100 惨劇の夜
なごやかに鍋を食べる。シメにはうどんを投入するのが好きだ。
リアルでは、そんな鍋をもうずいぶん食べていないな。たまには実家に顔を見せないとな。ひとりだとすき焼きも食べきれないもんなあ。
……と思うと、小林が妙にはしゃいでいるのにも共感できた。
家族との暮らしにはわずらわしいことも多いけれど、家族がいないと出来ないこともいろいろあるんだよね。一緒にいるとわずらわしさが勝るけれど、離れてしまうと楽しかったことも思い出す。人間とは難儀なものだ。
実家に行ったら『フラフラしていないで結婚なり再就職なりしなさい』、『貯金もないんでしょ』、『のんびりしているとすぐに三十になっちゃうのよ』とクドクド言われるんだけどね。妹に結婚話が持ち上がっているらしいので、余計に行きづらいんだけどね。
リアル事情はともかくとして、食後には小林がものすごく楽しみにしていたイベント・『アンジェリカを洗う』の開始である。
私が暴行のお詫びとしてアパートでのすき焼きパーティを提案した際、小林は目をキラキラさせて言ったのだ。
『え、本当? 本当にお邪魔していいの? じゃ、ついでなんだけど、アンジェリカをシャンプーしてもいい? 俺、犬を洗うの好きなんだ! ハヤテのことも、何度も洗ったことがあるよ!』
動物一般の例にもれず、アンジェリカはシャンプーが嫌いである。そんなアンジェリカを、私の過ちのために犠牲にしても良いものか。
だがこの時、タコ殴り事件を起こしてしまった私の立場は限りなく弱かった。
そんなわけで、娘を遊郭に売り飛ばす母の気持ちで私は申し出を受諾した。がんばれアンジェリカ。健闘を祈る。
鍋の後片付けを終えてから、私たちは戦場(お風呂場)に向かう。
シャワーの温度設定は私がする。体の小さいアンジェリカの適温はハヤテちゃんとは違うのだ。そしてシャワーの使い方を教え、アンジェリカ用のバスタブを用意し、手伝いという名目の監視のため脱衣場に控える。
お気づきになっただろうか。『アンジェリカを洗う』という一大決心の要るイベントを他人がやってくれるのにもかかわらず、私の負担は減っていない。むしろ増えている。
私がため息をついている間に、小林はシャツの袖とズボンのすそをまくり上げて狭い風呂場に入った。
なんか。なんか、ヘンな感じだな。
このゲームをプレイし始めてから長いけど、アパートに攻略対象が来たのはこれが初めてなんだ。ましてお風呂場に男がいるなんて、リアルでだってほとんど経験したことがない。(ほんの数回だけ、晴が泊まりに来たことはあったけど)
圧倒的な異物感。よくわからないけど、緊張する。落ち着け私。こいつは小林だよ? 犬ルートのトライ&エラーを繰り返した間、さんざんイラつかせてくれた小林だよ?
その巨大な異物に向け、アンジェリカはキャンキャン吠え続けていた。私はそれをしっかりとホールドしたまま小林に尋ねる。
「お湯、たまりましたか?」
「うん」
「では」
アンジェリカを抱っこしたまま、私は風呂場に足を踏み入れる。すると異状を察知して彼女の鳴き声が変わった。キャンキャン、わふっ、わふっわふっわふっ、バウバウバウバウっ! うるさい。
一応、片手で温度を確認してから有無を言わせず愛犬をバスタブに突っ込んだ。
バウバウバ……きゅぅーん……。
お湯につけられたとたん、一気にしおれるアンジェリカ。本当、騒ぎ立てる割に根は小心者なんだよなあ。そこがかわいいと言えばかわいいんだけれど。
だが、そんな感慨に浸っている場合ではない。
「これで大丈夫です」
私は言った。
「正気を取り戻さないうちに、手早くお願いします」
お湯につけられ放心状態になっているうちにことを済ませないと非常に面倒くさいのである。
中途半端に我に返るとパニック状態になり、時には私にさえ牙をむいてくる。神経質な犬を飼育するのは大変だ。
先代のジョンは楽だった、性格がぼんやりしていたから。お風呂に入れてもあまり気にしなかったし。……改めてだけど、犬の性格にこんなにバリエーションが必要なの? これ、乙女ゲームだぞ。犬の育成ゲームじゃないんだぞ。かなり前から見失いつつあるけれど。
「よーしアンジェリカ、俺が洗ってやるぞー」
そんなことを気にする様子もなく、ご機嫌な小林にアンジェリカを託し、私は脱衣場に戻った。距離が離れるとホッとする。
アパートの風呂場は狭い。2人で入ると、体が当たらないようにするのが難しいレベルで狭い。正面から向き合うと、息がかかりそうなくらいに顔が近くなる。
そういうのは、やっぱり落ち着かない。
「山田さん。アンジェリカのシャンプーってこれ?」
声をかけられる。
「ええ、そうですけど。今日はお湯で行水するだけでもいいかなあ……」
シャンプーをさせるという約束だったのに、ふと迷いが出てそんなことを言ったのは直後に起こることを、どこかで予感していたからだったかもしれない。
「大丈夫、大丈夫。きれいになったほうがいいよな。よーし、アンジェリカ、シャンプーをするぞー」
お気楽、かつ楽しそうな小林の声が響く。そして彼の指がシャンプーのボトルにかかったとき、惨劇の幕は切って落とされたのだ。
グルルル……。
アンジェリカが低くうなり始めた。ヤバい、正気を取り戻しつつある。そう思う間もなく、
うー、ぐわんっ!
彼女は吠えた。それだけではない。バスタブを蹴って、高く跳んだ。見たこともないスーパージャンプだった。
そして小林のみぞおちに、見事な体当たりを決めた。
「うわぁ」
叫び声を上げる小林。バランスを崩して膝をつき、頭を風呂場の壁にぶつける。アパートの壁は薄い。ゴツンという鈍くうつろな音が響き渡る。
その間にアンジェリカは逃走。捕獲しようとした私の足元も華麗にかいくぐり、びしょぬれのままリビングへ一直線。
「アンジェリカ、ステイ! ステイ!」
大声を上げながら追いかけようとする私。その後ろで、小林が立ち上がろうとして手を動かし、運悪く『シャワーのレバーを押し下げた』。らしい。
何をどうしたらそんなことになるのか。こいつの幸運値はどうなっているのか。
むしろ、この時の自分の幸運値はどうなっていたのか。梨佳に頼んでパラメーターを確認させてもらいたい。そう思わずにいられないくらい、狙ったような動きだった。
水音に気づいて振り返った私の目に入ったものは、シャワーから勢いよく噴き出すぬるま湯と、それに打たれている小林の姿。
「小、小林さん! 何をやってるんですか!」
「ご、ごめん。シャワーを止めるのは、えーっと」
小林は焦った様子でシャワーに手を伸ばしたが、あわてていて判断力を失っていたらしくなぜかシャワーヘッドをわしづかみにした。
水道の構造上、そんなことでお湯がとまるわけもなく。
こちらを向いたシャワーヘッドから、脱衣場の私にお湯が直撃。
「ぎゃああああー!」
「ご、ごめーん!」
響き渡る阿鼻叫喚の声。
その夜、アパートは地獄と化した。




