55 マリーちゃん攻略(違う) 続き
ということで、マリーちゃんを連れてのバイト生活が始まった。
マリーちゃんは大きめのケージに入れられ、犬たちが闊歩する施設内のラウンジへ。ケージには『マリーちゃん メス1歳 かみます』という札が付けられている。
「あらあら可愛い犬ねえ。かむの、残念だわあ。遊びたかったのに」
「慣れれば落ち着くかもしれないから、それまでの辛抱ね」
「じゃあ、それまで頑張って長生きしなきゃ」
なんて穏やかに笑って下さる入居者さんたちが天使に見える。
ちなみにその間マリーちゃんはずっとうなったり吠えたり、気が狂ったようにケージの中を駆け回ったりしております。
そして、
「何だ、かむのか。飼い主のしつけが悪ィんだな。誰だ、この犬を連れてきたヤツァ」
とラウンジ内を睥睨する入居者様。ひいい、コワイ。
「あ、あのう。私です。今日からバイトで入りました、山田サキです」
恐る恐る手を挙げる。
「嬢ちゃんか。犬を甘やかすからこうなるんだよ。若い娘は犬をアクセサリーか何かとカン違いしてるがなあ、生き物なんだからびしっとしつけねえと犬にも迷惑なんだよ」
延々とお説教を受けることに。
マリーちゃんは、うちに来た瞬間からああいう性格なんです。……と言いたいが、迷惑な犬であることは否定できないので黙って聞くしかない私。
そして飼い主の私が説教を受けている間に、
「噛む犬? 大丈夫大丈夫。俺は噛まれたことないんだって。どんな犬でも俺にかかるとイチコロよ」
とか言いながら、勝手にケージを開けようとする入居者さんが現れる。
ひいい、待って! その犬、本気で噛みます!
「森岡さん。マリーちゃんが怖がりますからね」
と介護士さんが間に入ってくれたが、
「大丈夫、怖がらせたりしないって。俺な、女にはモテないけど、犬にはちょっとすごいんだよ」
とか自慢しつつ尚もマリーちゃんのケージに近付こうとする森岡さん。
他の介護士さんがさりげなくマリーちゃんのケージに鍵をかけた。
お、恐るべし、老人介護施設。入居者さんたちの行動が自由すぎる。
こんな方々がいらっしゃる場所に、更に多種多様な犬を放すって……。これはただのカオス空間では?
しかし大方の犬は従順に、おとなしく入居者さんたちと空間を共有している。
たまに犬同士が吠えあったりすることもあるけれど、入居者さんたちが間に入って引き分けてあげることで落ち着いたり。
逆の場合もあって、人間同士が険悪な雰囲気になった時に犬たちが間に入って空気を和らげてくれることもある……。
うーん。
所詮ここは予定調和なゲーム内空間でしかないわけだけれど、こんな空気もいいなと思ってしまった。
現実ではこういう風に老人ホームを経営するのは難しいのかもしれないけれど、犬好きな人ならこんな老後を送りたいのかもしれない。
「山田さん。ちょっとマリーちゃんを連れて、施設の中を散歩して来てくれる」
と言われたのは、マリーちゃんの吠え声がだんだんうるさくなってきたからだと思う。
「初日だし、ひと回りして落ち着いたら今日は帰っていいから」
……バイトしているの、やっぱり私ではなくてマリーちゃんなのではないだろうか。
そう思いながら私は興奮しすぎてケージの中で息も絶え絶えになっているマリーちゃんを抱き上げ、ラウンジを出た。
念のためにリードはつけているが、マリーちゃんを自由に歩かせて他の犬(や入居者さん)に遭遇した場合、何が起こるか分からない。ので、しっかり両手でホールドして歩く。
幸いラウンジで力を使い果たしたマリーちゃんは自分で歩くのも面倒くさいらしく、おとなしく抱っこされてくれていた。
それでも好奇心はあるらしく、気になるものを見付けると頭を動かし『あっちに行け』『こっちも見せろ』と強く自己主張してくるのだった。
