87 ワンクッション作戦 隠しボス降臨
己れの尊厳と引き替えに、私は三十分ばかり小林と並んで歩く権利を手に入れた。損益が釣り合っていないようだが気にしない。世の中、そんなものである。私の場合。
その間、アヤちゃんは中村さんから犬との生活についてのレクチャーなど受けつつ一緒に歩いている様子。雰囲気も悪くない。善きかな善きかな。こうであるべきなのよ。
ある程度の時間を一緒に歩いたら、小林たちとはお別れだ。
彼らとの親密度が深まればこの時間は長くなるが、攻略序盤はこんなものだ。お散歩デビューしたてのアンジェリカや桃太郎も長い外出はできないしね。
アンジェリカは私の腕の中で既に眠そうである。不機嫌にうなりながらうつらうつらしている。なぜこのゲームで体験するのはウキウキ犬ライフではなく、苦楽のバランスが四対一な昭和の一代記的なアレなんだろう。
梨佳は私と同い年の、平成生まれのはずなんだけど。
手を振って別れて、二人の姿が見えなくなったら今日のミッションは終了。やれやれ、この調子で進めていけば小林ルートに入れるのかなあ。
と思ってから気が付いた。アヤちゃん……どこに行った? 一緒に歩いていたはずのアヤちゃんがいない。
きょろきょろすると、アヤちゃんは三十メートルくらい後方で桃太郎と突っ立っていた。どうしたんだろう。今まではなかったけど、まさかバグ? VR でバグって、話しかけても何をしても無反応だったり、触ろうとしても触れなかったりしたらかなり怖いよね。オバケみたいで。
「アヤちゃん? どうしたの?」
声をかける。
返事がない。やはりただのしかばね……いや、バグなのか。バグを洗い出したら、バイト代に色はつかないかな。でも、アヤちゃんがこのままだったら攻略はどうなるの? もしかしてこの日の朝に戻ってやり直しとか? それとも最悪、梨佳のプログラムチェックが終わるまで攻略中止?
それは面倒くさいなあ。そう思いながらもう一度、
「アヤちゃん?」
と声をかけた。
すると、アヤちゃんが顔を上げて私を見た。あれ、バグじゃなかった。
でも、何だか変。表情がない。いつも優しくニコニコしてくれるアヤちゃんの顔が能面のよう。やっぱり、バグ? 梨佳に言わなきゃダメ?
「……サキ」
アヤちゃんがとても平坦な声で言った。やっぱりバグだ。一回部屋に戻ってログアウトして、梨佳に言わなきゃ。それにしてもログアウトするためには自分の部屋に戻らないといけないという、セーブポイントのあるRPG みたいな仕様、どうにかならないのか。
こういう時に面倒くさいじゃん。本当にこのゲーム、根本の設計がいろいろおかしいよ。VR フルダイブ方式という最新技術を使っているのに、宝の持ちぐされ感はなはだしい……。
「……私、もう帰る」
アヤちゃんが桃太郎を抱き上げ、ぶっきらぼうにそう言って背中を向けたので、私はあれっと思った。これ、バグなんだよね? でもそれにしては何だかヘンな感じがする。
「アヤちゃん?」
つい名前を呼んでしまうと、アヤちゃんは足を止めた。でも振り返らない。背中を向けたままで、
「明日から、散歩はひとりでして」
と言った。へ?
「どういうこと? どうしたの?」
バグかもしれないと思いながらたずねる。
「サキはひとりで勝手にやればいいじゃない。私もそうするって言ってるの」
固い声が答えた。私はようやく、何が起きているのかを理解し始めた。
これは、もしかしてもしかして、アヤちゃんは怒っている? いや、もしかしなくても怒っている!
顔から血の気が引く思いがした。
今までの数々の周回。マスターを攻略している時も、伊藤くんを捕獲しようとしている時も、鈴木ゲス人を倒そうとしている時も……いつだってアヤちゃんミキちゃんの二人は私に温かく接してくれる優しい女友達だった。
『都合のいい』女友達だったと言いかえてもいい。だから私は、彼女たちはそういう存在だと思い込んでいた。攻略相手たちとは違い、好感度パラメータの上下などない、いつでも私に忠実でいてくれる存在なのだと。
だがこれは違う。わかる、バグなどではない。
考えてみれば飼い犬にすら好感度パラメータが仕込まれているゲームなのだ。小林の攻略上、重要なファクターになるアヤちゃんにそれがないなどと、どうして思い込んでいたのだろう。
おそらく彼女を攻略に引っ張り込んだことで条件が満たされたのだ。そして、アヤちゃんの中で好感度パラメータが起動した。
つまり今の彼女は、今まで私が知っていたアヤちゃんとは違うキャラクター。
いつでも優しく私を受け容れてくれる都合の良い友人役などではない。私の一挙手一投足で好感度を上下させ対応を変えてくる存在。『攻略相手』と書いて『敵』と読む、そんなものに等しい存在にいつの間にか変わっていたのだ。
たとえばゾンビ映画とかで、親友や恋人がゾンビになって襲いかかってくる。
あるいはミステリで、相棒役が冷酷な犯人だったと最後の最後で明かされる。
そういうものに近い衝撃を、私は味わっていた。
梨佳……! あいつ、今度はこんなトラップを……!
