1 「マニアック」への道
会社を辞めた。
子供の頃から憧れていた仕事で業界でも上り調子の会社だった。
社内の雰囲気も良く、忙しかったけれど楽しく働けた。
しかし三十近くなってくると新入社員の女子たちのまとめ役を任されたり、すでに結婚して産休育休を取っている先輩社員のフォローを任されたりと、自分の仕事以外のことが妙に多くなってきた。
もちろん本来の仕事が減るわけではない。それどころか、むしろどんどん増えていく。
認められてるんだ、任されているんだ。そう思って無理してでも頑張った。
だがそこに、青天の霹靂の私生活トラブル。
四年付き合った同僚の彼が、新入社員の女の子と浮気。というかアッサリ乗り換えられた。
噂は一気に社内をかけめぐり、私は年下の女の子たちから背中を指されて笑われる身分に。
ショックで仕事もミスを連発。先輩たちの目も冷たくなる。
「そんなだから捨てられるんだ」
という筋違いの説教や陰口。
なんかもう、何のために会社に行ってるのか分からなくなってしまった。
それで、結局辞めた。
辞めたらカラッポ。
夢も希望も恋も結婚も、老後の資金も何もない。
全部失った。
私の人生、二十八歳でエンド。
バッカみたい。
この先どうしよう、とフラフラしていた時。
高校時代の友人から連絡が入った。
「咲。会社、辞めたんだって?」
「ウン」
仕方なく認める。でも、いきなり人の傷口にパンチを打ち込むのはやめてほしい。
「良かったー! ちょうど良かった!」
なぜか大喜びする友人。
そう言えばこういう空気の読めないヤツだったよ、コイツは。
「あ、ゴメン。咲が無職になったのが嬉しいわけじゃないの。ただ、咲の力を貸してほしいところだったから、それでつい」
ゴメンというだけコイツも大人になったのだろうか。だが言葉の端々がビミョウに刺さるんだけど。
「それで、何の用」
私はつっけんどんに言う。そういう態度をとる資格はある気がする。
「ウン。咲、乙女ゲー好きだったよね」
友人は言った。
乙女ゲーか……。そんな時代もあったね。
恋に夢や希望を持っていたあの頃、私は確かに結構な数の乙女ゲーをプレイしていた。
全てのエンドをコンプリートし、甘い世界を隅々まで堪能し尽くすのが楽しみだった。
まだ現実というものを知らなかったあの日々がとても遠いものに思えるよ、アハハ。
「実は私、今、乙女ゲーの開発をしているの」
友人は言った。意外だった。彼女はあんまり乙女ゲー好きじゃなかったような?
「それで試作品を体験プレイして、意見を言ってくれる人を探しているのよ。それで咲、どうかなと思って。もちろん報酬は出すよ」
それまでベッドでゴロゴロしながら話をしていた私は、その言葉に身を起こした。
自分から辞表を出したとはいえ、無職の身空では生活に不安がありまくりである。
ゲームして報酬が出るなら、当座のつなぎとしてはありがたいかもしれない。
「あの。いくらくらい?」
その答えは驚くべき額だった。
「コンプリートしたら五百万」
それって! 辞める前の私の年収を超えていますが!
「それに、良かったらうちの会社の研究スタッフとして参加してもらいたくなるかも」
再就職の道も?!
「あ、もしコンプ出来なくても報酬はゼロじゃないから。その場合は相談になるけど」
「やる」
私は言った。
「やる。絶対やる。よろしくお願いします。で、どうすればいいの?」
こうして私はあの恐るべき乙女ゲー、開発タイトル『マニアック』の世界に足を踏み入れることになったのだ。
この時の私は忘れていた。
『ウマい話には裏がある』という過去から語り継がれた教訓があることを。
痛い目に遭ったばかりだというのに、すっかり忘れ去っていたのだ……。