名前
「ば…………ばかな………俺の読みが外れたってのか……」
地面に倒れ込みながら大男は歯を食いしばる。
対するリケルは既にボウガンのダメージは完治し、右手には黒い刃を持っている。
「くっ…………『乱風』ッ」
リケルがとどめを刺そうとした瞬間、男の体から強い風が吹き出す。
目の乾きと体が浮くような感覚に耐え、リケルが目を開けると既に大男はいなかった。
街へ逃げたのかと、リケルが偵察用の黒蝶を生み出そうとする。
「こっちだぜ」
『ッ!!』
「うおおおおおおらあああああああっっっ!!」
男は後ろにいた!
満身創痍ながらも立っていた!
両足を魔法の楔で地へと縛り付け、両手は魔の鎖で斧に絡めながら、決してこの機会を逃さぬように立っていた!
そして、街中に響くような雄叫びを上げながら、全身全霊を込めて、斧を振り下ろしたのだ!
「俺の…………勝ちだ」
リケルの左胸から右下腹部にかけて鮮血が飛び出す。
彼がよろめき、凍てつくような視線を向けながらも地面に倒れ込むのを見て、大男も力を失うように倒れたのであった。
「やってやったぜ……バルド様の大勝利だ…………」
緊張が解けた途端、男の口からは堰を切るように赤黒い液体が溢れる。
「ゴホッ……しかしこいつの顔、何処かで見たことあるような……」
大男バルドがちらりとリケルに目を向ける。
彼の肩には、一匹の黒蝶が止まっていた。
「ッ!!『風刃』ッッ!」
ぎょっとした顔で魔法を撃ち出す。
しかし、蝶は華麗な動きでそれをかわし、バルドの頭の横に止まった。
『菫コ縺ョ蜍昴■縺?』
突如として、視界を埋めつくすほどの数の黒蝶が現れ、バルドの頭上を飛び回る。
「ありえねぇっ!確かに俺は奴を斬ってやった!手でも足でもねぇっ!胸を思い切り斬りおろしてやったんだぞ!?」
焦りながらもバルドが風の刃を撃ち出すが、多勢に無勢、数匹の蝶は撃ち落とすものの、彼の体には既に傷口が見えなくなるほどの蝶が張り付いている。
「こいつら…………俺の血を…………吸ってやがる………!」
朦朧としていくバルドの視界に1つの人影が映る。
リケルである。
バルドが倒したのは彼本体ではなかったのだ。
バルドにに倒されたのは黒いオーラで作られた分身であり、あの黒蝶こそが彼自身であった。
リケルは今度こそ勝ちを確信し、ゆっくりとバルドに近づく。
バルドの視界にもそんな彼が映る。
しかし、彼にはそれが全く違うものに見えていた。
「アイリス…………すまねえ………帰れそうにねぇや…………」
愛する妻の名前。
血液不足とリケルの魔術によって幻覚を見ながらバルドが呟いたのは、彼の帰りを心待ちにしている妻の名前であった。
「それに…………アルド…………サリーも…………」
バルドは連想していくように、今度は息子と娘の名前を口にした。
「やけに…………長いな…………タフだから…………なかなか死ねないのか……」
バルドはフッと笑う。
失血の影響で既に痛みは麻痺しているのか、辛そうな素振りはない。
しかし彼は、腕に感じる生暖かい感触にふと我に返った。
「い、いいや……血が流れている……!傷口から蝶が消えてやがんだ……!それどころか、蝶が1匹も見当たらねぇ……!」
残った力を振り絞ってバルドが目を開けると、そこには苦しむリケルの姿があった。
「な、なんだ……?何が起きてやがる……?」
彼を包む黒いオーラも、今までは彼の体を守るように密着していたのが、今ではゆらゆらと燃えるように揺れている。
『ぐ、ぐがぁぁああぁあぁあぁぁぁあ』
リケルが不気味な声を上げる。
次の瞬間、突然彼の体から黒いオーラが霧散する。
黒い粒子となって宙を舞っていたオーラは、しばらくすると霧のように消えていった。
リケルが力を失ったように地面に倒れ込む。
「よ、よく分からねえが…………助かった…………のか」
自分が生きていることに安堵するも、リケルの生死を確認する間もなく、バルドは意識を失った。