旅する男
『 旅する男 』
Sancho nací, y Sancho pienso morir.
サンチョとして生まれたおいらは、サンチョとして死ぬつもりでがす。
ドン・キホーテ 後篇 第四章 サンチョ・パンサの言葉
平成二十二年( 2010年 ) 五月三十日(日曜日)
初夏のカスティージャ・ラ・マンチャの草原はどことなく柔らかい印象を与える。
ラ・マンチャ地方と言えば、ドン・キホーテの故郷であり、不毛の荒野を連想させるが、五月末のこの季節は新緑の季節であり、緑豊かな草原が広がっていた。
私は『アバンテ』と呼ばれるスペイン国鉄の特急電車の車窓から飛び去るように流れていく風景をぼんやりと見ていた。
電車はトレドの駅からマドリッド・アトーチャ駅に向かっていた。
午後四時を過ぎていたが、スペインの太陽は未だ強烈な陽射しで周囲を照らしている。
スペインの太陽は疲れを知らないアスリートのようだ。
惜しみなく、煌びやかな光を辺り一面に撒き散らしながら、輝き、生を謳歌している。
時々、車窓を紅い絨毯が過ぎっていく。
アマポーラが群生する真紅の絨毯である。
アマポーラという優しい響きを持つ花は、日本では、雛罌粟と呼ばれ、虞美人草という優雅な別名も併せ持つ可憐な花である。
美人の柳腰を思わせる、なよなよとした茎を持ち、少しの風にも揺らいでみせる色っぽい花だ。
トレド駅の構内から見える野原にも、肩を寄せ合うかのように密集して咲き誇っていた。
今、私はスペインを旅行している。
会社にはリフレッシュ休暇なる制度があり、私のように入社後、三十年を経た社員には五日間という休暇とそれ相応の旅行クーポン券が支給される。
前後で、土日の休日を挟めば、九日間の実質休暇となる。
金よりも、九日間の実質休暇が認められるということが何よりも有り難かった。
金は何とか自由になるが、時間はなかなか自由にはならないからだ。
その制度を利用して、五月二十九日に成田を発ち、マドリッドを経由してトレドで一泊した後、今、トレドからマドリッドに向かう特急電車に乗っている。
トレドもなかなか風情のある古都で、夕方、ソコドベール広場から出発するソコトレンという名物の観光バスに乗って、トレド市内を囲むように流れているタホ川に沿って、トレドの街全体を眺めたが、画家エル・グレコが描いた中世のトレドがそのまま現代にも生きているといった印象を受け、強い感動を覚えた。
久し振りに、街全体が醸し出す雰囲気、情緒に十分浸ることが出来、芳醇な酒に酔ったような気分になった。
トレドにもう少し滞在していたいという気持にもなった。
でも、今回の旅の主要な目的は、マドリッドにある三大美術館所蔵の絵画を十分堪能することであったので、トレドは一泊だけにとどめ、マドリッドで五泊するように旅程を組んでいた関係で、これ以上のトレド滞在は諦めた。
妻は、連れて来なかった。
私と旅行をするということ自体、妻は望まないようであったし、私もそれほど強くは旅行に誘わなかったのだ。
結局、今回の六泊八日のスペインの旅は私一人の気儘な旅となった。
会社に長く勤めていれば、恩恵は与えられるものだ。
昇進も可能であるし、昇進と共に、給料も上がり、生活は段々楽になる。
但し、この頃の若者は昇進とか、出世を望まないということがマスコミの調査等で喧伝されている。
これは一体、どうしたことであろうか。
どうも、私には理解出来ない。
私の上の世代、つまり、団塊の世代であるが、その世代で一時、ビューティフルに生きたいというスローガンが流行ったことがある。
ガツガツしない、自分の家族を愛し、世界平和を願って綺麗に暮らしたい、という願望に基づく生き方で、確か、ビューティフル世代とも呼ばれたらしい。
一つ上の世代、それはエコノミック・アニマルと呼ばれた世代に対する反発であったことは確かだ。
一様に、眼鏡をかけ、カメラをぶら下げて、アフリカの奥地にまで、歯磨きなどの生活用品を売り歩く猛烈日本人の姿は何度でも戯画化された時代への反発であった。
しかし、その流れは全体的な潮流とはならず、右肩上がりの経済繁栄の中に埋没し、団塊世代の多くは会社人間、猛烈社員となった。
私が入社した頃も、団塊世代の人間は意識的、或いは、無意識であったかも知れないが、競争の真っただ中に飛び込んで、休日も返上、深夜まで勤務するということが半ば常態と化した人間集団であり、少し遅れてきた世代である私も、その働きぶりに感心し、共鳴もして見習った。
その後、バブル経済が到来、右肩上がりの社会が最高潮に達した時、バブルがあっさりと弾け、一遍に失われた十年、或いは、二十年と呼ばれる時代となり、低成長、マイナス成長といった構造的不況社会が訪れ、デフレ・スパイラルが支配する日本となってしまった。このような社会の中では、昇進して出世しても、うま味は無く、責任ばかり負わされることとなる、従って、昇進も出世も望まず、責任も無い階層で何とか食べていくだけの収入があればいいということになるのだそうだ。
分かりやすいが、何となく、私には腑に落ちない。
入社した頃、配属された工場で、TWIだったか、TWRだったか忘れたが、とにかく、将来の会社幹部候補生として、仕事の進め方、とか、人間の扱い方に関する米国流の集団教育を新入時教育の一つとして受けたことがある。
その中で、興味を引いたのは、『マズローの法則』という概念だった。
人間の欲求を低レベルから高いレベル、つまり、低次元から高次元の階層まで四つか、五つの階層に分ける考え方であったように記憶している。
生存の欲求とか、集団への帰属欲求とか、いろいろな階層があったが、一番高い欲求の階層は、自己実現の欲求であったと記憶している。
最高位の欲求の階層とされる自己実現の欲求とは、帰属する集団の中で自分がトップに立ち、自分がデシジョン・メーカーとなり、自分の考え方で集団を導いていくことだ。
少し歪曲した考え方かも知れないが、私はそのように自己実現という概念を理解した。
昇進し、出世し、組織の中で自分の確固たる地位を築いていくということはまさに、この自己実現ということでは無いのか。
くだらない上司が居れば、反発し、反面教師としてその轍を踏まないようにし、くだらない同僚が居れば、そいつに牛耳られないように、そいつの上に立つようにする。
これが、帰属する組織をより良いものにする手段であり、自分も自己実現を果たし、満足する人生を可能にするものではないか。
私には、昇進も望まず、出世も望まないという生き方は、負け犬根性であり、引かれ者の小唄としか思えないのだ。
いつか、このように言って、息子からひどく反発されたことがあった。
お父さんのせいで、僕は今まで家庭の温かさを覚えたことは無いのだと息子は言うのだ。
忙しさにかまけ、子供の面倒をみなかったことで、息子は私を批難した。
呆れたことに、息子に同調して、娘もそう言って、私を批難したのだ。
頭に血が上り、つい、お前たちは誰のお蔭で、何不自由無く暮らしているのだ、と私は言ってしまった。
しかし、この言葉は、どこかで聞いたことがある、とその時思った。
何のことは無い、昔、卓袱台をひっくり返しながら、親父が言った言葉だった。
特急は三十分ほどで、マドリッド・アトーチャ駅に到着した。
昨日、成田からフランクフルト空港を経由して、マドリッドのバラハス空港に着き、すぐにバスに乗って、トレドに行ったので、アトーチャ駅は初めて訪れる駅であった。
電車から降りて、歩くにつれて、妙に蒸し暑くなった。
周囲を見渡して、納得した。
電車のホームを出ると、熱帯植物園となっており、私は知らず、その熱帯植物園の中を歩いていたのだ。今の季節では蒸し暑く感じるものの、秋とか冬になれば別で、暖かい心地良さを感じることとなるのだろう。ユニークな駅だと思った。
キャリーバッグをずるずると引きずって歩きながら、私は思った。
一つ上の世代は団塊の世代と呼ばれ、現在の年齢構成では圧倒的上位を占めている。
私が入社した頃の直属の上司はまさにこの団塊の世代の人間であり、小学校入学以来、中学、高校と、五十五人編成のクラスに押し込められて、机と机の間隔も狭く、擦り抜けるように歩かざるを得なかった、と思い出話をしていた。
高校入試も厳しく、大学入試も厳しく、競争、競争に慣れた世代だよ、と自嘲するように言っていた。しかし、総じて、順調な会社生活だったろう。
たいして、能力があるとは思わなかったが、今の私くらいの地位にはつけたのだから。
それに引き換え、私たちは辛かった。何せ、上が団塊の世代でぎっしりと詰まっていたのだ。おかげで、課長代理、課長に昇進するのも、団塊世代と比べたら、それぞれ一年くらいは遅くなってしまった。
団塊の世代が言う競争とは別な競争に私たちは追い込まれたのだ。
ポストがあった団塊世代と比べ、私たちにはポストが無く、同僚を押しのけ、上を蹴落とす競争となった。人間も悪くなるさ。
ホテルは駅から歩いて五、六分といったところにあった。
