海辺の街
それはちょっとした会話の中の、多分ありふれた世間話のような物だったに違いない。
8月
世間では学生なら夏休みの期間。
都内のとある雑居ビルの中にある事務所での会話だった。
「夏樹探偵事務所」と古びた看板のかかった室内では、来客用のソファーにだらしなく横になり、味のしないスナック菓子を頬張り、少ししわの寄ったスーツを着た女性と、掃除機を抱えたまだ幼さの残るメイド服を着た女性がいつものように口論を繰り広げていた。
「ですから、これから来客というのに、そんなはしたない格好では美夜様の威厳が損なわれます!」
メイド服を着た女性が、めんどくさそうに横になったままの美夜に詰め寄る。
「だってこれから来るの、たかが教育庁のお偉いさんで、次の選挙でまた変わるポストの人だしさ。適当に用件聞いとけばいいの。それに、こんなのいつものことなんだしさ、慣れずに怒ってばっかだと眉間のしわが取れなくなるよ、八重子」
美夜は口の中へ次のスナック菓子を放り込みながら自分を見下ろす八重子に対し笑顔で答えたが、それに対し、八重の眉間のしわは更に深くなった。
「私が怒っているのは、美夜様のだらしなさだけです!大体ですね世界の頂点の位置に立たれる御方が、例え目下の者に対してとしてもそのようなお姿では示しがつきません」
少しヒステリック気味の八重子の台詞に少しうんざりし、美夜は話題を変えることにした。
「そう言えばさ、教育庁で思い出した訳じゃないのだけど、八重子って学校は通ったことあるの?」
少し無茶な話題の転換に、八重子は戸惑い、そして思い出すように口に手をあてる。
「えっと、この姿になってからは以前のお屋敷で下働きだけでしたので、記憶喪失とお屋敷の方に偽った手前、お仕事に必要な数学と、車の免許を取得するに必要な道路交通法を独学で学んだぐらいですよ」
美夜は、努力家らしい八重子に笑みを浮かべ、思い立った事を口にした。
「なら、学校通ってみない?八重子」
「学校ですか?えっと美夜様、私は多分人間年齢でいいますと、大学を卒業したぐらいのはずですが。それに美夜様のお仕事のお手伝いをかまけて学校なんて行く余裕はありません」
八重子は胸を張ってそう言う。その様子が少し可笑しく美夜には映る。
小さな子狐の、自分にとって娘といった感覚さえ持つ八重子は、孤独な自分にとって世間でいう家族に一番近い存在と言えた。
「じゃあ、私の手伝いなら学校に行けるという事ね。大丈夫、これから来るお客の依頼にもかぶる内容だから、社会勉強の一つと思って行っておいで」
「えっ?」
八重子は片手に掃除機を持ったまま話の展開についていけずフリーズし、美夜は大事な家族のその様を心から楽しんだ。
"トントン"
夏樹探偵事務所のドアを叩く音がしたのは、それから数分後のことだった。
9月
隣県の某所に、八重子は一人立っていた。
正確には、ここまでは美夜の赤いスポーツカーで送ってもらったのだが、今ここには美夜はいない。
美夜は用事があると言い、戸惑う八重子に「迎えはすぐ来るから」と言い残し、そのまま去ってしまった。
「はあ、何で事になってしまったんでしょう」
放置された八重子は大きなため息と共にうなだれた。
いつも何かしら掃除道具を片手に、メイド服姿だった八重子としてはどうにも収まりが悪い。
今の八重子は片手に学生鞄、そしてシックなブレザー姿。
たちの悪い罰ゲームとしか思えない自分の姿に、今だけは八重子は美夜を恨めしく思ったのだった。
そんな八重子に一人の女性が近づき、声をかけた。
「お待たせしました、校長の宮坂です。この度は色々とご協力していただけるという事で、本当にありがとうございます。クラスへご案内しますので、どうぞこちらへ」
八重子の前に現れたのは、紺のスーツ着た、知的な眼鏡をかけた女性。
歳は30代半ばぐらいだろうか、長い髪をきれいに後ろにまとめ、大人の落ち着きを見せる女性に、八重子は美夜がせめてこのぐらい、、と何より先に思ったぐらいだ。
そして、八重子は今更になって自分がどこにいるのかを確認した。
ここは敷地の正門でははなく、裏門のようだった。ただ裏門といっても格式が漂うように感じる。
「我が校では、個々の能力を自分で見極め高めることに比重を置いています。お金の話で申し訳ないのですが、それぞれにあった教育というのは理想ですが、とてもコストがかかるのです。ですが、その価値もまた大きく、今は政府の強力な支援を頂いて試験校として我が校は存在しています」
裏門から校舎へと続く道すがら、宮坂は八重子にそう話す。
八重子自身は学校のことは詳しくない。
しかし、お金の必要性、その流れは以前いた環境やここ数年の美夜との仕事の中で承知している。
