44 渾身の一撃
「それで俺も目が覚めてさ」
晴は神妙な顔で私をまっすぐに見つめた。
「お前にヒドイことしたって、ずっと後悔してたんだ。やっぱり俺のこと分かってくれてたのは咲だったなって」
え。それって。
ドキドキし始める私の心臓。
けれど、『ちょっと待て』と心の奥で声がする。
晴。ちょっと都合が良すぎない?
姫子ちゃんとデキた時は、あんなに簡単に私を捨てておいて。しかもそっちが一方的に悪いのに、なぜか私が罵倒されたし。
そのくせ、自分が姫子ちゃんにフラれたら私に戻って来るの?
自分のこと分かってくれるのは私って。
じゃあ、晴にとって私って何よ。
都合のいい時だけ晴のことを受け止めてくれる存在?
それ、都合のいい女ってヤツじゃない?
いかん。『マニアック』のせいで生来のツッコミ体質に更に磨きがかかっている気がする。
こんな時、ツッコむ必要なんかないのに。
思いのままに行動すれば、きっとそれでいいのに。
だって、私は晴が好きだ。
晴は同期の中でもリーダー格で、明るくて元気者で仕事も出来た。
彼の前向きな考え方に落ち込んだ時も引っ張りあげられた。
そんな彼に『付き合って』と言われたのは本当に嬉しかった。
大好きだったから、女子校→女子大で男子との接触がなく、後生大事に持っていたファーストキスも初めてのあれこれも、全部捧げて悔いはないと思ってた。
あんなことになる直前までは、そろそろ結婚しようって言ってくれるかなと思ってた。竹中咲になる日が来るのかなと夢見ていたりもしたのだ。
だから。
みじめだし。
バカだと思うし。
また他の女が寄ってくれば捨てられるんだろうって思うけど。
それでも晴の優しい言葉に、またドキドキしてしまう自分がいるのだ。
「あんなことしておいて、元通りになんて言えないけど。でも、また連絡してもいいかな。俺もいろいろ参っててさ。話、聞いてもらうだけでも助かる。咲なら会社のこと言っても平気だしさ」
たったこれだけのことを言うために私のアパートの傍をウロウロしていたのか。
そう思うと、胸が熱くなる。私のことを考えててくれてたんだって涙が出そうになる。
何も考えずに晴の胸にもう一度、飛び込みたい。私は確かに、今そう思っている。
……だけど。だけどさあ。
何がその気持ちを押しとどめているかって。
この、晴の一言一言がかぶるのよ!
一昨日までひたすら攻略……いやぶん殴ろうと念じ続けたあのゲームキャラ、佐藤ゲス人にさあ!
背後霊が憑いたのかと思うほど、あのくそキャラが言ってる気がしてくる。
そのせいで猛烈にムカつくのよ!
晴と元通りになりたいと思う気持ち。
晴の言葉に佐藤ゲス人を感じてムカつく気持ち。
その二つが自分の中でせめぎ合い、私の気持ちは揺れ動く。
そして晴の一言が、その均衡を打ち破った。
「咲が会社辞めた時さ。お前が心から俺のこと好きでいてくれたって分かって、俺、感動してさ。こんなに想ってくれる女はもういないだろうなって思って。咲のこと一生忘れないって思ったんだ」
は……? 何……?
何言ってやがんの、この男。
確かに辞めることになったそもそもの原因はお前の不貞行為ですけどねえ。
それでどうして、私がお前を好きだから会社辞めたって結論になる?
もしかして、アンタと姫子ちゃんが後顧の憂いなくハッピーエンドを迎えられるようにと私がキレイに身を引いたとか。
そういう思考ですか? 何、その自分に都合の良すぎる世界。
大体、晴さ。私が前の仕事どれだけ好きで、一所懸命だったか知ってるよね?
小さい頃からの夢だったんだよ。あの会社に入れて、本当に嬉しかったんだよ。
でもアンタと姫子ちゃんが出来て、女子の間で後ろ指さされて居づらくなって。
大好きな仕事でミス連発して、何のためにあの場所にいるのか分からなくなって。
後悔するの分かってたけど、もう、どうやったら頑張れるのか思い出せなかった。
だから泣きたい気持ちを抑えて、アンタに振られたことよりもっと大事なものを捨てる思いで、辞表を出したんだ。
失望感が喉元までせり上がる。
姫子ちゃん。コイツ、振って正解。
というか元々あの子、晴にはそれほど興味なかったのかもね。厳しい先輩の私が邪魔だったから。私にイヤガラセしたくて晴を寝取った。それだけの話だったのかも。
……それにあっさり踊らされて。コイツも、私も。
バッカみたい。
二十八にもなって、ホントにバカだ。
チョロかったな、私。こんな男に入れあげて、大切なものを全部捧げて。
あんな子の悪意に踊らされて、自分で何もかも投げ捨てて。
年だけ重ねても、本当に子供だった。
でもチョロくてバカな私にも、爪の先程の女のプライドというものがある。
「晴」
私は本当に久しぶりに彼の顔をまっすぐ見て、彼の名前を呼んだ。
「何?」
嬉しそうに微笑む晴。ああ。その笑顔にまで佐藤ゲス人がかぶるよ。
私は左足を前に出し、肩幅に開いて少し腰を落とす。
握った両の拳は胸の高さに。
梨佳は言った。
VRとはいえ動きのコツ、重心のかけ方。そんなものは神経に刻まれている。
あのゲームの中で学んだことは現実でもある程度、再現できる。
フルートも、タップダンスも、あの中で覚えたことは全部。
だから、アバターの山田サキが身に着けた筋肉の鎧こそないけれど。
ゲーム内の一年間、ひたすら身にしみこませたボクシングの技は、リアルのこの体でも行使することが出来るんだ。
「浮気者ぉ! 往生せいやあぁぁ!!」
叫ぶなり、私は傘を捨てた。
晴に向かって突進し、そのあごに渾身のアッパーを叩きこむ。
会心の一撃! 完全に決まったね!
水たまりの中に吹っ飛ぶ晴。
弱いわね。ゲームの中のボクシング・ジムで対戦した先輩やコーチは、こんなものじゃなかったよ。
竹中晴。この私の戦闘力の前にひれ伏すが良い!
「い、いきなり何すんだ!」
起き上がった晴は怒ってわめく。上等。私の方がもっと怒っている。
「ふざけないで。あんなことしておいて今さら許されるとか、どうして思えるわけ。しかも這いつくばって詫びを入れて来るならまだしも、何で上から目線?!」
その点は、佐藤ゲス人の方がまだ潔かったよ。
「冗談じゃないわ。そんな、アンタが寂しがってる時だけ相手をしてやるような都合のいい女になる気はないの。甘えたいなら実家に帰ってお母さんにでも甘えて来なさいよ。私はもうアンタなんかに関わる気はないから。迷惑だから、もう来ないで」
背中を向ける。
「な、何だよ! もっと素直な女だと思ったのに。ガッカリだよ!」
わめき散らす晴。
ガッカリはこっちだよ。今のアンタの姿、最低にみっともない。
私は最後に一度だけ振り返って言った。
「アンタにはその姿がお似合いよ。早く家に帰って、今の自分の姿を鏡で見るのね。自分がどの程度の男か、よく分かるから」
後はもう振り返ることなく、アパートまでの十分の道のりを急ぎ足に帰った。
一度やんだ雨がぽつりぽつりとまた降り始め、流れ続ける私の涙を隠してくれた。




