決別
「……は?ど、どういうことだよ、リケル。
なあ、俺の聞き間違いか?
マックスが、いやいや、そんなわけ、今日も、」
「聞き間違いだと思うのならもう一度言う。
マックスさんは帝国のスパイだ」
「んなわけねえだろ!」
バルドが声を荒らげる。
睡眠を邪魔されたからか、あるいは感情の昂りからか、彼の両眼は赤く充血している。
「あいつがスパイなんかやるわけねぇ!」
「ああ、俺だってそう思いたいさ」
「俺たちが作ったんだ!」
いきなり文脈のないことを言い出すバルドに対して、リケルは眉をしかめる。
「あのギルドは、俺たちで作ったものなんだよ……!
お前には話してねぇけど、俺たちにも辛ぇことがたくさんあって、それを乗り越えて、心機一転頑張っていこうっつって立ち上げたギルドなんだ!
最初からあいつに突っかかってったお前には分からねえかもしれねえけどよ……!」
「分かるさ。積み上げてきたものが壊れてしまう辛さは俺にだってわかる。だけど、これは言わなきゃいけないことだろう」
「だいたい証拠がねえだろ!あいつがスパイだって証拠があるのかよ!?」
「ある」
毅然として言い放つリケルに、バルドは少し怯む。
「なあ、バルド、俺だってなんの意味もなくあんなにマックスさんに詰め寄ったわけじゃない。
俺には最初からなんとなく分かってたんだ。
あの人はスパイじゃないかって」
彼の言葉に、バルドは少し安堵したような表情を見せる。
「な、なんだよ、なんとなくって。
はは、やっぱり証拠はないんじゃねぇかよ」
「…………俺には魔力が通っていない。今はな。
だから、見えてしまったんだ。
あの人の頬に青い十字架が刻まれているのを」
「……!」
笑いながら平静を取り戻しかけていたバルドの顔が驚きと悲哀の表情で埋まる。
「魔法か何かで隠していたんだろう。
いや、俺に見えたということは、魔法ですらない。
恐らくは薄い魔力を頬にコーティングさせて十字架の入れ墨を隠していたんだと思う。
十字架を好む人間なんて帝国人くらいしか知らないし、フェルさんからスパイのことを聞いて、それが確信に変わった」
バルドが初めて反論に詰まる。
彼自身、あの場で、マックスとリケルが初めて出会った場でリケルがいきなりマックスに突っかかっていったことを不自然に思っていた。
それが今、マックスがスパイであるということと、リケルがあの時それに気づいていたという事実によって、辻褄が合いつつあるということに、バルド自身が気づいてしまっていた。
「なあ、あの時の俺の言葉…………覚えてるか?」
『────俺はこの王国が嫌いだ。恨んでさえいる。
俺はお前達がやってきた汚い事も全部知っているし、お前達が自分よりも弱いものにしか手を出さない卑劣な人間であることも、理解している。
そんなやり方、まるで隣の帝国のようで惨めだとさえ思ってい────『貴様!』』
回想しながら、バルド自身も合点がいっていた。
リケルが挑発した理由も、マックスがそれに乗った理由も、そして、タイミングも。
「もっと早くに俺を止めても良いはずだった。
しかし、実際にはマックスさんは俺が帝国を侮辱し始めた途端に掴みかかってきた。
それが答えじゃないのか?」
『おまえは確かに心の中に1本の芯のような堅い信念を持っている』
あの時リケルがマックスに言った言葉だった。
────彼はその時にはもう気づいていたのか。
「バルド、そういうことなんだ。
だから、俺たちは今のうちに逃げなきゃいけない。
おそらくは今頃、部屋にマックスさん率いる舞台が侵入していて────」
「すまねえ」
言葉に割り込んだバルド。
リケルの表情は変わらない。
「それでも、俺はダメだ。
ここで逃げるってことは、マックスとはもう会えなくなるってことだろ?
悪いが………………オレには無理だ」
バルドが顔を下げる。
リケルは初めから分かっていたような顔で口を開く。
「本当に、ダメか?お前の任務は最後まで俺を手助けしてくれることじゃなかったのか?」
「……悪いな。契約破棄だ。
違約金ならいくらでも払う。それでも俺は、マックスを捨てられねぇよ」
バルドは顔を下げたまま、リケルと目を合わせようとしない。
リケルは、少し笑った。
「そうか、それならいいんだ」
「……え?」
リケルは笑みを崩さない。
心は全く笑っていないのに。
「お前の気持ちもすごく分かるよ(頼む、今なら間に合う)」
彼は最初からこうなることを期待していたとさえ思わせる口ぶりで続ける。
「バルドにとってマックスさんは、それくらい大切な人なんだろうって思ってた(それでもついてこい、そう言うだけでいいんだ)」
「俺は別に付いてくることを強制するつもりもない。
お前が選んだ選択だ(初めて出来た友達なんだ……!失いたくない……!付いてきてほしい!)」
「だから……(言え!今しかないだろリケル!自分に嘘をつき続けるのは─────)」
「さよならだ、バルド。またどこかでな」
リケルは振り返らなかった。
振り返ることが出来なかった。
後ろを向いて、もしもバルドが安心したような笑顔を見せていたらと思うとどうにも吐き気がして耐えられなかった。
彼にとってバルドは友達でしかなかったが、妻に対して浮気を憎むかのような奇妙な愛情がそこには成立していた。
だから、バルドが自分よりもマックスを選ぶことに耐えられなかった。
一握りの希望を見るために覆い被さるような絶望を背負う勇気を、彼は持ち合わせていなかったのだ。
七日間で芽生えた小さな友情は、十分なほどにリケルの心を満たしていた。
────十分すぎた。
たった七日間、人を憎むことのない幸せな日常を送れたことが、彼には十分すぎたのだ。
ゆえに、飽和した満足感が今度は恐怖となって彼の視界を、脳を、思考回路を蝕んで、正常な判断を奪ってしまった。
今戻ったって、殺されない保証はないだろ。
その一言さえ言えなくなっていた。
優しさと言えない後ろ向きな優しさに、まだ希望が残っている道を塞がれた。
しかし、今のリケルにはそんなことを考えている時間も、感傷に浸る暇もない。
溢れ出る感情を押し殺して、リケルは森に向かった。
「お、おい、リケル…………」
バルドは奇妙な感情に襲われていた。
リケルよりもマックスが大切なのは間違いない。
マックスを選んだことになんの後悔もない…………はずだった。
普段ならばここまでの喪失感を味わうことは無かっただろう。
自分にとって大切な方を選んだだけ、そう割り切れるはずのバルドの心に残っていたのはたった一つ。
「俺だけ仲間はずれにするんじゃねえよぉ…………」
自分が知らないうちに親友は聡く頭を巡らせスパイの正体を見破り、家族は同じ故郷を持つ仲間なのにも関わらず知らぬ間にスパイとして活動していた。
その間、自分だけが馬鹿みたいに未来のことを想像して笑っていたことに、ひどく疎外感を感じていたのだ。
抑えていた涙を解放したバルドは、しばらく動くことが出来なかった。
兎にも角にも、七日間顔を合わせあった二人はこうして一度、袂を分かちあった。