そしてこの試験校への体験入学が依頼内容ではなかった。何故なら美夜への依頼内容的なのだから。
いつしか八重子の横にいるのは宮坂ではなく、40代ぐらいの丸い眼鏡をかけた細身の男性になっていた。
彼と共に今では珍しい板張りの床を歩き、目的の教室の前で立ち止まる。
見上げた八重子の目に「2-A」と書かれたプレートが映る。
八重子は再び軽くため息をついた。
引くに引けないところに着た感覚という感じだった。
付き添いの男性が教室のドアを開き、中に入る。八重子は教室に入らず、その前で待つことにした。
そして付き添いの男性の声が響く。
「おーい、席にちゃんと着け、夏休み気分ももう終われよ。それとな今日から新入生が入るぞ、どちらかというと主に喜べ男子!」
弱くまじめそうな男性から出た砕けた台詞に、八重子は更にため息をついた。
「何でしょう、この疲労感は。お仕事とは言え、なかなかハードルが高いです。。」
引くに引けないのだから前に進むしかない、八重子は自分にそう叱咤し、教室に入る。
八重子は担任と思われる男性に声をかけられる前にチョークを手に取り、黒板にチョークを走らせ、達筆といえる美しい字を描き終え、振り向いた。
そして、初めて教室の中の生徒を見回す。
生徒の数は20名弱、男子と女子はそれぞれ半数といった構成だった。
「初めまして、夏樹 八重子と申します。今学期よりお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
八重子は上品に軽く頭を下げる。
しばらく静寂があった後、男性、女性問わず「おおっ」といった歓声があがった。
八重子は美夜と暮らす前までは別の姓を名乗っていたが、現在は養女として美夜の籍に入っているため、夏樹の性となっている。
ただ、普段は名前でしか呼ばれないこともあり、自分で名字を名乗るのは新鮮な気分だった。
「じゃあ、廊下側の後ろの空席があるだろ、そこに座ってもらえるかな」
担任の男性が八重子に言った。
短く「はい」と応え、八重子は生徒を見回すと他に空席が二つあることを確認しながら歩き、自分の席に座った。
八重子は鞄から必要な筆記具を取り出し、机に並べる。
机の上には、事前におかれた教科書が重なり置かれていた。
そんな新鮮な体験に、今まで憂鬱だった気分が少し楽になった気がした八重子だったが、ホームルームが終わった同時にまた疲れることになった。
始業式は特に行われず、教室に備え付けられたテレビから先ほど出会った校長の宮坂の挨拶と、生徒会長の女生徒の言葉が流れるというシンプルなもの。
その後は、担任からの話。
初日はこれで終了だったが、気づけば八重子の周りには人だかりが出来ていた。
主に男子生徒が多く、定番といった質問が繰り広げれる。
そんな彼らを自分の美しい容姿が引き付けていることを知らないのは、八重子本人だけだった。
女生徒からは、八重子の大人びた落ち着きと振る舞いや、利用しているコスメに対しての質問が多かった。
八重子は自分が人間年齢としては彼らより年上だが、背もそれほど高くなく童顔のおかげで、周りにすぐに受け入れられた事を何とも微妙な気分で受け入れるしかなかった。
そんな八重子を、席を立たず、じっと見つめる窓際の席に座る男子生徒がいた。
少し癖毛がある短髪の少年。
周りの男子生徒よりも落ち着きがあり、その視線に敵意は感じられない。少年は八重子と目が合うとそっと視線をよけ、窓の外へ視線を移した。
他の女生徒からは、帰りにどこかでお茶をしないかと誘われたが、八重子は今日は迎えが来るからと笑顔で答え、誘いを優しく断った。
それじゃまた次ね、と女生徒達は笑い手を振り立ち去る。
八重子は正門の前にいた。
正門は裏門と違い大きな道路に面し、その向こうには海が広がり、潮風が吹き抜ける。
正門の脇にある横断歩道を渡り、八重子はそこから広がる砂浜と海を見ていた。
仕事とはいえ、しばらく通う土地に心が馳せた。珍しく気分が高鳴る。
10分ほどして、美夜の赤いスポーツカーが現れた。
美夜は八重子の様子を見るとニヤリと笑う。
「まんざらでもないみたいじゃない」
その台詞に、八重子は少し眉間にしわを寄せる。
「そんなことはありません、お仕事ですから」
八重子が車の助手席のドアを開けようとしたとき、近くに自分たちを見つめる視線を感じた。
初めての視線ではない。
先ほど教室で八重子に視線を向けた少年が、車の後ろ近くに立っている。
「あなた何で?」
八重子はまだ名前も知らない少年に戸惑いの声をかけたが、次にでた声は少年ではなく、美夜のものだった。
「久しぶり、大きくなったね。これも何かの縁かしら」
それが八重子と美咲 啓との初めての出会いだった。