正面を工事しているためか、鉄の櫓が組まれ、正面玄関を除き、白い幕で覆われていた。
レセプション・カウンターにレセプショニストは居たが、宿泊客の応対に追われていたせいか、キャリーバッグを引きずりながら到着した私に、目も呉れなかった。
仕方が無いので、ロビーのソファーに座り、レセプショニストの手が空くのを辛抱強く待つことにした。
手が空いた様子なので、レセプショニストのところに行き、名前を告げた。
名前を告げても、何の反応も無かった。
改めて、名前を告げ、このホテルに予約をしている者だと告げた。
レセプショニストはじろりと私を見て、一言、十分待て、と高圧的な口調で私に言った。
何と無く、腹が立ったが、喧嘩してもしょうがないと思い、また、元のソファーに座り、待つこととした。十分ほど待った後で、レセプショニストのところに行った。
不愉快そうな顔をして、部屋の鍵を放り投げるようにして、私に渡した。
私は元々、気が短いほうで、頭にきたが、ぐっと我慢して、鍵を受け取った。
しかし、どうにも、腹が立ってしょうがなかった。
なぜ、冷たくあしらわれたのか、見当もつかなかった。
後で、インターネットの口コミ評判のところで、悪口を書いてやろうと思った。
どうも、それしか、抗議のしようがないのである。
節度を持って、思う存分、悪口を書いてやろう。
部屋に入り、ベッドに少し横になった。
この間、時代小説を読んでいたら、戦国時代の武士の出世のことが書いてあった。
武士の世界では、出世は決して悪ではなかった、と云う。
むしろ、出世を願うということは殿様に対する忠義の証しとして賞賛されたとも言われている。
武士は殿様のために生きている。
武士としての第一の名誉は戦場で、殿様の馬前で潔く死ぬことであった。
一番首を挙げ、手柄を立てると共に、闘いで一番先に討ち死にすることも同じくらいの名誉が与えられた、と云われている。
むしろ、討ち死にすることこそ、武門に生まれた者の譽であった、とも。
殿様のために懸命に働き、その働きが殿様に認められ、殿様によって引き立てられ、出世をしていくということは美徳であるとされたのである。
一方、会社では出世主義者は常に白い眼で見られる存在でしか無い。
露骨に、手段を選ばず出世を目指す者は嫌な奴だと軽蔑されるのがおちだ。
オーナー会社ならともかく、普通の株式会社ならば、殿様という存在は居ない。
従って、殿様のために出世するといった武士の出世は、会社では通用しないのである。
では、何のために、出世を目指すのか。
自己満足のため、お金のため、妻が喜ぶため、親戚に自慢出来るため、いろいろと挙げられようが、私の場合は、これは決まっている、自己実現のためである。
私より能力の無い奴、私にとって嫌な奴が私の上に立つことにはとても耐えることは出来ない。そんな奴より、私が上に立ち、君臨した方が会社のためになる、と思うからだ。
今、私は同期入社の中ではトップクラスであり、取締役に一番近い存在となっている。
今が、とにかく大事な時だ。
ミスをしないよう、抜かり無く、会社人生を渡っていかなければならない。
シャワーを浴びて、すっきりした。
ホテルを出て、地図を見ながら、プラド美術館に行った。
十五分足らずで、入場券売場に着いた。
入場料のところを見たら、プラド、ソフィア、ティッセンといった所謂三大美術館をセットにした入場券を買えば、大分安くなることが判った。
この三大美術館には当初から入ることに決めていたので、躊躇せず、買うこととした。
プラド美術館に入った。
ハンドバッグはともかく、手提げバッグとかリュックサックなどは入口で預けることとなっているが、預ける荷物なぞ持たない私はそのまま入ることが出来た。
入口から少し入ったところに、売店があり、どんなものがあるのか、少し興味があったので、入って眺めることとした。
レジのところに、日本人らしい青年が居た。
てきぱきと、品物を買い求めるお客の相手をしている。
そこに、日本人のツアーの団体が来て、中の一人の男が、彼に、日本人ですか、と問うた。その青年は笑いながら、ええ、日本人ですよ、と答えていた。
今、流行りの言葉で言えば、かなりのイケメンと言えた。
アルバイトなのか、美術館の正規の職員なのかは判らなかったが、スペイン語を流暢に話す若者で、相当長い間、スペインに住んでいるものと推察した。
一方、私のスペイン語は若い頃、仕事の関係で少しメキシコに滞在した時に覚えた程度のスペイン語で正式に学んだものでは無く、今もって、難解な文法は曖昧なままである。
それでも、旅行するだけならば、何とかなり、トレドでもさほど、不自由は感じなかった。この若者の今の暮らしはどうなんだろう、と余計なことではあるが、何となく気になった。温和な感じの青年で、優しそうな印象を与える若者であった。
温和で優しい若者は会社では出世しないものだ。
会社での出世競争には、勝気で負けず嫌いといった性格の者が適していることは疑いの余地が無い。能力はあるが、競争意識が弱く、性格も温和で気弱な者はどうしても出世競争から脱落してしまう。いい引きがあれば、別だが。
いい引きというのは、引き立ててくれる後援者、という意味だ。
多くの有能だが、気弱な者が出世競争に敗れて、会社を退職して行った。
退職はしなくとも、いつの間にか、組織に呑まれ、埋もれていった。
そういう人に限って、自分をバックアップしてくれる、云わば、ボスを持たないのだ。
一番いいのは、有力なボスを早い時期に探し、子分となり、忠節を誓って、バリバリと仕事を積極的にこなし、自分を折に触れて売り込むことが出来る人間だ。
こういう人は間違いなく、会社では出世していく。
かく言う私も、常に、直属の上司、或いは、その上の上司、有力な役員から可愛がられる人間を目指して、会社人生を邁進してきた。
上の人の好みを熟知し、その人に気に入るような言動を常に心がけ、実践することだ。
しかし、残念なことに、失っていくものも多い。
順調に出世した代りに、私は家族からの愛情を失っていったようだ。
二兎を追う者は一兎も得ず、と云う。
覚悟した結果であり、今更、嘆いてもしかたのないことだ。
長い時間をかけて、エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤといったスペイン三大巨匠の絵を中心に観て廻った。
宮廷画家になるのも熾烈な競争があったと云う話を聞いたことがある。
ギリシャ人でドメニコスとか云う名前を覚えて貰えず、『あのギリシャ人』という通称で人から呼ばれた、エル・グレコ(例のギリシャ人、という意味もあり)は宮廷画家になりたかったが、結局、若い頃に何かミスをして、当時の権力者に疎まれ、目標であった宮廷画家にはなれなかった。
憧れの宮廷画家にはなれなかったが、絵の職人として大量に描き、莫大な富を得て、愛人をつくりながら、生涯を裕福に暮らした、と伝えられている。
私はトレドのサント・トメ教会で、彼の畢生の大作『オルガス伯の埋葬』を観た。
サント・トメ教会は、この絵一枚で高い入場料を得ている。
ゴヤは宮廷画家の頂点に立った画家であったが、聾者となり、晩年は暗い絵ばかり描いた。しかし、何と言っても、『カルロス四世の家族』、『裸体のマハ』が有名だ。
ベラスケスは宮廷画家として順調な人生を送った。
『ラス・メニーナス(女官たち)』はあまりにも有名な絵だ。
死の前年には、騎士になり、貴族として死んだ。
『ラス・メニーナス』で自分を描いた姿にも、騎士団の騎士であることを示す、十字の印を自分の上着の前面に後から描いている。
喉が渇いたので、入口の方に戻り、美術館のカフェテリア・レストランでお茶を飲んだ。
結構高い金額で驚いた。
お茶といっても、スペインお決まりのカフェ・コン・レチェ(ミルク入りコーヒー)だ。
甘いケーキを食べながら、飲んだ。
飲みながら、エル・グレコのことを思った。
野心を持ちながらも、彼は宮廷画家にはついになれなかった。
時の権力者から睨まれたが故に、なれなかった、と伝えられている。
会社でも、同じだ。
上に睨まれ、憎まれたら、まず、出世は覚束ない。
もっとも、誰か、他の権力者の引きがあれば、まだ、リカバリーは可能であるが。
私のこれまでの会社人生の中でも、何人も、そういった不幸事例を見てきた。
一番の悲劇は、社長から睨まれた男の例だ。
一流の大学を出て、会社規定で米国の大学に留学までした男であったが、社長が推進するプロジェクトでミスをした。
ミスと言っても、たいしたことは無いと私は思っていた。
問題が出て、その解決方法が社長の考え方と違っていただけで、そう大きな問題では無かったと私を含め、そのプロジェクトのメンバーは思っていたはずだ。
しかし、その思いは甘かった。
彼の考え方、解決に向けた行動は実は、社長の逆鱗に触れていたのだ。
社長は、ひどく立腹して、大勢の前で彼を声を荒げて叱責した。