マリー、頼むよ。もう少し普通の犬でいて。
「これから毎日ここに来るんだよ」
獣医さんに言われたように、優しく話しかけてみる。
「ここなら一緒にいられるんだから、マリーちゃんも頑張ってここに慣れてね。アパートより広いしお友だちもいっぱいいるし、構ってくれる人もいっぱいいるよ。だから」
強くお願いする。
入居者さんと、入居者さんのペットの犬だけは噛むな。(施設自体の飼い犬と、職員の連れて来ている犬はまあ何とかなるだろう)
「少し神経質な犬のようですな」
急に声をかけられてびっくりした。
振り返ると車いすに乗った白髪のおじいさんが、穏やかな笑顔でこちらを見ていた。
この人は覚えている。さっきまでラウンジにいた。
他の入居者さんたちの輪には入らず、少し離れたところから穏やかにみんなを見ていた人。車いすだから目立っていた。
何となく人格者なのかなあって思わせる雰囲気を醸し出している。
「お節介かもしれませんが。こういうタイプは優しくして自由にさせてやるより、厳しく枷をはめた方が有効だと思いますよ。選択肢を狭め、思考を楽にしてやるのです。あなたを絶対に信頼できるリーダーだと認識させ、犬の行動を支配なさい。それが、その犬の求めていることです」
へ。
とまどう私。
犬と人間の関係って……そういうものだっけ?
何か、もっとこうさ。癒しとか、信頼とか、愛情とか、そういうの……。
「犬はそういう生き物です。絶対的な秩序の下に生きている。人間と同じ価値観、同じ感性を持っていると思ってはいけません。それは犬のためにもならない。相手の求めているモノを満たしてやる。それが、大切なことではないですかな」
私は腕の中のマリーちゃんを見下ろす。
確かに、犬は家族に順位を付けるとかいうのは聞いたことがあるけど。
そして中村さん小林さんと遊んでいる時のマリーちゃんの脳内での序列は多分……。
中村さん→ハヤテちゃん→私→マリーちゃん→小林さん。
だったな、きっと。
……でも。マリーちゃんが頼れる存在を求めている?
車いすの入居者さんのその言葉は正しいような気がした。
マリーちゃんは不安なのかもしれない。だから、しっかりと支えてくれる人が欲しいのかも。
私の今のやり方じゃ、マリーちゃんは安心できないってこと?
「あ、あの。もしかして、犬の訓練士さんとかやってらっしゃったんですか?」
思わず聞いてしまう。入居者さんは笑った。
「まあ、そのようなものです」
「あの! ぜひ、また教えてください!」
私はすかさず頭を下げた。
時雨坂先生は頼りになるが、マリーちゃんが病気でもないのにそうそうアドバイスを求めに行けないし。行くとお金がかかるし。
しかし、ここでなら私はむしろお金をもらう立場。
バイトをしながら、犬のしつけについて学ぶことが出来るではないか!
「犬を飼うの初めてで、分からないことだらけで。ぜひ、お力を貸して下さい!」
入居者さんは驚いたようだったが、それからゆっくりと笑った。
「わしの経験がどの程度お役に立つか知れないが、お嬢さんは面白い人のようだから時間の許す限りお付き合いしましょう」
老眼鏡の奥の目が、私の名札にそそがれる。
「山田サキさんか。また困ったことがあれば相談にいらっしゃい」
そう言っておじいさんは車いすを操り、またラウンジの方へ戻って行った。
私は腕の中のマリーちゃんと顔を見合わせる。
マリーちゃんと真摯に向き合うという難問の前に道を失いかけていた私だが、どうやら導き手が現れた。
よし! あのご老人から犬の育て方のノウハウをマスターし、『犬マスター』になって中村・小林ルートを制覇し尽くしてやろうではないか!
待っていろよ、梨佳、そして室長。
必ずあの会社から、五百万円奪い取ってやるんだからね!