くそー、また引っかかった!
そしてそんな新・アヤちゃんは今、私に対してオコである。うん、わかる。アヤちゃんに感情があるとしたら、さっきの態度はなかった。友達を放り出して男に媚び媚びの態度を取るとか、一番嫌われるやつだアレ。
もちろん私もリアルならあんなことはしないが、ゲーム内だと思って安心していた。そしてアヤちゃんには好感度パラメータがないと思ってナメていた。
『リアルでアウトなことは、ゲーム内でもアウトだと思ったほうが無難』。
それくらい理解しているつもりでいたのに。バカバカ、私のバカ。完全に梨佳の術中にはまっていた。
「え、えっとアヤちゃん。ごめん」
どうしたらこの状況をリカバリーできるのか。そしてアヤちゃんの怒り具合はどの程度なのか。そんなことを考えながら、とりあえずあやまる私。
「もういいよ。あやまらなくて」
アヤちゃんの声は冷たいままだ。バナナで釘が打てそうだ。ヤバい、これはたぶんとてもヤバい。
「私はサキのことを友達だと思ってたから、一緒に散歩するのを楽しみにしていたんだよ。でも、サキにとって私はただの道具だったんだね。よくわかった」
ぐええ。そのとおりすぎて、返す言葉もない。
だが、認めてしまったらおそらくこのワンクッション作戦は終わる。終わってしまう。
それは、それだけは避けなくては……!
とっさに私は大地に膝をつき、深く頭を下げた。
土下座。読んで字のごとくの土下座。これ以上ない土下座。モブの通行人が普通に歩き回る路上で、好奇の目を浴びながらアスファルトに両手両足をついて這いつくばった土下座の中の土下座。ザ・土下座と呼んでくれてかまわない。
「ごめん、アヤちゃん! 私が悪かった!」
そのまま大声で言う。モブの視線が刺さるが、今はアヤちゃんをつなぎとめることのほうが大事だ。気にしない。気になるけど、気にしない。
「そんなことしても無駄だよ。みっともないからやめてくれない?」
アヤちゃんの声は冷たいままだったが、ようやく振り返ってはくれた。これは好機。ここで攻めずにいつ攻める。私はますます深く、額を地面にこすりつけんばかりにした。
「ホント、ごめん。自分でも無神経だったと思う。二度とあんなことはしないから」
これは本音だ。いくらゲームの中だって、毎回こんなことをやってられない。アヤちゃんに好感度パラメータがあるとわかったからには、もう少しうまく立ち回らないとダメだ。
「そんなこと言われても、信じられない……」
そう言いつつも、アヤちゃんの声には迷いが出てきた。よしよし、恥というものを捨て去った私の土下座オブ土下座作戦が効いている。
「そこをなんとか」
更に頭を下げる。本気でおでこがアスファルトに着いたが、気にしない。これ、ゲームだし。ざらざらして固い石の感触はあるけれど、VR だし。汚くないし、恥ずかしくない。たぶん。
「じゃあ」
まだ迷った様子を見せながら、アヤちゃんは言う。
「何であんなことをしたのか、言ってみてよ。私が納得できるような理由があるの?」
そう来ましたか。しかし、後には引けない。アヤちゃんを失ったら、小林攻略は完全に頓挫してしまうのだ。
「わ、私」
演技でなくどもった。いくらゲームだとわかっていても続く言葉を口にするのは勇気が要った。
それでも言わなくてはならないことがある。攻略のために。
「私、アヤちゃんが妬ましかったの。小林さんと仲良く話しているアヤちゃんが。だって私、小林さんのことを、好きになっちゃったから!」
言い切ってから、私は思った。
少しくらい面倒くさくても、ログアウトしてこの日の犬の散歩を最初からやり直せば良いだけの話だったのではないだろうか。
どうして私は、ゲーム内とはいえ、道路に土下座して衆人環視の中で『小林が好き』などとシャウトしているのだろうか。
なんか、選択を間違えたかもしれない。そんなことを思う初夏の午後(ゲーム内時間)。
そして理解した。この『ワンクッション作戦』において、真に攻略すべきは小林ではない。あんな犬を触らせておけば好感度の上がるやつはザコである。大した敵ではない。
私がこのルートで攻略すべき相手、つまり真のボス。それはアヤちゃんなのだ。
彼女を味方にできるかどうかで、全てが決まる。
地べたに這いつくばった今の自分の姿に象徴される、シナリオ内の立場の差を私はひしひしと感じたのだった。