ほどなく、彼は早期退職優遇制度に応募して、五十歳前だと言うのに、会社を辞めていった。彼と親しかった私は、ひどくショックを受けた。
私も実のところを言えば、社長との関係はあまり良くなかったのだ。
しかし、幸いだったのは、私は次期社長という噂の高い副社長の引きを受けていたことであった。会社は、言葉は悪いが、餓鬼大将の集まりみたいな側面もある。
何人かの餓鬼大将がおり、その餓鬼大将にはそれぞれ何人かの子分が居て、閥を成す。
こすっからい子分の中には、臨機応変に、親分を変えて出世していく者も居る。
プラド美術館を出て、ホテルの方角に歩いていたら、地下鉄があったので、入ってみた。
切符の自動販売機があったので、試しに、十回乗れる回数券を買ってみた。
それから、階段を上り、通りに出て、ホテルに戻った。
ベッドに寝そべって、少し休憩した。
私は今年、経営職という職位から参与という職位に昇格し、役員待遇となった。
上司の専務から、来年あたり、取締役に推薦されそうだという話もありがたく伺った。
現在のところ、私のサラリーマンとしての出世は順調である。
私の会社の場合、管理職社員には役職定年という昔からの内規のようなものがあり、五十五歳までに参与以上の職位に到達しなかった者は、以後は、どんなに努力しても、参与以上の職位には就けず、そのままの職位で冷遇されるか、出向、転社、或いは嘱託といった待遇に甘んじなければならない。
勿論、給料は上がらず、低評価の場合は、給料、賞与共に年々下がっていくこととなる。
五十四歳で、参与となった私の将来は明るい。
そんなことを思いながら、壁掛けテレビを観ていたら、うとうととし、そのまま少し眠ってしまった。
眼が覚めたら、部屋の中は少し薄暗くなっていた。
時計を見たら、夜八時を過ぎていた。
スペインでは、十時近くにならないと、暗い夜にはならない。
空腹を覚えたので、ホテルを出て、近くのバル(酒場)にでも行って、軽く夕食を食べようと思った
路上で、男の乞食を見かけた。
貧困の象徴だが、今の日本では見かけない。
ホームレスは一杯居るが、道端に座り、施しを乞う乞食の姿は見かけない。
その乞食は、食べることが出来ないので、こうしています、という紙切れを掲げて座っていた。前に、空き缶が置いてあり、某かの小銭が入っていた。
小銭は持っていたが、あげることに躊躇いがあり、そのまま素通りした。
謂れのないことだが、少し後ろめたさを感じた。
歩いた方向に、バルは無かったが、小奇麗なレストランがあった。
そのレストランに入り、メヌ・デル・ディアと呼ばれる定食を食べた。
そこで、失敗してしまった。
うっかりして、タラのソテーにかかっていたソースをズボンに垂らしてしまったのだ。
慌てて拭き取ってはみたものの、履いていたのが白っぽいズボンであり、そのソースは染みとなって残りそうだった。
困った顔をしていたら、気付いたボーイが歩み寄って来た。
手に何か、持っていた。
不審そうな顔をしている私に、何か言いながら、持っていたスプレーをたっぷりとズボンに噴射した。
十分ほど、そのままにして、十分経ったら、擦らず、パタパタと軽く叩け、と言った。
染みとなって残るかな、と思っていたが、ボーイの言うことは正しかった。
染みも残らず、汚れは綺麗に落ちていた。
少し、チップを弾み、何か浮き浮きした気持ちで、そのレストランを出た。
歩きながら、思った。
出世するということは自分の権限が増えることで、それだけ、遣りたいことが遣れるという状況になることだ。
サラリーマンにとって、自分らしく生きる環境を整えるという結果になることで、決して悪くない。
自分が軽蔑する男が出世するより、自分が出世するほうがいいに決まっている。
まして、自分より入社年数が短い者が自分の上司となることなんか、絶対に嫌であるし、そんな事態に陥ったら、私は潔く会社を辞める。
今は、幸いそのような事態にはならず、来年、取締役になれば、場合によっては、自分より先輩社員の上司になる可能性だって、多分にあるのだ。
そうなったら、自分はどのように振る舞えば良いのだろうか、備えあれば患え無し、と云う。今から、考えておくことにしよう。
ホテルの部屋に戻り、携帯電話を取り出して、日本から届いたメールの確認を行なった。
会社のメールは全て、パソコンを経由して、携帯電話に入ることとしていた。
五十通ばかり着いていた。
添付文書は読めないが、本文は全て読むことが出来た。
一般的な報告メールばかりで、私が返信を書かなければならないようなメールは幸い無かった。一時間半ほど、メール内容を確認してから、シャワーを浴びて就寝した。
五月三十一日(月曜日)
宿泊料金にホテルの朝食は含まれていなかった。
日本でこのホテルに予約を入れた際、インターネットの評判を見ていたら、朝食は高いばかりで美味しくない、というブログがあったので、朝食は申し込まなかったのだ。
そこで、ホテルを出て、すぐ傍のカフェテリアに入って、朝食をとることとした。
空いている席に座って、暫くの間、ウエイターが注文を取りに来るのを待っていたが、いくら待っても、来る様子は無かった。
しかし、無視されているわけでも無く、時々、ウエイターはちらちらこちらを見ているのだ。変だな、と思いながら、テーブルに目を戻してみると、何やら、メモ書きみたいな用紙と鉛筆が置いてある箱が隅にあることに気付いた。
その用紙を取ってみて、漸く疑問が氷解した。その用紙には、この店のメニューが印刷してあり、片側にチェックを入れる□欄があった。つまり、希望する料理に印を付けて、レジに出せば良い、というシステムであったのだ。コーヒーなどの飲み物、料理一品がセットで、二ユーロという定価になっているのだった。
早速、カフェ・コン・レチェ、そして、生ハム入りボカディージョ(バゲットのサンドウィッチ)に印を入れて、レジのところに持っていき、金を支払った。
二、三分ほどして、ウエイターが注文したものを持参してきた。
チップは払う必要が無いシステムであった。
もっとも、二ユーロ程度の料金では、チップは払いようが無いのであるが。
息子は私に、今まで家庭の温かさを味わったことが無い、と言っていたが、何も息子ばかりでは無い、自分で言うのも何だが、私も味わったことが無かった。
妻や子供たちを責めることは出来ない。全て、私の責任だろう。
入社以来、全てに仕事を優先させてきた私の責任である。
工場勤務が結構長く、二十四時間稼働の生産体制で、一瞬たりとも気は抜けなかった。
工場に早く出勤して、夜遅く帰る毎日であり、休日もよほどのことが無い限り、午前中は工場に行き、生産体制を常に監視し、現場に指示を行なった。
家庭サービスを行なうのは、盆と正月程度であるが、その時は精神的にも肉体的にも疲労困憊といった状態で、家庭サービスを行なう元気はもう残ってはいなかったのである。
私ばかりでは無く、一世代前の団塊世代の人間もそうであったし、その世代を上司に持つ私たち昭和三十年生まれの人間も、上司の手前、楽は出来なかったのだ。
何も、私の家庭ばかりが、例外であったわけでは無く、幹部候補生として期待されて入社した者はほとんどそのような家庭生活を送ったに違いない。
妻も、子供たちもそのことを理解しなければならないのに、そうではない態度を取って、私を一方的になじる。
これは、私にとって、本当に許せないことなのだ。
しょうがなかったことなのだから。
ソフィア王妃芸術センターはホテルのすぐ傍に、隣接するように在った。
そこで、名高い『ゲルニカ』を観た。
絵の作者は、勿論、天才・ピカソ。
観ている内に、涙が出てきた。
涙なんか、絶対、私には似合わないものだと思っていたが、齢を取って涙腺が弱くなったものであろうか、涙が出て、ゲルニカがぼやけた。
ゲルニカはモノトーンで描かれている。
モノクロでは無く、モノトーンだ。
つまり、灰色の世界だ。
灰色というのは立派な色調を持っている。
白に限りなく近い灰色から、黒に限りなく近い灰色まで、灰色のグラデーションは無限に存在する。
ピカソは戦争を灰色の世界と見ている。
中原中也は、茶色い戦争、ありました、と戦争を茶色という色彩で表現しているが、ピカソにとって、戦争と云う悲劇を表現するのに、灰色という色彩を使った。
私は、このゲルニカという名画の中に、人が人を殺し、殺されもする戦争というものの悲劇、残酷さ、愚かさ、途方も無い破壊を灰色のモノトーンの世界で表現せざるを得なかったピカソの怒り、悲しみ、憐れみが入り交じった心情を察し、思わず、涙がこみ上げてきたのだった。
スペインのマラガというアンダルシアの陽気な港町に生まれたピカソは本来は明るく、陽気な男だったに違いない。
そのピカソがこのゲルニカを描きながら、泣いているのだ。
ゲルニカは灰色の涙で描かれている、と私は思った。
そして、誰かが言った言葉を思い出した。
良い戦争も無ければ、悪い平和も無い。
平凡な言葉であろうが、いい言葉だ。
そして、若者を戦争に駆り立てる者は、決して戦争に行かない者である。
