物?」
思いもよらない単語を耳にしたリケルは思わず聞き返す。
「ああ、魔物だよ。3年前の「反転」で現れ始めたじゃねえか。
まさか知らないなんてことはねえよな?」
「あ、ああ……」
まさか、物語の中の生き物である魔物が現実に現れたとでも言うのか。
リケルは内心で少し期待を寄せていた。
もし本当に魔物がこの世界にいるのなら、戦ってみたいと子供の頃からずっと願っていたのだ。
身体は20歳のものになり、5年間の苦行で少しの悟りを開いてしまったように思われたリケルであったが、心の中は15歳の青い精神のままなのである。
「わかった。ありがとう」
リケルが礼を言ってさりげなく店を出ようとするが、宿の主人はそれを見逃すはずもなく、彼を止めた。
「お客さん。あの男をぶちのめしてくれたのはありがたいけど…………壁の修理代が、ね?」
「げっ」
主人の執念に思わず顔をしかめるリケルであったが、小さい頃から教わっていた騎士道精神がほんの少し残っていたのか、宿屋から逃げることはしなかった。
「……分かった。しかし、実は……その、今は手持ちが無くてな……」
「はぁ!?」
申し訳そうにいいリケルだが、主人は思わず大声をあげる。
「……なんだあんた、その身なりからしてやっぱり訳ありってわけか……。
けど、こっちも壊されたもんは戻ってこねぇ!金が払えないなら住み込みで働きやがれ!」
「は、はい……」
主人の剣幕に、思わずリケルは竦む。
幾多の犯罪者の恐喝にも動じない彼も金の請求には勝てない様子だ。
「……?待ってください、住み込みってことは……」
「ほら、部屋の鍵だ。メシは朝と夜出してやるよ」
「……!主人!ありがとう!」
「そんなに感謝されちゃあ、こっちが恥ずかしいぜ」
2人が笑い合う。
リケルが、5年振りに見せた笑顔だった。
「お父さん?すごい音がしたけど何かあったの……?」
店の奥から出てきたのは、この宿の人気の理由とも言える、若い女性だった。
その可愛らしい姿に、リケルはおもわず見とれそうになる。
「──ああ、紹介するよ。俺の娘のソニアだ。
人と話すのが苦手な子だが、まあ仲良くしてやってくれ」
「よ、よろしくお願いします……?」
「ああ、こんな姿ですまない。
訳あって今日からこの宿に住み込みで働くことになった。
リケル…………ただのリケルだ」
ソニアは少し怯えた様子だが、事情は理解したようで、互いに軽く自己紹介を終えた。
「まだ完全に信用したってわけじゃないから書類仕事は任せられんが……あんたの腕なら素材調達が捗りそうだな」
「ああ、それで構わない」
「あ、1つ言い忘れてた」
「……?」
「うちの娘に手を出したら────分かってるよな?」
リケルは背筋が凍った感覚を覚えながらも、はいと答えた。
この店の主人は凶悪犯よりも怖いと、彼は確信したのだった。
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