『鐘付きは安全なところに居る』、というスペインの皮肉な諺を思い出した。
鐘を鳴らし、敵の襲来を知らせる者は常に安全な教会の最上階に居るものだ、という諺である。
ふと、気弱な自分になっていることに気付き、私は驚いた。
そこには、今やらなくて、いつやるのだ、とばかり、部下を叱咤激励し、ライバル会社との競争に駆り立てる私という存在は影が薄くなっていることに気付いたのである。
こんなことでは、いけない。
ソフィア王妃芸術センターを出て、ホテルに戻り、少し休憩してから、昼食を摂りに通りに出た。
昨日のレストランで昼食を摂った。私のズボンの汚れを取ってくれたウエイターが私の顔を覚えていて、微笑みながら挨拶してくれた。
窓際のテーブルに席を占めた私は携帯電話を取り出し、メールをチェックした。
十通ほど、着いていた。
部長会の開催日時変更連絡があった。
日本に戻った後の予定を確認しながら、部長会で報告する内容を考えた。
衝撃的な内容が無いかどうか、思いを馳せた。
平凡な報告は社長に嫌われる。
社長は報告を聞いて、叱咤激励したいのだ。
社長が内心喜びそうなテーマが無いかどうか、私は食事を摂りながら考えていた。
今の社長は、社長ごっこの名優だ。
いや、社長ばかりでは無く、副社長、専務、常務、部長、課長とそれぞれの役職に応じた名優にならなければ、サラリーマン社会では成功者として生き残ってはいけない、少なくとも、相応の出世は出来ない。
食事の後、地下鉄に乗って、マドリッドの名所巡りを行なうこととした。
ソル駅で降りて、プエルタ・デル・ソル辺りをぶらついた。
賑やかなところだが、特段、興味を引くところは無かった。
スペインの有名なデパート・チェーンであるエル・コルテ・イングレスがあったので、そこも覗いてみた。
その後、ソル駅に戻った。
地下鉄の出入口には辻音楽士が居り、お金を入れる箱を前に置いて、演奏をしている。しかし、彼らは決して、通行人に媚びない。
その毅然とした姿は敬意を感じさせるものであった。
電車が来て、乗り込もうとした時、私の眼をそばだてる光景があった。
私が乗り込んだドアの隣のドア周辺で、一組の観光客らしい夫婦が男女の集団に取り囲
まれていた。
奥に入ろうとする夫婦を五人ほどの男女の群れが入らせまいとしているらしかった。
そうこうする内に、男女の群れはさっとホームに出て、その瞬間、ドアが閉まった。
電車の中で、夫婦は茫然と立っていた。
夫婦はポケットとか、バッグの中味を確認していた。
噂に聞いた集団スリか、と私は思った。
夫婦の様子から、被害は無かったようであるが、私含め、その車両の中の乗客はその夫婦に一瞬は好奇の目を注いだものの、その後は何事も無かったかのように、無関心な態度を取っていた。
東京も同じだ、トラブルに対しては無関心が一番いいのだ、と思い、私は下を向いて思
わずニヤリとしてしまった。
毎週開催される部長会で、意図的に行なった報告で、社長を喜ばせた報告がある。
ライバル会社がISO関連で環境ラベルを取得しようとする動きがある、ということを報告した時のことだ。
ISO関連で、品質マネジメントとか、環境マネジメントシステムに関する認証登録は当たり前のこととなっているが、環境ラベルの認証登録という活動は未だ行なったことが無く、ライバル企業が既に準備を始めているという情報は新鮮であった。
ライバル企業が始めていることに後れをとってはならない、というのが、社長の持論であり、早速、私が提起した話題に喰い付いてきた。
この種の取り組みは、客先に対して、真面目な会社であると好印象を与えるものである。
環境担当の部長に聞いているか、と問い、聞いておりませんという返事を聞くなり、社長は憤然とした顔になり、早速、調査を進め、準備に取り掛かっているようであれば、後れを取らないよう、準備を進めろ、早くしろ、という檄が入ることとなった。
この情報は正確であることは間違いが無い。
何故ならば、そのライバル会社の人間から直接、私が入手した情報だからだ。
檄を入れた後で、社長は、私に今後も何か情報が入ったら、環境担当部長にアドバイスするようにと、満足した口調で皆の前で話してくれた。
点数を稼いだ、と私は思った。
部長会の後、環境担当部長が私のところに来て、情報提供を感謝しながらも、事前に話して欲しかったな、と苦情めいたことも言った。
うん、次回から気をつけるよ、と話しながら、この男は甘いな、と私は思った。
もとより、他人に点数を稼がせる必要は何もないのだ。
地下鉄を降り、ホテル周辺をぶらぶらと歩いた。
メルカード(市場)があったので、入ってみた。
メキシコのメルカードは独特の饐えた強烈な臭いがあり、私は敬遠していたが、このメルカードにはそれほど強烈な臭いは無かった。
でも、メルカードには独特のにおいがあり、私にはそんなに嫌なにおいでは無かった。
むしろ、視覚、嗅覚を楽しませるにおいであると言えた。
その市場で、オレンジ、イチゴを半キロほど買って、ホテルに戻った。
ホテルに戻り、イチゴを食べながら、テレビを観た。
スペインの番組も日本と同じで、くだらない番組が多い。
ニュース番組ならいいが、コメディー番組とかメロドラマ系統の番組は見る気にならない。もっとも、私の語学力では漫画番組程度のレベルが良く、その時も、冒険漫画が流されていた。見てニヤニヤしている内に、ふと、部内の人事異動構想を思い描いた。
人事は、策定する人間にとって、自分という人間を上司含め、他人にアピールする良い機会となる。中には、三ヶ月に一度は必ず、工場内人事異動を考えて、上司の取締役を通じて、取締役会に諮ってもらうべく進言してくる工場長も多いのだ。
人事権を持っているということは、管理者にとっては喜びであり、満足感をもたらす。
人事は、やりだしたら、やめられない、という同僚も私は知っている。
社長とか、副社長が好む人事異動を日本に戻ったらすぐ、提案してみようと思った。
六月一日(火曜日)
朝食は昨日のカフェテリアに行き、済ませた。
昨日の轍は踏まず、テーブルに置いてあるメニューリスト兼注文書に印を付けて、レジに渡した。今日のレジには昨日のウエイターが居た。
私を見ると、ニヤリとして、どこから来たんだい、と訊いた。
東京から来た、日本人だよ、と言うと、真面目な顔をして、日本では危機があるかい、と更に訊いてきた。危機?、と私は訊き返した。
危機という単語は朝の会話にふさわしくない、聞き違いかと思ったからだ。
危機だよ、日本には危機があるのか、と訊いているんだ、と彼は言った。
私は、あるさ、どこの国だって危機は持っている、中国でもね、と彼に言った。
そうかい、あるのかい、このスペインには多くの危機がある、経済的危機、政治的危機といった危機が一杯あるのさ、と笑いながら彼は私に言った。
しかし、深刻な顔はしておらず、病気自慢の人が自分の病気を語る時のように、些か自慢げにも思えた。
経済的危機か、と私は苦い気持ちで思った。
スペインに経済的バブル時代があったのかどうかは知らないが、日本では確かにあり、もうバブルが弾けて、十年以上が過ぎてしまった。
出口の見えない経済不況が未だ続いている。
バブル経済の頃のことは、今でもまざまざと覚えている。
あの頃は、今から考えても、皆が浮かれ、異常な状態であった。
異常だと思う人も居たが、声は小さかった。
企業の場合も、借金をどんどん行なって、とにかく、生産規模を上げれば良い、といった考え方が主流を成した。
結果、バブルが弾け、足下を見たら、累積した借金が膨大なものになっていたのに気付き、バブル景気に踊らされたという苦い後悔だけが残り、その後も借金返済に苦慮することとなった。
その時は、私は工場の製造課長であったが、五カ年程度の長期計画を策定したら、こんなものでは駄目だと工場長から一喝された。
役員から叱られるから、もっと膨らました予算計画にせよ、というのが工場長の言い分であった。
その当時は、実現の可能性はほとんど問題にされず、強気な発言、強気な予算、強気な見通しを語る者が有能だとされていた。
今から考えると、実に滑稽な、馬鹿馬鹿しい時代だった。
が、私も声高にバブル謳歌を叫ぶ一人であった。
ティッセン・ボルネミッサ美術館を見学した。
その美術館は、ホテルからプラド美術館に向かって歩く道の道向いにあった。
途中、乞食を見掛けたので、ポケットから小銭を探し、施しの箱に入れた。
何も言わないだろうと思っていたが、その乞食がふと目を上げて、グラスィアス(ありがとう)と小さな声で言ったのには、少し驚いた。
開館少し前で、入場者は行列をつくっていた。
行列と言っても、それは外国のこと、きちんとした行列では無く、たらっとした行列だった。歩道に腰を下ろしたり、鉄製の柵に寄りかかったり、後ろを振り向いて二、三人後に並んでいる人と話をしたりして、まことにだらけた行列であった。
私も最後尾と思われるところに並び、入場時間を待った。
脇を少し小柄なスペイン娘が通って行った。
どこかで見たような顔をしていた。
はて、誰だったか、と思っていたら、一人の女の顔が脳裏に浮かんだ。
今の部署の女性事務員の顔が浮かんできた。
少し婚期が遅れている女性であった。
かなりの美人なのに、何故か縁遠いなあ、と常日頃から思っていた女性だった。
でも、私には随分と好意を持っているようだ。
地方の工場長を二年ほど勤め、本社の今の部署に部長として赴任した時は、それほどでも無かったが、今年の春、役員待遇の参与に昇進した時は、わざわざ私の机の前に来て、部長、おめでとうございます、と祝ってくれた。
男性社員が祝いの言葉をかけるのを遠慮している中で、少し唐突には感じられたものの、正直言って、私は嬉しかった。
それから、私には特別な敬意を持っているようにも感じられる。
女性という存在は案外、権力好き、権力者好きなのかも知れない。
ひょっとすると、私に男としての愛情を感じ始めているのかも知れない。
少し恐いことではあるが、嬉しいことでもある。
ティッセン・ボルネミッサ美術館を観た後、地下鉄に乗って、グランビアにあるフレスコというビュッフェ・レストランで昼食を摂った。
フレスコという店はチェーン・レストランで、バルセロナ含めスペイン中に何カ所か店を構えている。
味はいまいちであったが、十ユーロに満たない金額で、思う存分食べられる店ということで、若い男女で賑わっていた。
彼女を誘惑してみようか、と不逞な考えに思いを馳せた。
しかし、保身も大切。
取締役就任を控えて、セクハラ含め女性問題は禁物、ちょっとした健康問題ですら、就任の妨げになるのだから。
サラリーマンは頑健で、要領が良く、丈夫で長持ち、ストレスに強く、タフな人間でなければならないし、口もうまくなければならないのだ。
政治家と同じだ。
H&Mで、ベルトを二本買った。
息子に土産としてやるつもりだ。
ありがとうの一つも言ってくれればいいが。
しかし、それにしても、近頃の若者の行動はさっぱり判らない。
息子も娘も、大学の頃は鉄砲玉のようだった。
朝、家を出たきり、夜になっても帰ってきやしない。
真夜中、こちらが寝室に入って寝ようとした頃、ようやく帰って来る有様だ。
何とか、大学は無事卒業し、今はそれぞれ一人暮らしを始めている。
おかげで、私は妻と二人きりで、静かな生活を楽しんでいるが、実のところを言うと些か、静か過ぎて物足らない。
第一、妻との会話がほとんど無い。
妻は近所の奥様連中との付き合いが結構忙しそうで、私の相手はほとんどしてくれない
し、私も半ば諦めている。
そんなこんなで、この頃は、私自身、かつての息子、娘同様、家に帰るのはほとんど夜中といった具合だ。
上司、同僚、そして部下と飲んだり、出張したり、他社の知り合いと飲んだり、ゴルフをしたり、以前と比べ、頻度が多くなったのは事実だ。
この間の定期検診で、尿糖が引っ掛かった。
糖尿病の立派な予備軍であると宣告されてしまった。
日本に帰ったら、飲み会は少し控えて、夜、会社から帰ったら、近所を歩くことにしよう。万歩計を腰に付けて、ウォーキングに精を出すことにしようと思っている。
地下鉄に乗って、オペラ駅で降りて、警官に訊きながら、王宮を見物した。
見物後、王宮内にある土産物屋で、妻と娘に、皮の化粧道具入れを土産として買った。
小さいが、上品な仕上げが気に入った。
妻のことを考えると、私は少し憂鬱になる。
妻は私のことをどう思っているのだろうか。
妻との関係はもう、冷え切っており、この化粧道具入れだって、恐らく、使わないだろう。妻から見たら、私はさぞかしつまらない男であろう、と思った。
三年間ほどの単身赴任がいけなかったのだ。
子育てに忙しい妻を残して、私は地方の工場に単身赴任をした。
たまに、帰ると、妻がノイローゼ気味に私に文句を言ったが、私は意に介さなかった。
家庭の瑣事に思い遣る余裕など、当時の私には無かったのだ。
愛妻家で家庭を大事にした男は結構、リストラの対象となった。
夜、遅くまで残らず、定時に帰る男に対して、猛烈型の上司の眼は厳しい。
徐々に、その男に対する評価は下がり、リストラが決行される時は真っ先に、その対象となってしまうのだ。
実力主義とやらで、実績評価・能力評価が流行っているが、結局は、上司の判断次第ということになる。
いろいろと、評価の判断基準は細かく規定されているが、昇給・賞与の査定となると、相対的な評価となり、部署間の調整、部門間の調整、最終的には、他部門間の調整まで考慮されることとなり、絶対的な評価基準など影も形も無くなる。
自分を認める上司なら最高、自分を認めない上司なら最悪、という評価結果となる。
米国流の実績評価・能力評価主義など、実にくだらない方式であり、結局は上司判断次第という結末に終わるものだ。
米国では、いろんなパーティーがあり、上司との人間関係がより重要となってくるのだ。
ホテルに戻り、アトーチャ駅を見物することにした。
熱帯植物園を改めて見物し、駅構内にたくさんある売店を覗きながら歩いた。
池もあり、亀が一杯居た。
観光客が面白がって、パン屑を与えていた。
気儘に暮らしているように見える亀にも他の亀との人間関係ならぬ亀関係というのはあるんだろうか。
池から少し顔を覗かせている石の上には、たくさんの亀が押し合いへし合いしながら、乗っかっている。
押しのけられて、水の中に落ちた亀はもう、元の石には戻れず、しょうがなく泳いで、どこか安住の地を求めて彷徨うことになる。
人間世界も同じだ。
はみ出した者、落伍した者はなかなか元の快適な生活には戻れず、冷たい世間を流離うこととなる。
それが、嫌ならば、何としてでも、石に齧りついても、従来の生活を守ることだ。
ドロップ・アウトした者は同窓会にも行けないことになる。
ひと月ほど前に、大学の同窓会の案内を貰った。
今の地位ならば、大威張りで出席出来るが、部長にもなれず、課長のままでは出席出来ない。
未だ、全員、現役であり、会えば、名刺を交換することになる。
その時、まず、役職を確認してしまうのだ。
社長とか、専務といった役職が記載してあれば、少し引け目と焼き餅を感じてしまうし、次長とか課長といった役職であれば、少し優越感を感じて、満足してしまうものなのだ。
まあ、もっとも、それが嫌な者ならば、案内が来ても、出席は見送ることとなるが。
そんな世間を大学時代には青臭く非難し、軽蔑していた者ほど、結構、常識人となり、自分より高い役職に就いている者を羨ましそうな上目遣いで見ることになるのだ。
六月二日(水曜日)
カフェテリアでは無く、レストランで朝食を摂った。
果物が食べたかったので、ウエイターを呼んで、洋梨を貰った。
デザートナイフを器用に使って、皮を剥いていたら、ムイ・ビエン(大変、結構)と言いながら、私を横目で見て、ウエイターが脇を通って行った。
私は結構、包丁を使ったり、料理をするのが好きだ。
なにせ、単身赴任を二年ばかりしてきた身だ。
外食ばかりでは、体が変になると思い、料理本を片手に手の込んだ料理を作ったこともある。
仮に、妻が居なくとも、私は全然困らない。
むしろ、一人の方が気楽でいいと、この頃は思うようになっている。
逆に言えば、妻もそう思っているに違いない。
亭主、元気で留守がいい、というのは世の女房族の偽らざる本音かと思われる。
正直に言うと、何年後になるか知らないが、会社を退職する時期になったら、妻と離婚しようと思っている。
妻も恐らく、そう思っているはずだ。
取締役まで勤めれば、少なくとも、六十五歳あたりまで、子会社の役員として勤務出来るはずで、退職慰労金も結構な額になる。
その時、妻と話し合って、円満な協議離婚をしようと思っているのだ。
それまでは、辛抱しなければならない。
私たちは結局、世間で言うところの、仲のいい夫婦にはなれなかった。
どちらに、責任があったかは判らない。
いや、責任は私の方にあるに違いない。
子供は妻任せ、休日はごろごろと寝てばかり、夜は遅く帰り、一家団欒という楽しいであろう時間は持てなかったし、家族旅行もほとんどしなかった。
そんな私に愛情なんか、持てなかったに違いない。
役職が上がり、年収が増えて、暮らしが楽になっても、女はあまり評価しないものだ。
男は自己実現という最高位の欲求が満たされて満足するものの、それは女にとっての自己実現には結びつかないものなのだ。
男の喜びと女の喜びは違う。
妻にとって、私との夫婦としての暮らしは何だったのだろう。
実家と遠く離れ、地方の知らない町で子育てに奔走し、夫の単身赴任という事態に耐え、子育てが一段落したと思ったら、二、三年毎にまた、知らない町に引っ越しする羽目になる。
慌ただしく、時は過ぎていき、惰性と疲労感だけが残ったのではないだろうか。
どうも、妻のことを考えると、内心忸怩たるものを感じてしまう。
妻と和解し、新婚時代の昔のように、和気藹藹と愛情豊かな家庭生活を取り戻すということはもう無理なのだろうか。
ホテルのレセプションの案内で見たが、ツタン・カーメン展が開かれているらしい。
地下鉄に乗って、会場があるカサ・デ・カンポというところに行くこととした。
駅を下りたが、何の案内表示も無かった。
下車する人もほとんど居なかった。
日本ならば、見物者がぞろぞろと会場の方に歩くという光景が見れるはずだが。
妙だな、と思い、周囲を見回したら、警官が信号のところに暇そうに立っていた。
会場の名前を告げ、どの方向にあるか、訊いてみた。
三百メートルと言いながら、彼がおもむろに指差した方角に向かって、私は歩いた。
三百メートルほど歩いたら、なるほど、会場を示す案内板があった。
会場に着き、料金表示を見て、驚いた。
千円ほどであった。安過ぎるのだ。おかしいと思った。
日本なら、この種の展示会ならば、三千円以上はするものだ。
宣伝ポスターを詳細に眺めて、ようやく、納得した。
本物の展示は無く、全て、レプリカ(複製)である、と記載されていたのである。
しょうがない、私は自分の迂闊さを笑いながら、ともかく、入ってみることとした。
しかし、期待に反して、レプリカはレプリカであったが、全て精巧且つ精緻に作られており、その出来栄えは完璧なものであった。
無料のオーディオ・サービスがあり、私はスペイン語のヘッドフォーン装置を借りた。
始めに、エジプト文明そのもの、ツタン・カーメン王そのものを紹介するビデオを見せられ、その後、自由に館内を廻ることが出来た。
意外に、面白かった。
世の中、誤解することが多い。
サラリーマンならば、自分は意外に女性にもてるのかな、と誤解する時がある。
会社の金で、夜の繁華街に繰り出す時、この種の誤解は生まれる。
つまり、社用族は水商売の女性にもてるものなのだ。
接待という仕事で酒を飲んでいる、今使っている金は決して無駄金では無く、将来的には何十倍、何百倍という巨額の利益として返って来る、という論理で会社の金を接待費という名目で、客も楽しみ、自分もお付き合いで楽しむということになる。
水商売の店としては、安心で確実な客であり、自分の金で無いから、むしろ金離れのいい、このような社用族を大切にして、接待者をいい気分にする。
その結果、社用族は、意外に自分という存在は、妻とか子供には邪慳にされているものの、女性にもてるものだという風に、美しく誤解することとなるのだ。
私は工場長を二年ほど勤めたが、結構、金を使って遊んだ。
金は、接待費という名目で、期毎に予算化されている。
予算化されている以上は、全部使わなければならない。
で、ないと、次の予算で減らされてしまう。
官庁の予算と同じだ。
予算が余れば、週に二、三回は部下を連れて、夜の街で飲んだ。
部下も私に可愛がられていると思い、私も腹心の部下を増やして喜ぶ、という、言わば、ウイン・ウインの関係ということになる。
工場長は、本社ではさほどの身分では無いが、工場の中では、云わば、絶対的存在だ。
その工場長に可愛がられているということは、部下にとっては嬉しいことであり、この人のためなら、頑張ろうという気持にもなる。
なにしろ、実績評価・能力評価の最終評価者は工場長なのだから、悪い気はしない。
本社勤務の今は、三十分ほど座れば、一人二万は覚悟しなければならない、と言われる銀座のクラブで私はこのところ、他社の幹部と飲んでいる。
ゴルフも月に一度は、同業他社の人間とプレイしている。
情報交換は、彼我共に、プラスとなるものだ。
質の高い情報をたくさん握っている者は、社内外問わず、一目置かれる存在となる。
地下鉄に乗って、スペイン広場に行き、セルバンテス、ドン・キホーテ、サンチョ・パンサの銅像を観た。
ドン・キホーテという小説は一般的には滑稽小説という認識があるが、むしろ、私には教養小説のように思われてならない。
時折、著者のセルバンテスが吐く詠嘆のような言葉、キホーテとかサンチョといった登場人物が語るセリフ、格言、諺の類は私を飽きさせないものである。
大学生の頃、この小説に夢中になり、小説の中で出てくる名言、格言、諺を全部洗いだしたことがある。
全巻で、五百を越えた。
その後、スペイン語を覚えた頃、今度は、和訳本と突き合わせる形で、その五百ほどの和訳内容に合致するスペイン語表現を整理したこともあった。
あの頃は楽しかった。
妻もスペイン語の原書に目を通す私を微笑んで見ていたものだ。
私は妻に、ドン・キホーテの中に出てくる、気の利いた表現を語り、日本語で言えば、このような諺になるよ、と語ったあの頃は本当に楽しかった。
ドン・キホーテのように、理想に向かい、理想に殉ずるという生き方を理想としたかったが。あの頃の私は、一体、どこに消え失せてしまったのであろうか。
そんなことを思いながら、見ていると、突然話しかけられた。
見ると、地元の人と思しき人が笑って立っていた。
銅像をバックに写真を撮ってあげる、と言う。
デジカメを渡して、一、二枚ほど撮って貰った。
撮った後、私にデジカメを戻しながら、笑って言った。
ここ、マドリッドでは気軽にデジカメを知らない人に渡さない方がいいよ、渡したが最後、デジカメと共に逃げてしまうからね、と私に言ったのだ。
この種のカメラ泥棒に、特に日本人は遭い易いとも、彼は言っていた。
彼にお礼を言って別れた後、私は暫く、銅像をいろんな角度から眺めた。
ドン・キホーテの馬はロシナンテという名前を持っているが、サンチョ・パンサの驢馬には名前が無い。
ロシナンテは滑稽な駄馬として描かれているが、サンチョの驢馬は、名前こそ無いが、愛情込めて描かれている。
驢馬に対するサンチョの態度はまことに愛情深く、読者も何だか温かい気持ちになる。
驢馬と言えば、フアン・ラモン・ヒメネスが書いた『プラテーロと私』という名作がある。プラテーロという名前の驢馬に対する愛情が細かく、感動的に書かれている。
驢馬は一般的には、ぐずでのろまというイメージが持たれる一方、愚直というイメージも持たれる。
スペイン人は殺伐な戦争の象徴としては馬を、平和な農村の象徴としては驢馬を愛しているのかも知れない。
ドン・キホーテのように生きたい、という若者も昔は結構居た。
でも、今の日本で、ドン・キホーテのように生きるということは破滅を意味する。
ドン・キホーテのように、会社で自説に拘り、頑固に頑張った挙句、退職に追い込まれた者が居た。
そんなに、頑張る必要も無いのに、何故かその男は自説に拘り、頑張り、結局は上に睨まれ、退職に追い込まれたのだ。
アジアに現地企業と合弁会社を設立した際、導入する機械の選定で、責任者となったその男が選定した機械は、当時、副社長だった現社長が米国出張で選定した機械と異なるメーカーの製品であった。
私たちから見たら、性能は似たり寄ったりで同じような性能の機械であった。
大方は、副社長が勧める機械でもいいんじゃないか、と思ったが、その男は自分の意見に固執した。
副社長との応酬は、傍から見て、正論とも、屁理屈とも思われるものとなった。
結果は、無残なものとなった。
その男は退職を余儀なくされてしまった。
早過ぎる退職で、その後、風の便りでは、実家に帰り、地元の企業に勤めたと聞いたが、長続きしないで辞めた、と云う話も後から聞いた。
その後の彼の消息は分からなくなった。
彼の行動は、私にとっては反面教師的行動となった。
妥協は罪悪では無く、世渡りする上での政治的対応と理解した方が良い、という教訓になった。
昼食は、生ハムで有名な、ムセオ・デル・ハモンという店で摂った。
ハムの博物館、と名乗るだけあって、出された生ハムの美味しさは格別で、日本で食べる生ハムとは全然違った美味しさがあった。
こちらの生ハムは紙のように薄く切られ、口に入れると、溶けていくような感じさえ与える。
団栗の実しか食べないと云われるイベリコ豚から作られる、ハモン・イベリコ・ベジョータが最高の生ハムとされ、市場でもキロ当たり一万数千円は取られる。
私はそのハムを百グラムほど注文して、ワインを飲みながら食べた。
食べながら、副社長と喧嘩し玉砕して、会社を辞めた男のことを思った。
意外だったのは、心の奥底では、ドン・キホーテのような彼を尊敬する気持ちが多分にあることに気が付き、少し、呆然とした。
人は、自分には無いものを持っている人を尊敬するという気持ちがあるのかも知れない。
私と似たような男は嫌いだが、彼のような損得、利害をあまり考えずに行動する人間を私はどちらかと言えば、好きである。
好きではあるが、そうなりたいか、と問われれば、なりたくない、と答える私も居る。
近くに、エル・コルテ・イングレスがあり、また覗きたくなった。
食品売り場の陳列品を眺めながら、ふと、妻を連れてきてやれば良かった、と思う自分に気が付いた。
新婚時代は結構二人して、近くのスーパーに買い物に出かけ、一杯纏め買いをして社宅に戻ってきたものだ。
近所のおばさんたちからも、まあ、仲がいいこと、と冷やかされたこともあった。
その時も工場勤務であったが、生産に余裕があり、皆定時で帰っていた。
夏の定時はまだ陽が高く、明るい。
時々は、工場に行って、二人でテニスをして気持ちの良い汗をかくこともしばしばあった。
しかし、一番目の子供を妊娠し、出産を迎える頃から、工場の生産も忙しくなり、妻と買い物に出かけたり、テニスをしたりする機会は段々と無くなっていった。
今でも思い出すと、甘酸っぱさを感じてしまうが、人生の楽しい時はそれほど長くは続かないものだ。
地下鉄に乗って、ホテルに戻り、メールをチェックした。
少し、気になる文面のメールがあった。
来季の販売予測に関する内容であった。
販売予測に基づいて、生産計画は組まれなければならない。
生産計画を策定するのは、私の部署となる。
メールの内容に依れば、製造品種が変わることとなり、従来予測とは異なる中味となる。
日本に帰ったら、早速、確認しなければならないと思った。
メール読みに飽きて、ベッドに横になった。
今日で、一応、三大美術館巡りは終わった。
夕方から何をしようか、と思った。
ふと、プラド美術館は夕方から無料となることを思い出した。
早速、ホテルを出て、行ってみたら、無料見学を希望する人で長い行列が出来ていた。
私も並び、根気良く、開場を待った。
二回目の見学となると、さすがに余裕が持て、観たい絵だけ重点的に観ることとした。
ベラスケスの『セバスティアン・デ・モーラ』の絵の前で立ち止まった。
宮廷では必須の存在と言える、矮人の道化師を描いた絵である。
有名な『ラス・メニーナス(女官たち)』でも、マリア・バルボラという名前の女の矮人が描かれているが、私はこの『セバスティアン・デ・モーラ』に描かれているセバスティアンの眼が気になって仕方が無かった。
赤い服をちゃんちゃんこのように着て、足を伸ばして座っている彼の眼はとても印象的だ。三十代と思われるこの矮人のこぶしは固く握られており、ほとんど丸い肉塊のようにも見える。黒々とした口髭と堂々とした顎鬚の上に、眼は爛々と輝いて、こちらを見据えているようだ。不気味な眼でもある。
小人として生まれた自分の運命を呪いつつも、宮廷で逞しく、道化として暮らす自分に自信を持っている男のずぶとい眼でもあるのだ。
ふてぶてしい眼だ。このような眼はどこかで見たことがある、と思った。
私はじっと見詰めたが、なかなか思い出せなかった。
その内、思い出して、私はニヤリと笑ってしまった。
何のことは無い、会社に一番乗りして、洗面所の鏡に向かい、さあ、今日も一日、遣るぞ、と気合を入れる時の私の眼とそっくりであった。
六月三日(木曜日)
カフェテリアで朝食を摂った。
パン・コン・トマテという軽食を食べた。
カリカリに焼いたバゲットのスライスに、オリーブ・オイルを垂らし、食塩を少し振りかけ、トマトのスライスを載せて食べる、庶民の食べ物だ。
クロワッサンも良いが、このパン・コン・トマテもなかなかいける味だった。
完熟トマトの柔らかさと、バゲットの表面の硬さが微妙なハーモニーを醸し出しており、私は日本に帰ったら、これを作って、妻に食べさせてやろうか、と思った。
しかし、今はそのような気持ちでいるものの、日本に戻ったら、果たしてそのような料理を作る気になるか、正直のところ、疑問に思ったことも事実である。
とにかく、また、忙しい日々が続くに決まっている。
完全に仕事からリタイアするまで、私にのんびりとした休息なんて、ありはしない。
今回の旅行は例外中の例外だ。
今回のような旅をする機会なんて、会社を辞めるまで、金輪際来やしないのだ。
リフレッシュ休暇で来たが、メールばかりに気を取られ、あまりリフレッシュにはならなかったが、と私は苦笑した。
ウエイターが私に話しかけてきた。
パン・コン・トマテは美味しかった、と訊いた。
美味しかった、と答えたら、彼は嬉しそうな顔をして、外国人はクロワッサンばかり注文するけれど、本当はパン・コン・トマテの方がスペインの味なんだ、と笑いながら言った。
カフェテリアで朝食を摂った後、プラド美術館と同じ通りにある王立植物園を散策した。
無料では無く、入場料は取られたが、中はとても広く、ぐるぐると庭園の中を廻るだけで、相当な歩数となり、ウォーキング・コースとしては最高のロケーションだと思った。
歩きながら、これまでの自分の人生を振り返った。
まだまだ、終わってはいないが、結構忙しかった人生だと思った。
転勤だって、十回ほどしている。
転勤毎に、会社の地位は上がっていったが、妻と家族は大変だったろう。
単身赴任も二年ほどであったが、二回ほど経験した。
海外出張も十回以上あり、中には半年ほどメキシコで暮らしたこともあった。
おかげで、英語とスペイン語はまあ、日常会話には困らないほどには習熟した。
子供は一男一女で、三人目を妻は欲しがったが、幸か不幸か、出来なかった。
係長、課長補佐、課長代理、課長、工場の製造部長、副部長、工場長、部長と人並みの昇進をし、今は役員待遇の参与となり、来年あたりで取締役にもなれそうな状況にある。
今の社長には可愛がって貰っているし、同僚には一目置かれてもいる。
腹心の部下も勤務した工場、勤務した部署にそれぞれ居り、私を一生懸命補佐してくれている。私を快く思わない連中も勿論居るが、極く少数であり、たいした力は無いメンバーばかりだ。同業他社の幹部からも、私という存在は決して軽くは見られていない。
中には、将来の社長候補ですなあ、と半ばお世辞を言う人も居るくらいだ。
そう言われて、勿論、悪い気はしないが、そうかといって、相好を崩すような真似はしまいと思い、顔は可能な限り引き締めることとしている。
サラリーマンとしては、かなり自信を持っていい状態にあるのは確かだ。
しかし、家庭生活となると、話は別だ。
子供は私に話しかけようともしないし、妻は妻で、紋切り型の口調でしか話さなくなってしまっている。
サラリーマンとしての幸せは、男の幸せ、父の幸せ、人間としての幸せとは別なのだろうか、とこの頃はつくづくと思うのだ。どうにも、憂鬱になった。
私は憂鬱な思いを払うかのように、王立植物園を足早に出て、レティーロ公園の方に歩いて行った。レティーロ公園も昼間は散策にもってこいの場所だが、早朝とか夕方以降になると、泥棒とか強盗が徘徊跋扈する場所となる。
しかし、未だ、昼間だと私は安心して、のんびりと歩いていた。
道はなだらかな上りの坂道となっている。
午後の太陽は強い陽射しを放っている。
交差点には、温度計が設置されており、交差点周辺の温度が表示されている。
表示された温度を見て、私は愕然とした。信じられない温度を表示していたのだ。
何と、摂氏四十度を示していたのだ。何と無く、今日は暑いなあ、とは思っていたが、四十度というのは想像の範囲を越えていた。
しかし、幸いなことに、日本と違って、湿度はかなり低い。
日本人にとっては、体感温度としては三十五度くらいであったろう。
四十度という温度を見た瞬間から、条件反射であろうか、汗が噴き出して来た。
だらだらと続く坂道を歩きながら、もう、戻ろうかと思った、その時だった。
鋭い叫び声がしたと思ったら、私から十メートルほど離れた公園芝生の上を一人の男が物凄いスピードで駆け下りて行った。
手に何か、持っていた。
遠くの方で、叫ぶような声は聞こえていたが、その声も段々聞こえなくなった。
再び、公園に静寂は戻ったが、今見た光景はまざまざと私の脳裡に焼きついていた。
駆け足で逃げて行った男は、おそらく、ひったくりの泥棒だったのだろう、と思った。
坂道を戻り、カフェテリアで冷たいビールを飲んだ後、昨日同様、プラド美術館に行き、見学した。
昨日同様、矮人の絵に立ち止まって、暫くの間、眺めた。
拳は膝の上で固く握り締められている。
何かに耐えているようにも見受けられる。
しかし、ベラスケスはどのような理由でこの絵を描いたのだろうか。
セバスティアンという名の小人から、肖像画を描いて欲しいという注文がなされたのであろうか。いや、そんなことはないだろう。
矮人が己の醜悪な姿を後世に残そうと思うはずは無い。
おそらくは、ベラスケスが物好きに、セバスティアンにモデルになるよう口説き、描いたものに違いない。或いは、王様か貴族が気紛れに、セバスティアンにモデルになるよう、命じたのかも知れない。
いずれにしても、セバスティアンは己の望まぬ肖像画を描かれ、その間、えも言われぬ屈辱感を感じていたのかも知れない。
固く握りしめられた拳は屈辱の深さを、そして、ふてぶてしく相手を見据える眼は己の過酷な運命に負けまいとする意志の強さを示しているのかも知れない。
そんなことを思いながら、絵を見詰めていた私は、その絵の前を去る時、ひどい疲労感を覚えた。
美術館を出ると、空はようやく夕方の空を示していた。
茜色に染まり始めた夕方の空には、燕が飛びまわっていた。
メキシコには、『燕』という歌があり、この歌は惜別の歌として、送別の席上、唄われる。
燕よ、お前はどこに行こうとするのか、そんなに急いで、温かいところを捨てて、・・・、とセンチメンタルに唄われる。
私は、飛びまわる燕の姿を目で追いながら、明日は日本に帰る、帰れば、もう安らぎは無い、あるのは、果てしない戦場、修羅場があるばかり、と思った。
夕食はホテル近くのバルで摂った。
通りに出ている屋外のテーブル席に就き、リオハの赤ワインを飲みながら、通り過ぎる人々を眺めた。
この旅で、いろんなことを思い、考えたが、結局、私は私でしか無いことを悟らせられた。
人は、それほど変わるものでは無い。
自分は、やっぱり自分、変わることは出来ないとつくづく思ったのだ。
今の自分を肯定して生きるしかない、この生き方しかない、似つかわしくないことはしない、とも思った。
ウエイターが近づいて来た。
私のグラスが空っぽになっていることに気付き、声をかけてきたのだ。
リオハの赤ワインは芳醇な香りと味で人を酔わせる。
私はウエイターに、もう一杯、と陽気な声で注文した。
もう、十時をかなり回っているのに、通りは賑やかで、私の周囲のテーブルからは笑い声が絶えなかった。
人生は楽しむべきだとは思うが、今はまだ、その時では無い、と思った。
六月四日(金曜日)
朝早く、チェックアウトし、ホテルの前で客待ちをしていたタクシーに乗り、バラハス空港へ向かった。
成田空港には明日、土曜日の夕方に着く。
日曜日はのんびりして、月曜日からはまた、ルーティーン・ワークが始まる。
私が居ない一週間の間、鬼の居ぬ間の洗濯とやらで、のんびりしている部下が居たら、ガツンと一発喰らわせなければならない。
温和な上司では駄目で、人の上に立つ人間は、羊より狼でなければならない。
何と言っても、弱肉強食のこの世界だ。
狼、生きろ、豚は、死ね、という言葉が昔流行ったが、現代社会はまさに、その通りだ。
やがて、タクシーはバラハス空港に到着した。
早速、二十四時間オープンのカフェテリアで朝食を摂った。
隣のテーブルで、赤ん坊が泣いていた。
普段なら、うるさいな、まわりの迷惑だろう、と思う私であったが、その時は、泣いている赤ん坊を見て、可愛いと思った。
息子でも、娘でも、早く結婚して、孫の顔でも見せてくれ、とも思った。
赤ん坊の傍で、姉であろうか、三歳か四歳くらいの女の子が立って、赤ん坊の手を取って、あやすようにしていた。
子供は実に可愛い。エンゼルのように可愛い。
きっと、背中には羽根が生えているに違いない。
そんなことを思いながら、私は生ハムのサンドウィッチを食べていた。
食べながら、今回のスペインの旅を思った。
スペインという国の国民は素晴らしい国民だ。
経済的には既にギリシャ同様、破綻に瀕しているらしいが、毅然と人生を楽しんでいるように思われる。
街角にみすぼらしく座っている乞食だって、施しをくれるのは当たり前だ、という顔をして座っている。施しを求めて、媚びている様子なんて微塵も感じさせない。
ホテル近くのカフェテリアの店員だって、そうだ。
スペインはいろんな問題、危機を抱えていて大変なんだ、と言いながらも、でも、俺たちは人生を精一杯楽しんでいるんだ、というような顔をしていた。
日本も少しは見習わなくてはいけないな、と思った。
人生は楽しむためにある、決して、くよくよと考えるためにあるのではないんだ、一度限りの人生だろう、楽しむ時は精一杯楽しむ、苦しむ時は精一杯苦しむ、喜ぶ時は精一杯喜ぶ、そして、悲しむ時は精一杯悲しむ、それが人生を味わうということだ、とも思うが。
やがて、搭乗時間が来て、私は飛行機に乗り込んだ。
これから、フランクフルト空港に行き、そこで、成田行きの飛行機に乗り換える。
飛行機はルフトハンザ航空機では無く、スパニエル航空の飛行機だった。
そして、残念なことに、飲み物は無料では無く、全て有料であった。
私はしょうがなく、お金を払って、ビールを飲んだ。
二時間半の飛行機の旅だった。
私は通路側の席に座っていたが、窓際の席に座った女性はドイツ娘のように思えた。
外国人の年齢は判断が難しいが、何となく、二十五、六といったところで、娘と同じくらいの齢かな、と思った。
ビールをプラスチックのグラスに注ぎ、飲んでいると、彼女が話しかけてきた。
日本人か、と英語で訊いてきたので、そうだよ、と言うと、嬉しそうな顔をした。
この頃は、中国人とか韓国人が多く、結構、日本人は珍しいらしい。
そう言えば、トレドでもマドリッドでも、日本人より中国人の方が多いような印象を受けた。
特に、ツアーで、集団で歩いているのは、中国人か日本人であり、ツアーでは無く、二人とか三人程度で個人旅行を楽しんでいるのは韓国人が多いように思えた。
プラド美術館でも、比較的大きな声で賑やかに歩いているのは中国人のツアー客であり、小さな声で静かにガイドの後をくっついて歩いているのは日本人のツアー客だと思って、ほぼ間違いは無いようにも思えた。
とにかく、中国人は外国でも元気が良い。
彼女はドイツの女性であり、スペインを二週間ばかり旅をして帰国、ということであった。プラド美術館にも行き、大変感銘を受けたと話していた。
名画が多く、頭が混乱して、酔ったような酩酊感も覚えた、と笑いながら言っていた。
笑うと、頬のあたりの雀斑が可愛く、私の眼に映った。
ゴヤの『裸体のマハ』を観たか、と問うと、観た、挑発的なポーズで私が男性ならば、きっと、誘惑されそう、と真剣な顔で言っていた。
マハというのは、モデルとなった女の名前ではないよ、と私が言うと、彼女は驚いたような顔をしていた。
名前ならば、冠詞はつかないはずだが、あの絵の標題は、ラ・マハ・デスヌーダ、となっており、ラという女性形の定冠詞が立派に付いているんだ、と私は付け加えた。
スペイン語で、ラ・マハは、あのカッコいい女、とか、イカス女、という意味で使われると言うと、彼女は少し尊敬したような眼で私を見た。
スペイン語の蘊蓄を語りながら、話していると、時間はあっという間に過ぎ去り、飛行機は既に降下し始めていた。
その時、私は二回ほどトイレに行っているが、彼女は一度も行っていないことに気付き、 トイレは大丈夫か、と彼女に訊いたら、彼女は怒ったような顔をして、憤然と断った。
こちらは親切のつもりで訊いたのだが、女性にしてみれば、余計なお世話であったのかも知れない。
エチケットに反したのかな、と私は思った。
別れ際に、働いているのか、と訊いたら、大学生だと言っていた。
大学生であれば、私の娘よりずっと若い。
どうも、外国人は齢より大人びて見え、日本人は幼く見えるのか、と私は診立て違いに苦笑した。
フランクフルト空港に着いた。
成田行きの飛行機の出発まで少し時間があったので、コーヒーを飲みながら、出発ゲート前の待合所で待つこととした。
スペインで飲んだコーヒーより、このドイツのコーヒーの方が美味しい。
ストレート・コーヒーがあまり美味しくはないので、やはり、スペインではミルクをたっぷり入れて、カフェ・コン・レチェとして飲むが良いのだろう。
カフェ・コン・レチェというのは、フランス語で言えば、カフェ・オ・レということになる。ということは、フランスでもコーヒーをそのままストレートで飲むのはあまり歓迎されないということか。
ふと、自分が他愛もないことを思っていることに気付いた。
そして、そのように考えることを少し楽しんでいることにも気付いた。
はて、このような自分はこれまでにあっただろうか。
何か、新しい自分を発見したような気分になった。
一週間前と少し違った気分になっている自分に気付いた。
これは、旅の感傷かも知れない。
少し、センチメンタルになっているに過ぎない、と思った。
単純な男と自分では思っていたが、この旅で、結構複雑な性格をしている自分にも気付いた。その意味で、この旅は案外収穫があったのかも知れないと思った。
機内で、ドイツビールを飲みながら思った。
ドン・キホーテに、サンチョ・パンサの言葉として、次の言葉がある。
『サンチョとして生まれたおいらは、サンチョとして死ぬつもりでがす』
今の私には、身につまされる言葉だ。
三つ子の魂百まで、とか、雀百まで踊り忘れず、とやらか。
畢竟、私は私でしかない。
生まれ変わって、別人になることなんか、出来はしない。
これからも、少し頑固で、少し保守的で、かなりの出世主義者で、かなりのエゴイストとして生きていく他はない。
今回の旅で私が変わったところとしては、少し優しい気持ちになったことくらいか。
でも、その気持ちもいつまで続くかは判らない。
成田に着いた途端、無くなってしまうのか、家に着いた途端、無くなってしまうのか、或いは、会社に出勤した途端、無くなってしまうのか、皆目見当がつかない。
少しは長く続いて欲しい、と思っているが。
でも、人生、その時々の機微だけは十分味わって生きよう、とは思っている。
腕時計を外し、時刻を日本時間に合わせた。
だんだん、日本に近づいている。
旅は終わる。
完